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イブキの鍼灸院  作者: ヨモギ・シン


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心陰虚・六三歳男性:患者編・前

しん陰虚いんきょ陰液いんえきの不足によってしんが滋養されなくなり、しんの働きが乱れた状態。動悸や手足のほてり、不眠といった症状が現れる。

 再雇用されてから、三年が経った。収入は下がったが、責任ある役職を退き、以前よりも肩の力を抜いて仕事が出来ている。


岡田(おかだ)さん、このデータ入力をお願いします」


 上司から声をかけられた。

 彼は、三年前まで部下だった男だ。今は、かつて私が就いていた役職に座り、部署全体をまとめている。


「分かりました」


 資料を受け取ると、彼は自分の席へ戻っていった。

 立場は逆転したが、彼から指示されることに抵抗はない。

 上司は、今でもわざわざ私のデスクまで足を運び、指示を伝えてくれる。それは、私が上司だった頃のやり方を真似ているのだろう。周囲の同僚たちも、以前と変わらず接してくれている。気を遣ってそうしてくれているのかもしれないが、おかげで強いストレスを感じることはない。


 仕事量は減ったが、生活リズムは大きくは変わっていない。

 昼食は、妻が用意してくれた弁当だ。彼女も仕事をしているにも関わらず、毎朝欠かさず作ってくれている。辛めの味付けなのは、昔からの私の好みだ。


(今日も、ちょうどいい辛さだ)


 水を欲するほどではないが、しっかりと辛味を感じる。長年食べ続けてきた味だが、一度も飽きたことはない。

 

 頼まれていた仕事は、その日のうちに仕上げて上司へ提出した。


「さすが岡田(おかだ)さん。仕事が早いですね。確認しておきます」

「今日も残業ですか?」


 時計は定時を指そうとしていたが、上司から帰宅の気配は感じられなかった。


「ええ、少しだけ。岡田(おかだ)さんの凄さを、改めて実感しますよ」

「すぐ慣れますよ……では、お先に失礼します」


 そう告げて、私は定時で職場を後にした。


 自宅に帰ると、すでに夕食の支度が整っていた。


「ただいま」

「おかえりなさい」


 子どもたちは数年前に家を出て、それぞれ自立している。今は妻と二人、ゆっくりと生活している。


「今日の夕飯は、麻婆豆腐よ」

「ありがとう」


 昼に続いて、夜も辛い料理だった。麻婆豆腐は、ご飯に乗せて丼にするのが、私のこだわりの食べ方である。

 食後は風呂に入り、寝るまでゆっくりと過ごす。若い頃からの習慣で、床に就くのは日付が変わる頃だ。


――ただ、最近ひとつ困っていることがある。


 先に眠っている妻を起こさないよう、静かに布団へ入る。目を閉じても、なかなか眠りに落ちない。手足がじんわりと熱を帯び、布団の中で落ち着かなくなる。身じろぎをした拍子に、妻を起こしてしまったこともあった。

 ようやく眠れても、今度は胸の辺りが熱くなり、夜中に目が覚めてしまう。気づけば寝巻は汗で湿っている。

 そんな夜が続き、ここ最近は寝不足気味である。

 翌朝、寝巻の湿り気が不快で、いつもより早く目が覚めた。今日は休日だ。本来なら、もう少し眠っていたかったが、こんな状態では寝ていられない。

 水を一杯飲み、着替えようとした頃には、眠気はすっかり消えていた。


(……散歩でも行くか)


 動きやすい服に着替え、玄関の扉を開ける。外は、霧に包まれていた。

 この辺りで霧を見ることは珍しい。長年暮らしてきたが、一度あったかどうかの記憶だ。

 足を踏み出すと、周囲の音が遠のき、霧の中に白い狐が現れた。狐の後ろには、色褪せた鳥居が立っている。


「……こんな所に、鳥居なんてあったか」


 不思議に思いながら近づくと、狐は鳥居の向こうにかけていった。さらに近づくと、木々に囲まれた参道が鳥居の向こうに続いていた。狐は時折こちらを振り返りながら、「ついてこい」と言わんばかりに先へ進んでいく。

 導かれるように参道を歩いて行くと、開けた場所に出た。そこには古い家屋が建っていた。


伊吹(いぶき)はりきゅう院……」


 入口の脇に、控えめな看板がかけられている。


(最近、身体の調子も良くないし……一度、診てもらうか)


 そう思い、私は静かに扉を開けた。

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