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イブキの鍼灸院  作者: ヨモギ・シン


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肝脾不和・二七歳女性:治療編

肝脾かんぴ不和ふわ:精神的ストレスなどによってかんの働きが乱れ、その影響での働きが低下した状態。イライラや腹痛、便通の乱れといった症状が現れる。

 日が暮れてしばらくした頃、扉に取り付けている潜り戸がカタンと鳴った。杉山(すぎやま)先生はすでに帰宅しているため、対応できるのは自分しかいない。

 顔を上げると、巻物を加えた白い狐が入ってきていた。彼が来るのは、新しい患者が来る知らせだ。巻物を受け取り、静かに目を通す。



藤川(ふじかわ)(あおい)、二十七歳の女性。

精神的ストレスにより便秘と下痢を繰り返している。腹痛は排便により軽減する。



 倶生神(くしょうじん)の記録の一部が記された巻物は、この院におけるカルテだ。書かれているのは最低限の情報だけだが、しっかり要点は抑えられている。流石は倶生神(くしょうじん)だ。

 そんな巻物を閉じると、扉の鈴がチリンと鳴った。顔を上げると、見覚えのない女性が立っていた。仕事帰りなのか、きちんとした身なりをしている。だが、肩の力が抜けきっていないように見える。


「あのぉ……」


 戸惑いを含んだ声だった。


「こんばんは。藤川(ふじかわ)(あおい)さんですね」

「え……はい。そうです……ここは?」

伊吹(いぶき)はりきゅう院です。ここへ来られたということは、身体のどこかに辛い場所があるのではありませんか?」


 彼女の症状はすでに知っているが、本人の口から言ってもらい、自身の身体と向き合ってもらいたい。


「そういえば……お腹が痛かったり、酸っぱいものが上がってきたりします」

「分かりました。それではご案内します」


 藤川(ふじかわ)さんを施術室へ案内し、荷物をかごに置いてもらったら、中央のベッドに座ってもらう。


「では、お身体を診ていきます」

「お願いします」


 藤川(ふじかわ)さんは、全てを委ねるように脱力している。まずは手首に指を当てて脈を診る。


(げん)(かん)脈だな)


 琴の弦のように緊張した脈が、自分が息をするうちに四拍ほど打っていた。これは全身の気を調節する(かん)疏泄(そせつ)作用が失調している時に多い脈だ。それと、()(きょ)している反応も出ている。


「舌を出して下さい」


 藤川(ふじかわ)さんは、躊躇いなく舌を出してくれる。


(これは、舌苔(ぜったい)(はく)か)


 白い苔が舌の上に付着していた。健康な人に見られる所見ではあるが、症状が軽いか、出始めの可能性もある。

 脈と舌。それと巻物の内容を合わせると、この(しょう)に辿り着いた。


肝脾(かんぴ)不和(ふわ)(しょう)だな)


 (しょう)を導き出せれば、おのずと治療方針は決まる。それが東洋医学だ。


「施術に移ります。こちらの施術着に着替えてください」


 ベッドの下から取り出した施術着を藤川(ふじかわ)さんに渡し、施術室を出る。

 時間が遅いために、自分と藤川(ふじかわ)さん以外はこの院にはいない。彼女が着替える音が、カーテンの布越しに聞こえるだけだ。


「……着替えました」


 その声を聞いて中に入ると、藤川(ふじかわ)さんは施術着姿で立っていた。そんな彼女をベッドに仰向けで寝るように指示し、タオルをかける。


「それでは最初に、(はり)をしていきます」


 使う(はり)は、一寸一番。この種類はよく使うため、最も手に馴染んでいる。

 まずは前腕にある内関(ないかん)(けつ)(はり)を打ち、すぐに抜く。次は足背の太衝(たいしょう)(けつ)。ここも打ったらすぐに抜く。


「続いてお(きゅう)をしていきます。温かさを感じたら教えて下さい」


 淡い黄白色の(もぐさ)を手に取り、足三里(あしさんり)(けつ)艾炷(がいしゅ)()えていく。八分(はちぶ)ほど燃えたら消し、残った灰の上にまた艾炷(がいしゅ)を据える。藤川(ふじかわ)さんが温かさを感じるまで続ける。


「……暖かくなってきました」


 そう言った藤川(ふじかわ)さんの声は、少し緩んでいた。顔を見ると、目を閉じてリラックスしている。自分の施術でこういう表情をしてくれるのは嬉しい。仰向けの治療はこれで終わろうと思ったが、天枢(てんすう)(けつ)公孫(こうそん)(けつ)への(はり)もしておこう。これらは、()を整えて腹痛を緩和してくれる。


「……それでは今度は、うつ伏せになって下さい」


 眠りかけていた藤川(ふじかわ)さんを起こして、うつ伏せに寝てもらう。日々の仕事は大変のようだ。初めての場所、初めての治療で眠りそうになるほどに、心身共に疲れている。経穴(けいけつ)の反応からもそれは感じられる。


「では背中に施術していきます」


 肝兪(かんゆ)(けつ)(はり)を打って抜き、脾兪(ひゆ)(けつ)にお(きゅう)()えていく。施術箇所は仰向けより少ないが、時間をかけて施術を進める。

 一通りの施術が終わり、藤川(ふじかわ)さんに呼びかけると、彼女はゆっくりと体を起こした。最後に脈を確認すると、最初に診た時よりも落ち着いたものになっていた。体の状態は良くなっている。


「施術は以上で終了です。お身体の状態はいかがですか?」

「なんだかポカポカします」

「気が巡ったからですね。藤川(ふじかわ)さんのお身体は、精神的ストレスによって気の巡りが悪くなり、その影響で消化器系の機能が低下していました。下痢や便秘、それに腹痛がありましたよね?」

「ありました」

「先ほどの施術で、気の巡りを調整しましたので、お腹の調子はよくなっていると思います。ただストレスが掛かるとまたぶり返してしまうので、気をつけて下さい」


 そう言ったものの、精神的ストレスが掛かる状況を変えるのは簡単ではない。藤川(ふじかわ)さんは、恐らく仕事でストレスを感じているのだろう。彼女の表情も、ストレスは避けられないと言っている。


「まずは食事と睡眠をしっかり摂って下さい。体が元気になれば余裕が生まれ、ストレスにも寛容になれますよ」

「分かりました。今日からご飯をいっぱい食べて、しっかり寝ようと思います」


 そう言う藤川(ふじかわ)さんの声は明るかった。帰り支度を済ませてもらい、出口まで案内すると、白い狐が彼女を迎えにきていた。


「帰りは彼について行って下さい。ご自宅の近くまで送ってもらえますので」

「ありがとうございます」

「あと、これをお渡ししておきます」


 藤川(ふじかわ)さんに、『無病息災』と書かれた御守りを渡す。これには、白い狐の体毛が入っている。


「この御守りを持っていると、お身体の調子が悪くなった時に白い狐が迎えにきてくれます。その時は、また治療を受けに来てください」

「分かりました」


 藤川(ふじかわ)さんは一礼をして、霧のかかった参道を降りていった。

 また会うことになるだろう。その時は、今日より少しでも元気な顔を見せてほしい。

 そう心で願いながら、彼女の背中を見送った。

登場経穴

内関ないかん太衝たいしょう足三里あしさんり天枢てんすう公孫こうそん肝兪かんゆ脾兪ひゆ

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