肝脾不和・二七歳女性:患者編・前
肝脾不和:精神的ストレスなどによって肝の働きが乱れ、その影響で脾の働きが低下した状態。イライラや腹痛、便通の乱れといった症状が現れる。
今日も、目覚ましが鳴る少し前に目を覚めた。重だるい体を起こして、会社へ行く身支度をする。朝食を食べる時間はない。
満員電車に揺られた後は、駅のコンビニで今日の昼食のパンを一つ買ってから、会社に入る。『藤川葵』と名前が書かれた社員証を首にかけて、デスクに座る。時計の針は、始業時間にまだ達してはいない。
繁忙期は、一日の仕事量が格段に増える。始業前に出勤するのも不思議ではない。
パソコンを開くと、すでにいくつかのメールが届いていた。修正依頼、進行確認、打ち合わせ時間の変更。内容を一通ずつ確認していくうちに、自然とため息が漏れる。
「藤川さん、昨日の件なんだけど……」
メール対応をしているところに、背後から同僚の声がかかった。後にして欲しいと思いながら、すぐに椅子を回す。
「先方から追加の注文があってね。転送しておいたから、対応しておいてくれる?」
同僚は困ったように眉を寄せ、こちらの様子を窺っている。
(そっちで対応してくれれば良いのに……)
心の内で不満をこぼすが、表情には出さない。同僚へは愛想の良い笑顔を向ける。
「分かりました。確認しておきます」
「助かるわ。ありがとう」
同僚は安心したように言い、自分のデスクへ戻っていった。
「はぁ……」
小さく息を吐き、再び画面に向き直る。メールボックスには、確かに追加の注文が届いていた。読んでいくと、納期はそのままにして欲しいという一文に目が止まった。
無理だ、とすぐに思った。制作部に聞くまでもなく答えは見えている。
ただ、自分には決定権がない。
社内電話を取り、制作部へ連絡を入れる。受話器を握る手に、じんわりと汗が滲んでくる。
「追加のご相談なんですが――」
受話器の向こうから返ってきたのは、予想通りの言葉だった。
――納期変更なしでは注文は受けられない。無茶な注文はやめてほしい。
自分が決めたわけではないのに、電話越しに頭を下げる。
受話器を置いた瞬間、酸っぱいものが込み上げてきて、えずいた。
(まただ)
この手の対応をした時には、いつもこうなる。この後しばらくすると、お腹が張ったような痛みが出てくる。
痛みを感じ始めても、仕事の手は止めない。休んでいられるほど時間に余裕はないからだ。ある程度の区切りがつくまでは我慢して、トイレに立つ。用を済ませると、痛みは少し和らぐ。これもいつもの現象だ。今回の便は、数日前に比べてゆるかったが、特に気にはせず席に戻り、すぐに業務を再開する。
気がつくと、昼休みがとうに始まっていた。カバンから、今朝買ったパンを取り出して食べる。パンを口に運びながら、頭の中で午後の作業スケジュールを組んでいく。
午後も、業務は途切れなかった。黙々と作業を続け、腹痛を感じれば区切りをつけて席を立つ。それを何度も繰り返す。
定時を過ぎてしばらく、やっと今日の終わりが見えてきた。オフィスが少しずつ暗くなっていくなか作業を続け、ようやく仕事が終わった。
「……終わった」
椅子にもたれかかり、お腹の張りを感じながら、固まった体を伸ばす。
定時で仕事が終わらない日は多い。繁忙期なら尚更だ。今日みたいに遅い日は、夕食は即席になるだろう。夕食の時間があるだけ良い方だ。
「家に何があったかな」
そんなことを考えながら会社を出ると、外はすっかり日が暮れて、駅へ向かう人影もまばらであった。自分の足音だけが響き、夜風が肌に染みる。
静かな帰り道で、再びお腹の張りを感じた、その時だった。空気がいつもより澄んだように感じたと思ったら、辺りに霧がかかってきた。
思わず足をとめ、周りを見渡すと、色褪せた鳥居の下に、白い狐がいた。
「キレイ……」
その美しさに、目を奪われ、自然と歩みが狐に向かっていく。手が触れられる距離まで近づいても、狐は逃げる様子はない。そっと手を伸ばし、毛並みに触れてみる。だがその瞬間、狐はスルッと抜け出して、鳥居の向こうへとかけていった。
狐を追っていくと、いつしか木々に囲まれた参道を歩いていることに気がついた。灯籠の火が霧の向こうにぼんやりと見える。不思議な場所だったが、足は止まらなかった。
しばらく歩くと、霧の中に古い家屋が見えてきた。玄関先には、小さな看板が掛けられている。
「伊吹はりきゅう院……」
看板の文字を呟き、扉をそっと開けた。




