第23話 エピローグ
エピローグですが、あと一話だけ続きます。
楽しみですね。
どこかで聞いたような、寄せては返す柔らかな音に意識が浮上する。
目を開くと、そこは真っ白なシーツの上だった。爽やかな香りを含んだ風が、髪を撫でるように吹き抜けていく。風の元を辿るように視線を上げればすぐ側にひらひらと風に舞うレースのカーテンと、光の差す真っ白な窓枠が見えた。
何の気なしに体を起こし、窓枠に手をかけて外をのぞく。建物の三階くらいの高さだろうか。これも白で統一された建物と低い木々が下に見え、少し離れた場所にキラキラと光る青いものが見えた。なんだろう、と考えると、今まで絵画でしか見たことがない存在に思い当たった。
「……海だ」
さっきから微かに聞こえるこれは、波の音だったのか。知らない部屋に知らない景色。あまりにも現実感がない。
しばらくぼんやり眺めていると、シーツの肌触りが恋しくなり、もう一度ベッドに倒れ込む。風と音があまりにも心地よくて、またまどろみそうになる。
そういえば、ここはどこで、俺は何をしていたんだっけ?
疑問が頭に浮かんだ途端、一気に目が覚めて跳ね起きた。手のひらを目の前にかざし、質感を確かめる。色も形も、変化はない。
体に巻き付けられていた白い布を半分剥がし、直接触れて確かめてみれば角はおろか羽や尻尾さえ生えていなかった。拍子抜けして、ベッドに座り込む。
体調はいいし、あまりにも堕ちた実感がない。全て夢であった方が、まだ説得力がある。
しばし考えていると、ふと気がついて心臓に手を当てる。うっすらと感じる鼓動が、異様に遅い。まさかと思い指を揃えて手首に当て、確信した。
安心したような、静かな諦念が押し寄せる。
「あー、さすがに夢じゃなかったか」
堕ちたにしては、信じられないくらいに些細な変化だけれど。聞かされていた内容とはかけ離れた体の状態に困惑し、眉根を寄せて首の後ろをさする。すると、ベッドの正面のドアから、誰かが入ってきた。白い部屋の中を、静かに歩み寄ってくる。
愛嬌のある緑の垂れ目に、柔らかそうな曲線を描く白い頬。淡い紅色に染まった唇には、どこか色気を感じさせる微笑みが乗せられている。
窓から差す淡い光をミルク色の肌が照り返し、むっちりとしたボディラインを際立たせている。
首元にあったはずの隷属紋は下へと広がって胸元を飾り、脈打つように淡い緑色の光を放っていた。
見慣れた姿でありながら少し違う雰囲気のリースは、やたら布面積の狭い、黒い服をまとっていた。同じ色をした腰の羽も長いしっぽも、背後で揺れている。
「おはよう、ティモ。気分はどう?」
「あ、あぁ、おはよう」
微笑む顔も甘い声も、いつも通りだ。しかし、まともに返事をする前に、その頭へ目がいってしまった。
リースの耳の少し上から、黒い角が生えている。ミリヤと同じ形でそれより少し大きい、くるりと巻いた立派な角だ。
「お前、それどうしたんだ?」
「あぁ、これ?」
リースは角に手をやり、形を確かめるようにさすった。亜麻色のくせっ毛が、手の動きに合わせて小さく踊る。
「ティモを堕としてから、生えてきたの」
「生えてきた?」
「うん。淫魔が人間を堕とすと、たまに生えてくるんだって」
リースはうなずき、こちらへ近付いてきた。ベッドに乗り上げ、当然のように俺の背中へ腕を絡める。
「ねぇ、ティモはこれ、好きじゃない?」
生えた角を見せつけるように首を傾げる。言葉に反して表情は柔らかく、どこか期待するようなまなざしで微笑みを浮かべている。
「悪くねぇ。…いや、むしろ」
言葉を切り、手を伸ばして角に触れた。しっかりと硬く、指を滑らせればなめらかな場所とざらついた場所が交互に触れる。
髪との境目をなぞり、爪を立てて根本をカリカリとかけば、リースはむず痒そうに片目をつぶった。頬にはほんのりと紅色が差している。
「いい反応じゃん。可愛がる場所が増えた」
「嬉しい、ティモ!だいすき!」
「んぶっ!」
リースは飛びつくように俺の頭を抱きしめた。むっちり柔らかい胸が顔を圧迫して、息が吸えない。けれども、一向に苦しくならない。逆に恐ろしくなり、リースの体を引きはがす。
「そういえば、前の体とほとんど変わらないんだけど。堕落したら、もっと体に変化が出るもんじゃないのか?」
「だって、ティモがそう願ったんでしょう?」
「え?」
「体だけは拾ってくれって。だから、体はできるだけそのままにしたよ。大好きな、ティモの願いだもの」
「…ははっ」
その目には、一点の曇りも衒いも他意もない。あるのは純粋で無邪気な光だけだ。人間のものさしではとても測れない。やはりこいつは魔のものだ。でも今や、俺もすっかり魔のものだ。取り立てて騒ぐことではない。
「それ以外はどうなんだ?俺の体以外、お前にくれてやるとも言っただろ?」
「うーん。それがね、ティモの心は元々僕のものだったみたいなの。触って確かめてみたら、僕の思った形とぴったり一緒だった。変える気もなかったけど、変える必要もなかったんだ」
「要領を得ないな。つまり?」
「ティモが、心から僕のことをかわいいって思ってて、大好きだったってこと!」
「…そうかよ」
笑顔で言い切られたら、言い訳のしようがない。本当に今まで、調子を狂わされっぱなしだ。
「そういえば、何か変わった感じって、ある?」
「いや、ほとんどないな」
「そう。よかった」
隣に座ったリースはもじもじと指を動かし、決心したように顔を上げた。
「あのね、ティモ。僕のこと、愛してる?」
「心を触って確かめたなら、わかってるだろ?」
いつも通りさらっと流そうとすれば、リースは不服そうに頬を膨らませた。向き合うように、体を寄せてくる。
「ねぇ、ちゃんと言って。僕、ティモの気持ち、一回もちゃんと聞いてないの」
真剣な目の色だ。火刑の時でさえ、言わなかったのに。もうこうなったら、観念するしかねぇな。ベッドを降り、リースの前に膝をついて向き直る。
「初めて会った時は、まさかこうなるとは思っていなかった。本気で使い捨てるつもりだった。でもお前に、段々と情が湧いちまった。お前に言っていた『かわいい』が、戯言なのか本気なのか自分でもわからなくなっちまった」
言葉を切って、一度息を継ぐ。リースはにこにこと言葉の続きを待っている。
「今まで散々積み上げて、必死で神父としての像を作ってきた。でも、それが危うくなるとわかっていても、どんどん魅入られていった。お前、見事に堕としてくれたな。今だから言えるが、強くてかわいくて立派な淫魔だよ」
「それでそれで、今は僕のことをどう思っているの?」
口から乾いた笑いがこぼれた。きっとリースからは、困り顔で笑っているように見えるだろう。最後まで逃がしてはくれないようだ。
「あの時、全てを捨ててでもお前と一緒に生きたいと思った。その後の俺の魂がどうなろうと、お前に破滅させられるならそれでもいいと思った。お前を信じてよかった。…愛してるよ、リース」
一歩近付いてリースの顎をすくい上げ、そっと唇を合わせた。何度も角度を変え、長い時間そうしていた。ようやく離れた時、リースの目は微かに潤んでいた。
「僕も!ティモのこと、ずーっと愛してる!」
リースが頬を擦りつける。同時に、角がゴリゴリと当たった。想像以上に痛くない。だからこそ、いくらでも抱きしめていられた。
これからは『仕方ない』で済ませることはできないな。俺が渡して、リースが受け取った。
抱きついてきたリースの背中を、しっかりと抱きしめ返す。
滑らかな肌に、むっちりと腕が沈んだ。この時ばかりは高鳴る心臓に、俺は思わず笑ってしまった。
堕落の先に待っていたのは破滅ではなかった。あるのはただ、限りなく純粋で美しい、『淫魔の愛』だった。
その奇跡を、今は純粋に喜ぼう。何より愛しくて、最高にかわいいこの淫魔と一緒に。




