第20話 リースの記憶
ティモに契約を破棄された。逃げろって、怒鳴られた。
あんな顔も、あんな声も、初めてだ。びっくりして、悲しくて、思わず逃げてきてしまった。
首元の隷属紋は色がなくなったまま戻らない。喉が苦しくなって、繋がりが切られてしまったことがわかった。掴んだままだったマフラーを首に巻き、息を吐いた。
どうしたらいいのかわからずに、行くあてもなく林の中をさまよって、しばらく経つ。気づいたら空は暗くなり、夜の匂いがし始めた。下を向いた僕は、ふと立ち止まった。濃い緑色の葉っぱが沢山集まって、地面を覆っている。これは、いつかティモに教えてもらった野いちごの葉っぱだ。
「ティモ…」
急にとても悲しくなって、しゃがみ込む。葉っぱをかき分けて赤い実を探すけど、一つも見つからなかった。濃い緑の葉っぱは、向こうまで続いている。そうだ、もしかしたら、ティモが帰ってきているかも。あのお家で、僕が戻るのを、待っていてくれているかも。これを辿ればお家に着くはずだ。僕は立ち上がり、首に巻いたマフラーを握って、足を進めた。
やっと着いたお家には、強い力で結界が張られていた。とても近づけそうにない。でも、どの窓にも灯りは灯っていなかった。それだけで、ティモがいないことはわかった。僕は暗いお家に背を向けて、ある場所に向かった。
月の光がいっぱいに差す、林の中の広場だ。ここだけはあまり草が生えていないから、むき出しの土が広がっている。
柔らかな土を踏みしめて、広場の真ん中へうずくまった。ティモテと初めて会った場所は、確かこの辺りだった。
あの夜に頑張って掘った穴は、綺麗に埋められ、雨と風によって場所もわからなくなっていた。
ここだと思う場所にうつぶせになってぺったりと土に頬を付け、目だけで空を見上げる。ここで待っていれば、ティモが探しに来た時に見つけやすいかもしれない。土と葉っぱの匂いの中、僕は静かに丸い月を見上げていた。
***
ふと、昔のことを思い出した。
気づいたら、せまくて暗いところにいた。あとから聞いたけれど、そこは『路地裏』っていう場所だったらしい。
何をしていいかわからずにぼんやりと立っていれば、きゅるりと体の真ん中が鳴った。勝手に手が動いて、音が出た場所に当てられる。訳も分からずさすっていると、少し遠くの明るい場所に、丸くて光るものがいくつものぞいた。それを眺める間もなく、数体の子どもたちが走ってきて、僕の周りを囲んだ。
『はじめまして。新入り?』
『そうみたい。やっぱりここって、私たちみたいなのが生まれやすいんだね!』
『えっと、おなか空いてるのかな?』
『じゃあご飯、もらいにいこっか!』
彼らは笑顔で口々に言うと、僕の体の端っこを握って引っ張った。
僕と同じ存在の子どもたちに手を引かれて、発生したばかりの僕は路地裏から街へと駆け出していった。僕らの『ごはん』を探すために。
僕は、彼らと同じだと思っていた。構造も、やり方も、同じだって。でも。
他の子たちは、上手に精をねだって、人間に『ごはん』をもらっていた。
僕は、上手くできなかった。
手を繋ぐだけでお腹が空いて、手のひらから精を吸う。肌に口付ければもっとたくさん吸えるから、夢中で啜ってしまう。気がつけば喚きながら振り払われた後で、相手が逃げ出す背中を見送っていた。時には、思い切り殴られて地面に倒れていた。
怒鳴られるのも殴られるのも怖くて痛かったけれど、空腹になれば我を忘れて啜り続けてしまう。同じことのくり返しだ。精を分けてくれた仲間たちも『あげる分以上に吸わないで』と言って、そのうちみんな離れていった。
だから僕は長い間ずっと、お腹を空かせていた。
ある夜、声をかけられた。振り返れば、顔が真っ赤でひげのたくさん生えたおじさんがいた。ふらふらと足取りがおぼつかないようで、完全に酔っぱらっていた。
『おい、お前淫魔だろ。一戦相手しろや』
おじさんは僕の顔を見ると、酒に焼けたガラガラの声で喚いた。ちょうどよかった。僕もすごくお腹が空いていたんだ。
『いいよ。どこでするの?』
僕はおじさんに近づいた。かなりお酒の匂いがする。あまり好きな匂いではないけれど、それよりもお腹が満たせる喜びが勝っていた。
『うわ、雄かよ。つまんねぇの』
おじさんは、声で僕の体の性別がわかったらしい。残念そうな顔をしたおじさんは、それでもすぐに、にんまりと笑った。
『雄でも我慢してやる。とっととこっちに来い』
おじさんは僕の腕を乱暴に掴んだ。途端に、お腹が空いてくる。空いて、空いて、目の前に精を蓄えた人間がいる。目の奥が開く。おなかが、すいた。
僕の腕を掴んでいる手を、逆の手で握り返す。そのまま腕からはがすように指先を差し込み、両手で包むように持ち上げた。おじさんは一瞬驚いたような顔をしたけど、握手した手の向こう側にある僕の表情を見てまたニタリと笑った。
『なんだ。雄のくせに、いい顔するじゃねぇか』
浮ついた声を出すおじさんは、手を振り払おうとはしなかった。そのままおでこを押し当てて、目を閉じた。
精力が、力が流れ込んでくる。少しずつ、少しずつ。おじさんは、何が起きているかわからないようだ。僕のお腹が満ちるまでそのままでいい。おでこだとまどろっこしくなって、僕は自分の組んだ指に唇を当てた。内側に閉じ込めた手からゆっくりと、息を吸うように精を啜る。少し薄いけれど、おいしい。おじさんの手が暴れて頭を叩くけれど、痛くない。ただ、力がお腹に落ちていく感覚が心地良い。ずっとだって吸い続けられる。僕がお腹いっぱいになるまで、いくらでも。
だけど、急に流れ込む精が止まった。お腹は満たされていないのに、どうして。苛立ちに目を開ければ、おじさんが倒れていた。白目を向いて、泡を吹いて、ピクピクと痙攣している。
『おじさん!』
慌てて背中を叩くけれど、おじさんは起きなかった。その内、痙攣も止まった。つついても反応はない。もしかして、精を吸いすぎて殺してしまったのかもしれない。どうしよう、これがバレたら神父たちに祓われちゃう。そういえばこういう時、人間は土に埋めるんだっけ。その辺だとすぐにバレちゃうから、木のたくさん生えている所にしよう。
僕はおじさんの体を背中に乗せて引きずるように、無我夢中でどこかの林を目指した。
その夜僕は、ティモと出会った。
僕を祓おうとしたティモの提案を受け入れて、近くのお家に行き、寝床の上で首を掴まれて隷属の契約を持ちかけられた。僕がすんなり承諾したので、ティモは面食らったような顔をしていた。とにかく、お腹を満たしてくれれば何でもいい。その一心で、僕は喉元に焼き付く隷属紋の光を眺めていた。
その夜僕は、はじめて最後まで食べさせてもらった。時々隷属紋の力で、首を絞められるように吸う量を制御させられたけど、今までよりずっと多くの精を腹に納めてもらった。神父の精は毒だと聞いていたけど、想像していたような痛みや苦しみはなくて安心した。かわいいと囁かれて、お腹を満たされて眠る感覚が幸せだった。ティモは僕の髪を手で梳きながら、死ぬまで毎日精をくれると言った。
ものすごく嬉しかった。これで、生きている限り飢えることはないんだ。僕はティモの胸に額を押し当てて、顔を見られないようにしながら喜びに笑った。
次の日からも、ティモは僕に優しくしてくれた。噛んで飲み込むご飯と安心できる寝床をくれて、暖かい着るものもくれた。『ただ居るだけでいい』と、居場所もくれた。
僕がかわいいことにも、気づかせてくれた。かわいくなろうとして、毎日毎日ティモがいない間は寝床の布団にくるまって、ゆっくり精を力に変換していった。そしてその力を使ってティモの匂いを吸いながら、ティモのことを思い浮かべて、ゆっくり体を成長させていった。
月が欠けて、また満ちた頃、僕の体は完成していた。ティモ好みの、大きくて柔らかくて、かわいい体に。
ティモは、今までと変わらず僕のことを『かわいい』と褒めてくれた。言葉にしてくれるのは、精をもらう時だけのことだけれど。
僕の頬を撫でるとき、ティモは柔らかく目を細める。同じくらい優しく、口元も緩める。ティモが僕のことを本当に『かわいい』って思ってくれている。それが、気持ちを読まなくても伝わってくる。だから、言葉でもらわなくても十分だった。
名前をもらった。名前を知った。魔術も、教えてもらった。お出かけも、何度もした。幸せだ。幸せだった。
でも、ティモのいる『教会』は、僕のことを敵として見ていた。ティモは、僕を祓わずに契約を破棄して追い出した。きっとティモは『教会』に取られていったんだろう。
この後、ティモがどうなるかはわからない。でも、ティモからたくさんもらった。まだまだ、ティモがほしい。ティモの全部、僕がほしい。全てをかけてでも、ティモを手に入れたい。
だって僕の全部は、ティモが『かわいい』って言ってくれたからできたんだもの。契約の繋がりは破棄されたけれど、僕の気持ちは変わらない。
僕だけじゃ何にもわからないから、誰かにティモを手に入れる方法を教えてもらいに行かないといけない。だから今は、こんな場所で寝ている場合じゃない。
強くこぶしを握って、僕はゆっくりと目を開いた。




