第19話 牢獄
ひんやりした感触と、体の痛みで目を覚ます。どうやら眠っていたようだ。数度まばたきをしてよく見れば、そこは薄暗い石造りの部屋だった。体を見下ろすと、鉄格子の黒い影が粗末な麻の服に縞模様を作っている。おそらくここは教会の地下にある牢獄で、俺は意識のないまま閉じ込められたらしい。
少しずつ状況を理解して体を起こそうとすれば、左手に激痛が走った。薄暗い部屋の中でもわかるほどに赤く腫れ、所々血が滲んでいる。普通の傷ではないから、すぐにはふさがらないらしい。起き上がるのは諦め、再び横たわった。ごろりと上を向けば、視界の端に小さな窓があった。切り取られた闇の中、いくつかの星と細く白い三日月が浮かんでいる。少なくとも雨は降っていないらしい。
俺を捕らえに来た教会の奴ら、見ない顔ばかりだったな。きっと司教が変な情を起こさせないよう、俺と関わりのない奴らを選んで連れてきたんだろう。意識が朦朧としていてよく覚えていないが、魔力切れでまともに立てない男を連れてくるのはさぞ骨が折れただろうな。
それよりも、司教は思った以上に執念深いらしい。リースはちゃんと逃げられただろうか。
「ティモ」
思考を巡らせていると、ふとどこからか低くひそめた男の声が聞こえた。目を開ければ、鉄格子の向こうに一つの人影があった。鼠色のロングコートの裾を少し引きずりつつ、フードの下からこちらを見ている。
「ティモ、起きてる?」
「…起きてるよ」
自分の声は、思った以上に掠れていた。せめて体を起こそうとしたが、あまりのだるさに体の向きを変えるのが精一杯だった。魔力はまだ回復していないようだ。それを聞いてか、マチェールはしゃがみ込み、俯いて息を吐いた。眼鏡が鉄格子に当たり、カツンと微かな音を立てる。
「馬鹿だなぁ、教会に逆らうなんて。こうなるくらいなら、あの淫魔を祓えばよかったのに」
呟くようなその言葉に怒りはわかなかった。浮かんできたのは、共感だ。そりゃそうだ。自分でも馬鹿だと思う。深く息を吸い込み、少しだけ声量を上げる。
「できるならやってる。…できなかったんだ」
「……」
「どうせ決心はつかなかったし、祓ったとしてもどうせ何かの処罰を受ける。二人で逃げ出したところでいつかは捕まる。だったらリースだけでも逃がした方がまだマシだ。そう思ったんだ」
「でも、その結果君が処刑されてしまったら元も子もないじゃんか…!」
マチェールは鉄格子を掴んだまま下を向いた。逆光でよく見えないが、小さく鼻をすする音と、ぽたりぽたりと雫の落ちる音が聞こえる。
「聞いてくれよ。あいつ、俺の持ち帰った聖水を見て『お土産?』とか言いやがった。聖水を向けたら、やっと自覚したらしいが、落ち着いた顔でいつか祓うはずの契約だったからとかのたまいやがる。……それ聞いたらもう、色んなものが失せちまったんだ」
「ティモ……」
「はは、笑ってくれよ。文字通り、俺は淫魔に唆されて身を滅ぼした。馬鹿なことをしたもんだよなぁ」
くつくつと喉の奥で笑えば、マチェールの方からギリッと音が聞こえた。手が震えるほどに鉄格子を握りしめたマチェールは、俺の視線に気付くと手を離し、俺の方へ差し向けてきた。具体的には、俺の左手に。
「じゃあ、っ、悪魔に堕ちる寸前で、教会に浄化されることを選んだ馬鹿な君に…、餞別をあげるよ。このくらいしか、できないけれど」
小さくしゃくり上げながら呼びかけられた言葉に、示された左手を右手で支えてマチェールの方に寄せた。格子の隙間から腕を差し入れて、俺の腫れた左手を覆うように両手で包んだマチェールは、微かな声で詠唱を始めた。手の内で生まれた淡く白い光に、痛みがゆっくりと溶け出していく。光に照らされた詠唱中のマチェールの顔は、昔から変わらない。眼鏡越しの伏せた目も、迷うことなく詠唱を紡ぐ薄い唇も、特徴的な黒い巻き毛も。学生時代から見続けていたままの表情だ。
「やっぱり、ちゃんと組み立てた魔術はすごいな」
マチェールの顔を見ながら呟くと、マチェールはキッと俺を睨んできた。そうそう、詠唱中に話しかけるとこいつは怒るんだ。懐かしく思って笑いが出た。やがて光が収まると、そこには見慣れた俺の左手があった。痛くも痒くも、赤く腫れ上がってもいない。魔力切れ特有の体のだるさも取れた。綺麗に治った左手を何度か握り、体を起こす。
「ありがとう、マチェール」
「……なんで僕、あの時止めようとしなかったんだろう。魔術にかまけて、ちゃんと偉くなろうとも思わなかった。そしたら口添えもできたかもしれないのに」
「俺は自分で選んだんだ。お前が気負うな」
「こうなるくらいなら、いっそ僕が祓っていれば…!」
「お前がそうしなくて、本当によかったよ」
マチェールは自身のストールに顔をうずめて声を殺して泣いている。肩を叩いて顔を上げさせれば、ズレた眼鏡に粘液だらけのひどい顔をしていた。ひぐ、ひぐとしゃくり上げて口を歪めている。治った手で眼鏡を直してやれば、さらにくしゃりと顔を歪めた。同時に、奥の廊下から足音が聞こえてくる。そろそろ見張りが回って来る時間か。
「早く顔を隠して行った方がいい。お前も共犯扱いされるぞ」
「本当に、残酷なんだから…」
マチェールは、鉄格子に掴まりながら立ち上がる。眼鏡を上げて顔を拭き、改めて俺を見つめた。まだ潤んでいるその目は、それでも強く光っていた。
「明日はティモテのこと、見守ってるから。……目を逸らさずに、最後まで見届けるから」
「ありがとうな。元気でやれよ、親友」
「ほんとに、……っ、馬鹿なティモテ。……今まで、ありがとうね」
マチェールはそのまま、小走りで立ち去った。不思議と足音がしない訳は、足裏から散っている微かな光で理解した。器用なやつだな。
ひとりごちて鉄格子に背を向けて転がり、眠っているふりをした。見張りの足音を何度か聞きながら、夜明けの鐘が鳴る時まで、俺は暗闇の中にうっすらと白く浮かぶ左手を見つめていた。




