第17話 契約破棄
やっと家に帰り着いた時には、もう夕暮れ時になっていた。
数度ためらいながら鍵を開き、玄関のドアを押し開ければリースはテーブルについて榛色のマグカップを傾けていた。リースがこちらに振り向くと、白いセーターの腰部分がひらりと揺れ、服の間から黒い羽が飛び出してくる。ぱたぱたと小さく羽ばたくそれを隠そうともせず、リースは両手でマグカップを置いて立ち上がる。
「おかえり!呼び出し、どうだった?」
屈託のない笑顔で歩み寄るリースの体を押しのけ、乱暴に椅子へ腰かけた。下げた視線の先で、リースの足が近付いてくる。
「……?元気、ないね」
怪訝そうに覗き込むのは、いつもの瞳だ。宝石の色をそのまま映したような、曇りのない綺麗な緑色。頬に手を伸ばせば、撫でられる準備をするように目を閉じた。叩かれるとか傷付けられるとか、ほんの少しも思っていない顔だ。
こぶしを握って手を引けば、リースは不思議そうに目を開けた。その顔を直視できず、目を逸らす。
「ほんとにどうしたの、ティモ。司教の人に何か言われた?」
リースは心配そうに首を傾げている。答えられずにいると、隣からことりと静かな音がした。目線をやれば、そこには淡い緑色のマグカップがあった。柔らかく湯気を上げるそれは、いつかリースと一緒に裏の林の薬草を刈って作った薬草茶だ。その香ばしく甘苦い香りに、歯を食いしばる。
「そんな時は、温かいものを飲むといいんだって。ミリヤさんが言ってたよ」
顔を上げれば、リースは正面に椅子を置いて座っていた。自分のマグカップから美味しそうに茶を啜り、俺を見てにっこりと笑う。胸元の瓶が、一瞬で重さを増した。ゆっくり息を吐いて、取り出したそれをテーブルに置く。ただの透明な液体に見えるが、中身は精度の高い聖水だ。司教から手渡されたその瓶を、リースは不思議そうに眺めていた。
「きれい。それ、お土産?」
椅子から身を乗り出したリースはおもむろに、何の警戒もなく手を伸ばした。とっさに瓶を引ったくり、リースから遠ざける。リースは目をぱちくりとまばたいて、ますます不思議そうな顔で見つめてきた。
「危ねぇよ!聖水もわからねぇのか!」
「せい…すい?」
初めて聞くような口調で首を傾げるリースは、本気でこれが何かわからないようだった。呑気にしやがって。お前、これをかけられたら全身が爛れて溶けて消えるんだぞ。言い含める代わりに、顔を軽く睨む。
「どうして聖水なんか持ってるの?」
「……」
「どっかから、くすねてきたの?誰に売るの?」
「お前なぁ…。神父に聖水出されてんだぞ?」
その言葉で、ようやくリースはぴくっと体をこわばらせる。ここまで言ってやっと思い当たったようだ。体の力が抜ける。あまりの危機感のなさに、逆に笑えてきてしまった。
「もしかして、僕を祓えって命令されたの?」
「……。そーだよ。目を付けられちまってたらしい」
隠蔽魔術を使っていても、あんなに街を連れ回してれば当然だ。それに、教会が刺客を差し向けてまで素行調査をするなんて。気付けなかった俺も気が抜けていた。楽しさにかまけて、どれだけ迂闊なことをしてしまったんだ。自責と後悔が頭を巡る。
「ティモ。僕を、祓うの?」
「……。なんで言わせようとするんだよ」
ため息を吐いて、片手で聖水の蓋を開ける。中の透明な液体がたぷんと揺れて、ごく淡い虹色の波紋を浮かべる。見た目だけなら、とても綺麗だ。悪魔に及ぼす効果は、とんでもなく残酷なものだが。
リースは、聖水が向けられるのを見てもなお、椅子から立ち上がりさえしなかった。俺の顔だけをじっと見つめている。しばらく見つめ合った後、リースは首元の隷属紋に手をやりつつ、口を開いた。
「ティモ、僕を祓うんだね。……いいよ。元々そういう契約だった。僕、なるべく暴れないように頑張るから」
「……ッ!」
「もし暴れてお家を壊しそうになったら、これで『動くな』って命令して。ティモの大切なお家、なくしたくないもの」
手の内の瓶が、ミシリと軋む。リースの顔はとても静かだ。こんな時にでも、まなざしや頬のなだらかな丸み、淡い紅色の唇へ目がいってしまう。畜生、本当にかわいいな。口元が緩んだのが自分でもわかってしまい、ゆっくりと息を吐きながら右腕をだらりと垂らした。聖水が、トポトポと音を立てて床に注がれていく。
ちらりと目をやると、微かな虹色の光の雫を跳ねさせながら、瓶は空になっていた。あーあ、と小さく吐き捨てる。
リースは驚いたように立ち上がり、俺の顔と床を見比べている。
「ティモ、全部こぼれちゃったよ!」
「こぼしたんだよ、馬鹿」
あわてて近付いてきたリースの首を、左手でしっかりと掴む。手のひらに全身の魔力を集め、その下の隷属紋に注ぎ込む。手の内が熱くなり、ちりちりと痛み始めると同時に、そこから強い赤紫の光が溢れた。
「ティモ、何を!」
「今更うろたえんなよ。…ッ、普通、危機感覚えるのは逆だろうが」
徐々に強くなる痛みを飲み込み、言葉を紡ぐ。手のひらに込めた意志は、隷属紋の破棄だ。噴き出すように溢れる赤紫色の光とは逆に、首元の隷属紋は急速に色を失っていく。リースは俺の腕を握って何かを叫んでいるが、よく聞こえない。直後、魔力の移動が終わり、光はふっつりと消えた。真っ赤に腫れ、所々血のにじんだ左手を下ろせば、リースの首には灰色にくすんだ隷属紋の跡だけが残されていた。大きく息を吸って腹に力を込め、普段通りの声を出すように努める。
「契約は、破棄だ。どこへでも逃げちまえ。じきに教会の奴らが来る」
「でも…!」
「うるせぇな。早く出ていけ!」
リースは目を大きく見開き、羽も尻尾もピンと立てていた。初めて聞く怒鳴り声に驚いたようだ。立ち上がろうとしないのでつかつかと玄関へと向かい、乱暴に扉を開け放った。
「いいからさっさと行け!命令だ!」
リースはきゅっと顔を歪めた。のろのろと立ち上がって、玄関に近付いてくる。すれ違う時に、一度目が合った。わざと逸らし、再度目をやった時には、もうリースはいなくなっていた。外を見回しても、どこにも見当たらない。それを確認すると、急に強いめまいに襲われた。魔力切れだ。どうにか扉を閉めると壁に背中をつけて、ずるずると座り込んだ。左手は相変わらず、ズキズキと痛む。右手で手首をさすれば、少しだけ気が紛れた。そのまま仰け反るように上を見る。
あーあ、何やってんだか。淫魔なんかに情を移しちまった。これまでの人生全部おじゃんだ。
荒い呼吸をくり返しながら物思いにふけっていると、程なくして玄関の扉が大きな音を立てて開けられた。同時に、室内に茜色の光が差す。反対に、俺の周囲がさっと暗くなった。
「淫魔を逃がしたな。ティモテ・アラベール」
普段より冷たく硬い司祭長の声が、ずっしりと圧力を持って上から降ってきた。その後ろから黒いカソックを着た連中が現れてドカドカと家に上がり込み、俺を取り囲んだ。感情を押し殺したような顔で見下ろす彼らを見上げ、掠れる声で呟いた。
抵抗はしないから、乱暴に扱うのはやめてくれ。左手がとても痛いんだ。




