37話 怒り
「はあっ……はあっ……」
魔族側の臨時の王。セレスは全身に傷を負いながら、壁にもたれかかっていた。
新品同様の剣はいつしか刃こぼれしており、流麗に纏められていた黒髪は留め具を失い、ボロボロになっていた。
原因はただ一つだ。
目の前に佇む一人の男性。
セレスが師として仰ぐ尊敬する伝説の英雄。
だが、彼はもはや敵だった。
全身全霊を持って戦ったにもかかわらず、全く及ばない。
放ったはずの攻撃はあっさりと躱され、去り際に攻撃すら受ける始末だ。
正に赤子の手をひねるように、簡単にいなされていく。
セレスとて彼が離反してから15年間一度も訓練に手を抜いたことはなかった。だが、それでも及ばないのだ。
圧倒的だ。やはり、100年修練しただけでは足元にも及ばないのだ。
「セレス。なに、恥じることはないさ。お前は強くなってる。──だが、それじゃ勝てない」
ダンテには特別な力がある。
『英雄』。そして、もう一つ。誰にも知られていない力があるのだ。
それが、ダンテを最強足らしめている力だ。
だからこそ、何の力も得ていないセレスでは抗うことすら出来ない。
「お前は、中々いいやつだったよ。鍛えれば光るって、そう思ってた」
ダンテは懐かしむように思い出しながらセレスに向けて言った。
「実際、強い。俺と同じような歳月を過ごせば、たぶん俺は負ける」
「それが、本当なら、僥倖ですね……」
お世辞なのか、それとも本気で言っているのか。ダンテは昔から分かりづらいところがあった。
昔の彼は違った。
いつも暗い顔をして、何かを恨むような雰囲気を醸し出していた。
冗談なんて通じるはずもなくて、馬鹿正直な青年だった。
そんな彼は一つの任務を経て、人が変わった。
それが、セレスには信じられなかった。
「ほんとに、なんで、そんなに変わったんですか……?」
セレスはただ疑問をぶつけた。
ダンテは、それから逃げない。
覚悟を決めたような顔つきで、セレスに再び向き直る。
「一人の人間に出会った」
「──」
「それだけだよ。それだけなんだ。──俺からしたら一瞬の出来事みたいだったけど。それでも変えてくれたんだ。俺みたいな馬鹿野郎を」
「ぜひ、会ってみたいですね……。ダンテ様を、変えた女性に」
「超可愛い奴なんだ。──もう二度とお前らには合わせねえさ」
決意を口にし、ダンテはセレスを睨む。
そんな彼の変化に、セレスはほんの少しだけ笑って。
もう一度、闘争を始めるのだった。
「ああ。そんな警戒しなくていいぜ。──正直、この体じゃ何も出来やしないからな」
未だ解けることのない警戒を浴びせ続けられたシュウは──否、アレス・ミザールは警戒を解くように柔らかな口調でそう言った。
「お前は、何者だ」
「だから言ってんだろうよ。──俺は、魔族幹部『憤怒』の席に座らせてもらってる、アレス・ミザールだ」
もう一度、自己紹介をし意地の悪い笑みで返した。
ガイウスが苦渋に顔を染め、アレスはその様子を嬉しそうに見つめ──。
しゅっ、と。目の前を魔力を込めた銃弾が通っていく。
完全なる牽制だ。だからこそ、アレスも避けすらもしなかった。
「貴方が何者かなんてどうでもいい。早く、去りなさい」
「へえ……俺に向かって、銃を向けるとは。怖いもの知らずだな」
ミルの挑発を真っ向から受け止め、ゆっくりと歩み出す。
だがそのオーラを受けても、ミルは身じろぎ一つすらしない。
「凄んでいる所、悪いんだけど。シュウの姿でやっても威厳もなにもないわよ」
「──ほう、『憤怒』の俺を前にして、そんな減らず口が聞けるとなると……覚悟は出来ているのだろうな」
よほど煽り耐性が低いのか、すぐに血管を立てて怒り始める。
いや、それこそが『憤怒』と呼ばれる所以なのかもしれないが。
「所詮、誰かの中でしか生きられないようなら怖くもないわ」
「言ってくれるな。──決めた。俺が復活した暁には君を最初に殺そう」
「復活したところで、怖くもないわ」
目の前で憤怒するアレスを前に、煽るように言葉を続けていくミル。
その勇敢さを前に、ガイウスも笑うしかない。
「本当に、俺を怒らせるのが上手いな」
「そっちが煽り耐性が低いんじゃないの」
しかしそれでも止まる気配はなく、むしろ更にヒートアップしていく口論。
ミルの顔を、一筋の汗が伝う。
確かに、目の前の誰かは圧倒的だ。
シュウの体の中に居ながら伝わってくる強さ。だが、それでも立ち向かうしかない。
これはただの時間稼ぎだ。
いずれ制限時間が過ぎれば、あちらの言う復活か、それともシュウが意識に浮上するだろう。
それを狙っているのだ。
結局、シルヴィアのような力を持たないミルにはこれが最大限の出来ることだった。
我ながら情けなく思う。
ミルにはシルヴィアのような力があるわけではない。
だからこそ、弱者は弱者なりに戦略を考えなければならない。
目の前の相手はもはやミル如きでは対応できなくなってきている。
「おっと、そろそろかな」
そんな風に決意し、もう一度相手の気を引こうと口を開きかけた時だった。
ふと、アレスは何かに気づいたように声を上げた。
「そろそろ? どういう意味か、聞いてみたいわね」
「はは、冗談いうなよ。──確かにこの体にこれ以上居続けるのは無理だ。なんたって、この男には面倒なやつが付いてるんだからよ」
忌々しそうに、アレスはそう呟いた。
傍から聞けば、意味の分からないものだったろう。
一人の体に、これ以上の意識が存在するなどありえない。
本来、一つの体に宿る意志は一つしかないのだから。
「だが、まあ……最後に、おまけでもつけてやるさ」
「──?」
アレスは目を閉じ、両手を上げて降参のようなポーズを取り──。
がっ、と。ミルの首を鷲掴みにする。
「なっ、あ──」
シュウの掌がミルの首を捉え、ギチギチと締め上げ、軽々とミルを持ち上げた。
ミルは拘束から抜け出すために、投げ出された手足をバタバタと暴れさせるがその力は一切緩まない。
「あ──、?」
視界が明滅してくる。
──まずい。
薄れゆく意識の中で、ようやくそれだけを考えた。
ミルの首を掴む尋常でない力。これは確実にシュウの力を凌駕している。
通常のシュウならば、ミルに襲い掛かってきたとしても数秒で吹き飛ばせる。
だが、振りほどけない。
もがくミルの姿をアレスはその瞳に憤怒を乗せながら、愉悦に震えていた。
「はは、どうしたよ。あれだけ大口を叩いたんだ。まさか、これだけで終わりではないだろうな!」
楽しそうに顔を歪め、ミルを掴む力を更に強めるアレス。
異常な握力を前に、ついにミルの抵抗が薄れてくる。
このまま行けば、確実にミルの命は消え去るだろう。
「私を忘れてもらっては困るな」
だが、今この場は彼女一人ではなかった。
ガイウス。彼が剣を抜き放ち、シュウの首に差し向ける。
アレスはそもそも精神体だけの存在だ。自らが宿る器が死のうと、止まらない。
そう思っていた。
だが、そんな予想に反してアレスは剣を恐れるように、ミルの首から手を放した。
「そうか。お前がいたな。──ああ、チクショウ。こんなくそったれな俺に怒りが溜まるぜ」
芝居じみた動きで、二歩三歩と後ろへ下がり、その場にへたり込む。
「さあ、早く出て行ってもらおう」
「ああ。そうするさ。流石にここで死ぬのは話にならない。……が、この怒りはいつか晴らさせてもらうとしよう」
ガイウスはへたり込んだアレスに、しかし警戒を緩めることなく切っ先を向け続ける。
だが、突如。
糸が切れたように、シュウの体が崩れ落ちる。
「──逃げられた、か」
先ほどまでの様子が嘘のように眠りこけるシュウにガイウスは目を走らせ、異常がないことを確認した。
恐らくではあるが、この体を乗っ取っていたアレスという存在はいなくなった。
時間か、それとも彼の言う復活か。
どちらかは分からない。
だが、恐ろしさはある。
ミルという少女はガイウスから見ても手練れだった。
そんな彼女が、少しも反応できなかった。
それほどの実力者を仕留めることが出来なかった。
だが、終わりではない。
これはほんの序章に過ぎない。
これからの絶望に向けての、ただの序章にしか。




