第18話 貴族令嬢、来城(10)
ふと臨場感から解放されて戸惑っていると、慌てて部下が、勇者が飛び降りた場所から下へと顔を覗かせる。
「……どうやら、逃げた? ようです」
暗いのもあって確信を持てぬ報告だった。だが、勇者との戦闘は避けることができた。
今度こそ、一件落着だ。
「危なかった……」
こんな場所で大剣を振るわれたら、避ける場所がなかった。最悪、斬殺されてしまうところだったのだ。あぁ、恐ろしい。我ながら要求を聞こうとしたのは無謀だったな。
しかし、それもビュシーのためだ。
「怪我はあらぬか、ビュシー」
「はい。……あの、ベルシュート様」
「む?」
縄を解いたビュシーが、ソワソワとしている。
「先程、『我のビュシー』と仰いましたよね? それは、つまり……その、ビュシーとの婚約を前提にしていると考えてよろしいのでしょうか?」
「いや、それは……」
まずい……。
つい熱くなって言ってしまったわけで、別にそういうわけではない……と思うのだが、なんというか控えめに我を見つめるビュシーがこの上なく綺麗に見えてしまう。
「あ、ごめんなさい。ベルシュート様はヴェーベンちゃんの方が大事だったのですよね」
肩を落としてビュシーは弱々しく続ける。
「ビュシーよりも愛人のヴェーベンちゃんが良いのですものね。あ、でも愛人じゃなくなるのかな。ベルシュート様に選ばれたわけだから……」
どうやらまだ勘違いをしているらしい。
さすがに魔王の威厳のためとはいえ、もう勇者のことを誤魔化すのは止めにしよう。ビュシーのこんなにも悲しい顔は見たくないのだ。
「ビュシーよ、よく聞いてくれ」
肩に手を置き、目を合わせてくれるのを待った。
「ヴェーベンは勇者なんだ」
すると、ビュシーはギョッと顔を歪めた。
無理もない。魔王が勇者を仕留め損なったなど、魔族として考えたくもなかったであろう。
「勇者が……愛人だったのですか?」
む? 理解してもらおうと言ったつもりが、余計な混乱を招いてしまった。
「そうではあらぬ。ヴェーベンはただの勇者だ。我には愛人などおらぬ。年の近い親しい女性もお主くらいだ」
「そういうことだったのですね……。では、ビュシーではなくヴェーベンちゃんを選んだのも、あくまで女としてではなく、重要性という点を考慮していたのですね。どうりでヴェーベンちゃんを選んだわけです。勇者を見たら抹消せよ、が魔族の信条ですものね」
「そ、その通りだ……」
物騒な言葉も聞こえたが、ともかく納得してもらえたようだ。
ビュシーの顔からも暗さが取れて、満月の下で明るい微笑みが戻った。
「よかったぁ」
ぬぬぬ……?
不意にビュシーの脱力した微笑みを見て、胸の奥で何かが跳ねたような気がした。
何であろうか。ま、まさか……病気? ではあらぬな。気のせいであろう。
「それで、その……勇者の件で、非常に言いにくいのだが……黙ってもらうことはできぬか? 魔王である我が勇者を葬らずにいたとあっては示しがつかぬのだ」
「えぇ、そのことでしたら、もちろん口外致しません。それに、牢獄に捕らえていた勇者を外に出してしまったのはビュシーのせいです。申し訳ございません、ベルシュート様。何度謝罪しても償えないような失態を犯してしまいました。責任を取って、ビュシーは一生ベルシュート様のお傍に寄り添いたいと思います」
「いや、責任を取る必要はあらぬ」
我は押し返すように両手を出して、責任の皮を被った欲望を却下した。
「そもそも我が勇者を倒せなかったのが原因だ。ビュシーは何も悪くない。謝るのは我の方だ。本当にすまなかった。お主には怖い思いをさせてしまったな」
「いえ、ベルシュート様がその身を投げ打って守ろうとしてくれたことでもう満足です」
ぬぬぬ……本人に言われると恥ずかしい。
「ですが、それならビュシーがヴェーベンちゃんを捕らえている時に始末するよう命じればよかったではありませんか。ビュシーは魔界の軍事を支えるクレアルーン領の貴族なのですよ? 無抵抗な勇者くらい難なく消せます」
「それはな、勇者の存在が知られてしまうのを危惧したのと、それから……」
我は輝く瞳を見つめて告げた。
「お主に手を汚してほしくなかったのだ」
「ベルシュート様……」
頬を染めるビュシーを見て、再び胸の奥で何かが跳ねた。いったい何なのだ。
「厚い温情、ありがとうございます。ベルシュート様に想っていただき、ビュシーはとても嬉しい限りです。うふッ」
優雅な口調で気持ちを述べると、ビュシーはそっと我の腕に寄り添う。
「ところで……愛人がいないということは、ビュシーが一番結婚に近いということですよね? 年が近くて親しい女も他にいないということでしたし、ビュシーが他の女と大差をつけて婚約への展望が随分と、非常に、明確である、ということですよね?」
急激に強くなった圧で、胸焼けが……。
「では、今すぐ婚約を交わすべきなのではありませんか?」
「か、可能性としてはそうであるが、やはり、婚約となると即断することはできぬのだ」
「もう、ベルシュート様ったら。あまり遠回しな言い方をしないでください。ビュシーはもっと素直なお言葉を頂きたいのです」
これ以上ないくらい素直なのだがな。
まったく、これだから我はビュシーが苦手なのだ。
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