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霧の町  作者: KRR
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第八話 成就しない罪

 扉の隙間から、霧が零れ出した。


 白く、濃く、粘り気さえ感じさせる霧だった。


 地面へ落ちたそれは広場を這い、倒れている黒いローブの者たちを一人ずつ覆っていく。霧に触れた身体は輪郭を失い、黒い布だけを残して消えた。


 もうすぐ。


 もうすぐ。


 繰り返されていた声も、霧に呑まれるたび途切れていく。


 最後の一人が消えた時、石像の腕に抱かれていた赤ん坊が息を吸った。


 ひゅう。


 その音に呼応し、開きかけた扉が大きく震えた。


 マックスはソニアに握られた手を動かせずにいた。


 確かに触れているはずなのに、掌へ伝わるのは硬い冷たさだけだった。雪の中に長く放置された石へ、布越しに触れているような感触だった。


「ソニア」


 彼女は目を伏せた。


「お前は、いつから……」


 問いの続きを口にすることができなかった。


 いつから鼓動がない。


 いつから死んでいる。


 どちらの言葉を選んでも、目の前にいる彼女の存在を否定するように思えた。


 ソニアはマックスの手へ、自分の右手を重ねた。


 穏やかな仕草だった。


 まるで、答えを急がなくてもよいと伝えるように。


 だが、時間は残されていなかった。


 扉はさらに開いていく。


 向こう側には暗闇しか見えない。


 単に光のない空間ではなかった。扉の先だけが世界から切り取られ、その穴を何かが内側から覗いている。


 暗闇の中央に、細い亀裂が生じた。


 瞼が開くように、左右へゆっくり広がっていく。


 その奥に目があった。


 大きさも色も分からない。


 ただ、自分が見られていることだけは分かった。


 マックスの記憶を。


 言葉にしなかった思いを。


 自分自身さえ気づかなかったものまで、内側から覗かれている。


「離れろ、ソニア」


 彼女は動かなかった。


「扉から離れるんだ」


 マックスは彼女の腕を掴んだ。


 その瞬間、ソニアの身体が薄くなった。


 オレンジ色のスキーウェアの向こうに、石畳が透けて見える。


「何をした?」


 ソニアは首を横へ振った。


「俺が触れたからか?」


 違う。


 唇がそう動く。


 彼女はマックスの手を離すと、銀色の鍵を握らせた。


 今度は手を引かなかった。


 細い指を一本ずつ開き、鍵を彼の掌へ押し込む。


 真鍮色の鍵と銀色の鍵。


 二本が触れた途端、互いの持ち手に刻まれた目が開いた。


 金属の表面に細い瞼が浮かび、その奥から黒い瞳がマックスを見上げる。


 彼は鍵を投げ捨てそうになった。


 ソニアが両手で包み込み、それを止めた。


「これが必要なのか?」


 彼女は頷いた。


「この扉を閉じるために?」


 横へ首を振る。


「では、何に使う」


 答えはない。


 ソニアの輪郭は、さらに薄くなっていた。


 濡れた茶色の髪が一本ずつ霧へほどけていく。頬を伝う黒い涙も途中で形を失い、地面へ落ちる前に消えた。


「待ってくれ」


 マックスは彼女の肩を掴んだ。


「まだ聞いていないことがある」


 ソニアは悲しげに微笑んだ。


「俺に何を伝えようとしていた?」


 唇が動く。


 声は出ない。


 それでも、今度は来ないでではなかった。


 ありがとう。


 そう見えた。


「礼を言われるようなことはしていない」


 マックスは首を振った。


「俺は何も分かっていなかった。大学でも、山でも、この町でも。お前が何を考えているのか、一度もまともに見ようとしなかった」


 ソニアは否定するように首を振る。


「違わない」


 写真撮影へ誘われた時。


 手袋を片方ずつ使おうと提案された時。


 焚き火のそばで笑い合った時。


 彼女の言葉には、表面に現れたものとは別の意味があったのかもしれない。


 だが、マックスはいつも、最も理屈に合う答えを選んだ。


 腹落ちするまで確認する。


 普段なら、それは彼の長所だった。


 けれど人の心は、問いを重ねれば正しい答えを返す仕組みにはなっていない。


 ソニアが口にできなかったものを、口にしなかったという理由で存在しないことにしていた。


「つまり、こういう事か……」


 マックスの声が震えた。


「お前は、俺に気づいてほしかったのか?」


 ソニアの蒼い瞳が揺れた。


 答えはなかった。


 答えられないのではない。


 答えてはならない。


 彼女の沈黙が、初めてそう見えた。


「なぜ言えない?」


 ソニアは銀色の鍵を指した。


 次にマックス。


 そして、自分自身の胸元へ触れる。


「鍵を使うために、俺が知らない必要がある?」


 僅かな沈黙。


 ソニアは目を閉じた。


 それが答えだった。


 マックスはそれ以上、問いを重ねなかった。


 扉の向こうから、巨大な呼吸音が響いた。


 ひゅう。


 霧が吸い込まれる。


 広場を漂っていた白い塊が、一斉に扉の暗闇へ引かれていった。


 ソニアの身体も引き寄せられる。


 マックスは彼女の腕を掴んだ。


「行かせない」


 ソニアは抵抗しなかった。


 だが、掴んだ腕の感触は急速に失われていく。


 指が身体をすり抜けた。


 それでもマックスは両腕を回し、彼女を抱き留めようとした。


「離さないと言った」


 ソニアの身体は霧よりも軽かった。


「今度は、俺が掴むと」


 彼女はマックスの胸へ額を寄せた。


 触れている感覚はなかった。


 それなのに、ほんの一瞬だけ、温かな息が首元へ当たった。


「マックス」


 声が聞こえた。


 か細く、途切れそうな声だった。


 この町へ来てから初めて聞く、ソニア自身の声。


「ソニア?」


「ごめんなさい」


「謝るな」


「私が……もっと早く……」


 言葉の途中で、喉から黒い液体が溢れた。


 ソニアは口元を押さえる。


 その手も透け始めていた。


「無理に話すな」


「これだけは……」


 彼女は顔を上げた。


 優しさをたたえていた蒼い瞳に、恐怖が浮かんでいる。


 消えることへの恐怖ではない。


 マックスが、この先へ進むことへの恐怖だった。


「鍵を……信じてください」


「使い方が分からない」


「鍵が、教えてくれます」


「何を開ける鍵なんだ?」


 ソニアは答えなかった。


 代わりに、両手でマックスの手を包み込んだ。


 二本の鍵を握らせる。


「私たちを……」


 声が掠れた。


「私と、ジョージを……助けようとしないでください」


「それはできない」


「もう、助けることはできません」


 マックスの手に力が入った。


「決めつけるな」


「知っているんです」


「何を」


「自分に起きたことを」


 ソニアの胸元に、黒い染みが浮かび上がった。


 オレンジ色の布地へ広がり、腹部まで流れていく。外側から付着したものではない。


 身体の内側から滲み出た血だった。


「ジョージも、私も……もう戻れません」


「戻す方法を探す」


「ありません」


「龍が知らないだけかもしれない」


「知っていても、教えません」


「なら、あの老人から聞き出す」


「マックス」


 ソニアの声が、僅かに強くなった。


「私たちではなく、生きているあなた自身を助けてください」


 広場の石畳が割れた。


 亀裂から白い霧が噴き出し、二人の身体を包む。


 扉の向こうにあった目が、大きく見開かれた。


 石像に抱かれた赤ん坊が、初めて声を上げた。


 泣き声ではなかった。


 笑い声だった。


 老人のようにしゃがれ、子供のように甲高い声が、幾重にも重なって広場へ響き渡る。


 石像の腕から黒い根が伸びた。


 一本。


 二本。


 数えきれないほどの根が石畳を這い、ソニアの足首へ絡みつく。


「離せ!」


 マックスは根を掴んだ。


 触れた指先へ、数え切れない声が流れ込んでくる。


 消えてしまいたい。


 いなくなればいい。


 私さえいなければ。


 すべてソニアの声だった。


 だが、彼女が実際に口にした言葉ではない。


 誰にも聞かせず、胸の奥へ閉じ込めていた思い。


 根はそれを吸い上げ、石像の赤ん坊へ運んでいる。


「やめろ!」


 マックスは根を引きちぎった。


 黒い液体が噴き出す。


 切断された根は地面でのたうち、別の根がソニアの腰へ巻きついた。


 彼女の身体が扉へ引かれる。


 マックスは手を伸ばした。


 指先が重なる。


 ジョージの姿が脳裏に蘇った。


 離すな。


 あの時は、掴み続けることができなかった。


「ソニア!」


 彼女の指が、マックスの手から一本ずつ抜けていく。


「私がいなくても……」


「言うな!」


「一人で、進んでください」


「一人で進むために、お前を見捨てるつもりはない!」


 最後に残った指が離れた。


 ソニアの身体が霧へ呑まれる。


 オレンジ色の輪郭が薄れ、茶色い髪も、蒼い瞳も、穏やかな微笑みも、白い霧の中へ溶けていく。


 消える寸前、彼女は唇を動かした。


 好きでした。


 声は聞こえなかった。


 それでもマックスには、そう見えた。


 手を伸ばす。


 何にも触れない。


 霧が散った時、ソニアはもういなかった。


 地面には銀色の鍵だけが残されていた。


 マックスは膝をつき、それを拾い上げた。


 まだ彼女の冷たさが残っていた。


 石像の腕の中で、赤ん坊の身体が崩れ始める。


 灰色の布が裂け、内側から白い霧が膨れ上がった。黒い根は広場から扉へ向かい、暗闇の中で一本に束ねられていく。


 人の形に見えた。


 けれど、頭と胴体の境がない。


 腕に見えた部分は途中で枝分かれし、指の代わりに幾つもの顔が浮かんでいる。


 霧が動くたびに姿が変わった。


 巨大な獣。


 痩せた老人。


 泣き叫ぶ赤ん坊。


 黒い衣をまとった女。


 どれも一瞬で崩れ、次の輪郭へ変わっていく。


 実体を持てず、見た者の記憶を借りて形を作ろうとしている。


 マックスには、そう見えた。


「ほっほお……」


 背後から、しゃがれた笑い声がした。


 龍が立っていた。


 いや、立っているように見えるだけだった。


 黒いローブの裾が地面へ触れていない。身体は透け、その向こうに霧に包まれた建物が見える。


 丸眼鏡だけが奇妙なほど鮮明だった。


「ソニアをどこへやった」


 龍は胸元で手を重ねた。


「その問いには、ようやくお答えできますな」


「答えろ」


「彼女は捧げられました。先に消えたジョージ殿と同じ場所へ」


「誰に」


 マックスは扉の向こうの霧を見た。


「山の神です」


 龍の口元に半笑いが浮かぶ。


「あなた方が雪中で見た像は、その御方の姿を人の理解へ落とし込んだもの。像に抱かれた幼子は、再び生まれようとする神の器にございます」


「俺たちを、この町へ呼んだのは儀式のためか」


「左様」


「なぜ俺たちだった」


「皆様は、成就しない罪を抱えておられた」


「罪?」


 マックスの声が低くなる。


「ジョージ殿は、あなたを疎んでおりました。あなたさえいなければ、ソニア殿が自分を見るのではないか。その願いを抱きながら、実行することも捨てることもできなかった」


「それは罪ではない」


「ご本人は、そうお考えではなかった」


 龍は細い目をさらに細めた。


「実行された願いには終わりがございます。叶えば満たされ、失敗すれば砕かれる。しかし、実行されず、消えることもない願いには終わりがない」


「それを、お前たちは罪と呼んでいるのか」


「終わりのない感情。すなわち無限の力。その力こそ、眠れる御方を呼び戻す糧となるのです」


 マックスは銀色の鍵を握り締めた。


「ソニアは何を抱えていた」


 尋ねた瞬間、鍵の持ち手に刻まれた目が閉じた。


 龍はそれを見逃さなかった。


 半笑いが深くなる。


「彼女は、あなたへ想いを伝えられない自分を疎んでおりました」


 胸の奥で、何かが軋んだ。


「自分さえいなくなれば、この苦しみも消える。あなたとジョージ殿の間に立つこともなくなる。そのように願ったことがございます」


「それだけで殺したのか」


「殺したのは、わしではございません」


「同じ衣をまとった者が同じ人間とは限らない、と言ったな」


 マックスは龍へ近づいた。


「だが、お前は止めなかった」


「止める理由がございませんでした」


「ジョージも、ソニアも、自分が抱いた考えを実行しようとはしていなかった」


「ゆえに価値があったのです」


「それを罪と決めたのは誰だ」


「御方が」


「違う」


 マックスは即座に否定した。


「お前たちだ」


 扉の向こうで、霧の塊が身を震わせた。


 幾つもの顔が一斉にマックスへ向く。


「そして、俺にも同じものがあるという事か?」


「ほっほお。ようやくお分かりになりましたか」


 龍は眼鏡の縁をなぞった。


 だが、指は硝子を通り抜けた。


「ソニア殿の機転により、儀式は完全な形を失いました。本来、最後の器となるべきはあなたでした。成就しない思いを抱く三人。その中心にいながら、何一つ気づかなかった者」


「俺の罪は、ソニアの想いに気づかなかったことか」


「気づかなかったのではございません」


 龍の声が低くなった。


「気づかぬままでいることを選んだのです。理解できぬものへ答えを出さず、いつか自然に消えることを望んだ」


 否定しようとして、言葉が出なかった。


 ソニアの眼差し。


 ジョージの苛立ち。


 二人の間に生まれていた亀裂。


 マックスは見ていた。


 見て、説明のつかないものを後回しにした。


「御方は完全な器を得られませんでした」


 龍の半透明の身体が揺れた。


「ゆえに、わしの肉体をお使いになられた」


「お前の肉体?」


 龍は扉の向こうを見た。


 霧の中心に、禿げ上がった頭が浮かんでいる。


 丸眼鏡。


 色白の顔。


 細く閉じられた目。


 霧に隠れていたものは、龍の身体だった。


 しかし、その口元に半笑いはない。


 顎が不自然なほど開き、口の中から白い霧が絶え間なく溢れている。


「では、ここにいるお前は」


「追い出された残り滓、とでも申しましょうか」


 龍の輪郭が薄くなる。


「不完全とはいえ、儀式は終わりました。わしに課せられた制約も、今はございません」


「だから真実を話したのか」


「ええ」


 マックスは二本の鍵を見た。


 銀色の鍵は、目を閉じている。


 真鍮色の鍵だけが、扉の向こうにいるものを見つめていた。


「お前は、ソニアが俺へ真実を言えないと知っていた」


「罪を解放するには、それを知らぬ者が鍵を使わねばなりません。彼女自身が告げれば、鍵は力を失う」


「今、お前が話した」


「左様」


 龍の半笑いに、初めて明確な悪意が宿った。


「鍵は、もはや彼女の罪を開くことができません」


 扉の向こうで、山の神が動いた。


 龍の肉体を包んだ霧が膨らみ、広場へ踏み出す。


 無数の声が重なった。


 泣き声。


 笑い声。


 助けを求める声。


 その中に、ジョージとソニアの声も混じっていた。


 マックス。


 こちらへ。


 一緒に。


 龍の魂が霧へ溶け始めた。


「さあ、マックス殿」


 声だけが残る。


「御方は、完全な器を求めておられます」


 マックスは銀色の鍵と真鍮色の鍵を握り直した。


 目の前の霧には、決まった形がない。


 けれど、その内部で龍の肉体がゆっくりと顔を上げた。


 閉じていた両目が開く。


 人のものではない白い瞳が、マックスを捉えた。


 ソニアの声が霧の中から聞こえた。


 逃げて。


 マックスは一歩も動かなかった。


 鍵が教える。


 彼女はそう言った。


 銀色の鍵は力を失ったはずだった。


 それでも掌の中で、微かに震えている。


 何かを開こうとしていた。


 扉でも錠でもない。


 罪と呼ばれたものを閉じ込めている、見えない境界を。


 霧の神が、マックスへ向けて最初の一歩を踏み出した。

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