↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
霧の町  作者: KRR
PR
10/11

第九話 罪を解く鍵

 霧の神が、マックスへ向けて最初の一歩を踏み出した。


 石畳が沈んだ。


 足があるようには見えない。


 龍の肉体を包む白い霧が膨らみ、その一部が地面へ触れただけだった。それでも広場全体が大きく揺れ、石像の表面へ無数の亀裂が走った。


 マックスは体勢を崩した。


 握っていた二本の鍵が、掌の中でぶつかる。


 銀色の鍵。


 真鍮色の鍵。


 どちらの持ち手にも、閉じた目が刻まれている。


 龍は、銀色の鍵が力を失ったと言った。


 ソニアの抱えていたものを、マックスが知ってしまったから。


 しかし鍵は、今も震えている。


 生き物の鼓動に似た、弱く規則的な震えだった。


 霧の神が二歩目を踏み出す。


 今度は人の腕に似たものが伸びた。


 肘の位置がなく、幾つもの指へ枝分かれしている。その指先には小さな顔が浮かんでいた。


 ジョージ。


 ソニア。


 龍。


 見知らぬ老人。


 幼い子供。


 誰もが口を開き、同じ声を発した。


 ――こちらへ。


 マックスは後ずさった。


 指の一つが頬を掠める。


 触れられた場所から冷たさが広がった。同時に、頭の中へ他人の記憶が流れ込んでくる。


 暗い部屋。


 床に膝をつく誰か。


 閉ざされた扉。


 外から聞こえる祈りの声。


 胸の奥へ抱え込んだ願い。


 あいつさえいなくなれば。


 私さえいなければ。


 もう一度だけ戻れたなら。


 どれも一瞬浮かび、すぐ次の記憶に塗り潰された。


 数え切れない人間の考えが、互いを押し潰しながら渦巻いている。


「離れろ!」


 マックスは腕を振り払った。


 霧の指が崩れる。


 直後、黒い根が石畳の亀裂から伸び、彼の足首へ巻きついた。


 身体が引かれる。


 マックスは地面へ手をついた。傷の残る左の掌が石へ擦れ、鋭い痛みが走る。


 黒い根は、彼を開かれた扉へ引きずっていく。


 暗闇の中で、大きな目が見開かれている。


 その瞳に、自分の姿が映っていた。


 赤毛の青年。


 汚れたオレンジ色のスキーウェア。


 二本の鍵を握り締めた手。


 ただし、目だけが自分のものではなかった。


 白く濁り、何も映していない。


 マックスは近くの割れた石へ足を掛け、根に抗った。


 だが、力の差は大きかった。


 一歩。


 また一歩。


 扉へ近づくたび、身体の内側から何かを抜き取られる感覚がある。


 最初に、雪山の記憶が薄れた。


 三人で囲んだ焚き火。


 白いシチューの匂い。


 笑っていたソニア。


 不機嫌そうに皿を置くジョージ。


 思い出そうとしても、顔の輪郭が霧に覆われていく。


「やめろ……」


 マックスは歯を食いしばった。


 次に、大学での記憶が奪われる。


 閉ざされた講義室。


 窓から入り込もうとするジョージの背中。


 写真機材を抱えたソニアの微笑み。


 言葉だけが残り、声が消える。


 彼らが存在した証拠を、一つずつ食われている。


「やめろ!」


 マックスは鍵を握った右手で、黒い根を殴った。


 銀色の鍵の先端が根へ触れる。


 甲高い音が鳴った。


 鍵ではなく、扉の錠が外れるような音だった。


 根が激しくのたうち、締めつける力を失った。


 マックスは足を引き抜いた。


 銀色の鍵を見る。


 閉じていた目が開いていた。


 黒い瞳は山の神ではなく、マックス自身を見ている。


「鍵が教える……」


 ソニアの言葉を口にする。


 この鍵は扉を開けるものではない。


 少なくとも、目に見える扉を開けるためのものではない。


 罪と呼ばれたものを、閉じ込めている境界。


 マックスは龍の言葉を思い返した。


 成就しない願い。


 実行されないまま残り続ける負の感情。


 叶わなければ消えない。


 諦めなければ終わらない。


 だから無限の力を持つ。


「違う」


 マックスは呟いた。


 霧の神が歩みを止めた。


 無数の顔が、一斉にこちらを向く。


「ジョージが抱いていたものは、罪じゃない」


 顔の一つが歪んだ。


 ジョージの顔だった。


 見開かれた黒い目。


 引き結ばれた口。


 嫉妬も、苛立ちも、孤独への恐れも、その表情には残っている。


 ――お前さえいなければ。


 霧の中から声が聞こえた。


「ああ。そう思ったんだろう」


 マックスは答えた。


「だが、思うことと実行することは違う」


 ――同じだ。


「違う」


 ――願った。


「それでも、あいつは俺を捜した」


 雪山で姿を見失った後も。


 どれほど自分を疎んでいても。


 ジョージはマックスを捜した。


 凍った斜面では、考えるより先に手を伸ばした。自分の肩を痛めても、その手を離さなかった。


「誰かを憎む気持ちがあったからといって、それまで助けた事実が消えるわけじゃない」


 銀色の鍵が熱を帯びた。


「嫉妬することも、腹を立てることも、誰かに消えてほしいと一瞬願うこともある。それは綺麗じゃない。だが、それだけで人間のすべてを決められるものじゃない」


 ジョージの顔に亀裂が走った。


 霧で作られた頬が崩れ、その奥から黒い光が溢れ出す。


 ――俺は、お前を。


「知っている」


 マックスは顔を上げた。


「お前は最後に謝った。俺にソニアを見つけろと言った。そして、あいつの気持ちはあいつが決めることだと言った」


 ジョージの顔から怒りが消えた。


 大学へ入ったばかりの頃と同じ、不器用な笑みが浮かぶ。


 口元が動いた。


 先に行け。


 声は聞こえなかった。


 顔は白い霧となり、山の神の身体から離れた。


 霧の一部が崩れ落ちる。


 広場を揺らすほどの叫び声が上がった。


 人の声でも獣の声でもない。


 無数の扉が同時に軋み、無数の窓が割れるような音だった。


 山の神の腕がマックスへ振り下ろされる。


 逃げる間はなかった。


 彼は両腕で頭を庇った。


 衝撃が身体を打つ。


 地面を転がり、背中を石像の台座へぶつけた。


 肺から息が押し出される。


 手を開いた。


 鍵は落としていない。


 だが、銀色の鍵には亀裂が入っていた。


 山の神が再び動く。


 先ほどより輪郭が不安定になっている。巨体の左側が崩れ、霧となって扉へ戻ろうとしていた。


 それでも龍の肉体だけは中心に残っている。


 白い瞳がマックスを見た。


「マックス」


 ソニアの声がした。


 霧の右腕に、彼女の顔が浮かんでいる。


 蒼い瞳。


 濡れた茶色の髪。


 黒い涙の跡。


「来ないでください」


 声も口調も、彼女そのものだった。


「もう十分です」


 マックスは立ち上がった。


「これ以上、傷つかないでください」


 ソニアの顔が穏やかに微笑む。


「私が望んだことです」


「違う」


「私は、自分がいなくなればいいと思いました」


「違う」


「だから、こうなったんです」


 黒い根がソニアの口から伸び、霧の中へ絡みついている。


 声を作っているのは彼女ではない。


 それでも、その言葉が完全な偽物だと切り捨てることもできなかった。


 彼女が心の奥で抱いた思いを、山の神が声にしている。


「確かに、お前はそう思ったのかもしれない」


 マックスは山の神へ近づいた。


「自分がいなければ、苦しまずに済む。ジョージと俺の間に立たずに済む。そう考えたのかもしれない」


「なら、罪です」


「違う」


「自分自身を消そうと願いました」


「願っただけだ」


「同じことです」


「同じじゃない!」


 マックスの声が広場へ響いた。


 周囲の霧が震える。


「苦しんだ人が、苦しみから逃れたいと願うことを罪と呼ぶな!」


 ソニアの顔から微笑みが消えた。


「お前は消えたかったんじゃない。苦しみを終わらせたかったんだ」


 写真家になりたいと語った時の瞳。


 撮影した風景を嬉しそうに見せていた横顔。


 手袋を片方ずつ使おうと、思いがけない提案をした笑顔。


 彼女は未来を望んでいた。


 消えることそのものを望んでいたのではない。


「言葉にできなかっただけだ。伝えることが怖かっただけだ。誰かを困らせたくなくて、自分だけで抱え込んだ」


 銀色の鍵の亀裂から、淡い光が漏れた。


「それは罪じゃない。苦しんでいたということだ」


 ソニアの頬を透明な雫が流れた。


 黒くない涙だった。


「俺が気づかなかった」


 マックスは唇を噛んだ。


「いや。気づかないふりをした。お前とジョージの間にあるものを理解すれば、何かを選ばなければならないと思ったからだ」


 山の神の霧がマックスの身体へまとわりつく。


 脇腹。


 胸。


 喉。


 冷たい指が皮膚の内側へ入り込み、心臓へ根を伸ばそうとしている。


 ――ならば、お前も罪を持つ。


「そうだ」


 マックスは否定しなかった。


 ――器となれ。


「だが、お前たちの決めた意味では受け入れない」


 ――見ぬふりをした。


「ああ」


 ――二人を救えなかった。


「ああ」


 喉が締めつけられる。


 それでも声を絞り出した。


「俺は、自分がしたことから目を逸らさない」


 霧の奥で、大きな目が見開かれた。


「だが、それを理由に俺自身を差し出すつもりもない」


 マックスは銀色の鍵を左手に、真鍮色の鍵を右手に持った。


 二本の鍵の目が、同時に開く。


 銀色の目にはソニアが映っていた。


 真鍮色の目にはジョージが映っている。


 二人とも、マックスを見ていなかった。


 互いに背を向け、それぞれ別の場所を見つめている。


 それでよかった。


 三人は互いのためだけに存在していたのではない。


 一つの願いや、一瞬の感情だけで、そのすべてを定義することなどできない。


「つまり、こういう事か……」


 マックスは山の神を見据えた。


「お前は罪を食べているんじゃない」


 霧の指が喉へ食い込む。


「人が自分を罪人だと思い続ける時間を食べている」


 それこそが、終わりのない力。


 望んだことを恥じる。


 口にできなかったことを責める。


 気づかなかった過去を何度も振り返る。


 答えの出ない問いを繰り返し、自分で自分を閉じ込める。


 山の神が与えたのは罪ではない。


 罪という名前だった。


「なら、終わらせればいい」


 鍵が熱くなる。


 掌の皮膚が焼けるほどの熱だった。


 だが、マックスは離さなかった。


 銀色と真鍮色の鍵が、自ら互いへ引き寄せられる。


 二本の先端が重なった。


 金属が溶け、一つの長い鍵へ形を変えていく。


 持ち手に刻まれた二つの目も重なり、一つになった。


 その瞳は、もう誰も映していない。


 ただ扉の奥にある暗闇の中心を見据えていた。


 そこに鍵穴が浮かび上がる。


 山の神の胸元。


 依り代となった龍の、開かれた口の下。


 霧に隠されていた小さな穴が、心臓の位置で黒く開いている。


 鍵がマックスの手を引いた。


 ソニアの声が聞こえた。


 鍵が教えてくれる。


「ああ」


 マックスは答えた。


「今度は分かった」


 山の神が腕を振り上げる。


 無数の顔が叫んだ。


 ジョージの声。


 ソニアの声。


 龍の声。


 そして、マックス自身の声。


 助けて。


 許して。


 こちらへ。


 逃げろ。


 すべてが一つになり、怯える心を押し潰そうとする。


 マックスは走った。


 霧の腕が肩を打つ。


 足元から伸びた根が右脚へ絡みつく。


 構わず前へ出る。


 ジョージが最後に残した言葉を思い出す。


 次は、お前が先に手を伸ばせ。


 マックスは鍵を突き出した。


「二人の抱いたものは、罪じゃない!」


 鍵の先端が、山の神の胸へ突き刺さった。


 抵抗はなかった。


 水面へ手を入れるように、鍵は霧を貫いた。


 奥にあった鍵穴へ届く。


 マックスは両手で持ち手を掴み、右へ回した。


 かちり。


 小さな音だった。


 次の瞬間、町中の錠が一斉に外れた。


 広場を囲む建物の扉が開く。


 美術館に並んでいた無数の扉。


 民宿の開かなかった窓。


 雪山の石像が抱いていた赤ん坊の目。


 すべてが同時に開き、内側へ閉じ込められていた声を吐き出した。


 泣き声が空へ昇る。


 怒鳴り声が霧を裂く。


 助けを求める声も、誰かを憎む声も、自分を責める声も、二度と口にできなかった謝罪も、白い光となって山の神から抜けていく。


 霧の身体が膨張した。


 龍の肉体が胸を反らす。


 白い瞳がマックスを見つめ、口が大きく開いた。


 そこから出たのは叫びではなかった。


「ほっほお……」


 掠れた笑い声だった。


 けれど、最後まで続かなかった。


 音の途中で龍の顔が崩れ、皮膚の下から白い霧が噴き出した。


 巨体に無数の亀裂が走る。


 亀裂の一つ一つから、人の顔が離れていった。


 ジョージがいた。


 以前のように大きく目を見開き、いつもの不満そうな顔をしている。


 その隣にはソニアがいた。


 穏やかな蒼い瞳で、マックスを見つめている。


「待て」


 二人は答えなかった。


「まだ、何も返していない」


 ジョージの縫い針。


 ソニアの手袋。


 今もマックスのポケットに残っている。


「持ち主がいなければ返せないだろ」


 ジョージは肩をすくめた。


 ソニアは少し困ったように微笑んだ。


 二人の姿が光へ変わる。


 マックスは手を伸ばした。


 今度は掴もうとはしなかった。


 ただ、二人が消える最後の瞬間まで、その姿を見失わないために。


「忘れない」


 その言葉が届いたかは分からなかった。


 光は霧の天井へ昇り、見えなくなった。


 山の神の身体が内側へ崩れ始める。


 巨大だった霧の塊は急速に縮み、人の大きさへ戻っていく。


 獣の輪郭。


 赤ん坊の顔。


 石像の女。


 それらが次々に剝がれ落ち、最後に龍の肉体だけが残った。


 禿げ上がった頭。


 色白の顔。


 黒いローブ。


 丸眼鏡には大きな亀裂が入っている。


 龍は数秒その場に立ち尽くした。


 細く閉じられていた瞼が僅かに開く。


 そこには、もう白い瞳はなかった。


 黒い目が、初めて半笑いを浮かべずにマックスを見た。


「御方を……否定なされたか」


 声は弱く、老人そのものだった。


「否定したのは、神じゃない」


 マックスは鍵から手を離した。


「人の苦しみを罪と決めつけた、お前たちの考えだ」


 龍の身体が前へ傾いた。


 石畳へ倒れる。


 乾いた音が広場へ響いた。


 胸元から突き出していた鍵は消えていた。


 マックスは老人へ近づき、首元へ指を当てた。


 脈はない。


 呼吸もしていない。


 黒いローブの上にあった銀色の首飾りは中央から割れ、目に似た模様を失っていた。


 顔に半笑いは残っていなかった。


 ただ疲れ切った老人の死体が、霧に濡れた石畳へ横たわっている。


 背後で音がした。


 開かれていた扉が閉じていく。


 暗闇も、大きな目も、その向こうへ吸い込まれていった。


 最後に扉の隙間から、白い手が伸びた。


 ソニアの手に見えた。


 その隣には、ジョージの左手もあった。


 マックスは一歩近づいた。


 二つの手は、何かを求めるのではなく、別れを告げるように小さく動いた。


 扉が閉じた。


 鍵穴は消え、錆びた金属板だけが残る。


 次の瞬間、扉そのものが霧となって崩れた。


 石像も崩れ始める。


 歪んだ笑みを浮かべた女の顔が割れ、腕の中にいた赤ん坊も灰色の粉となって地面へ落ちた。


 広場を囲んでいた建物から、一斉に明かりが消える。


 一軒。


 また一軒。


 霧の町全体が、長い息を吐くように沈んでいく。


 道が消えた。


 窓が消えた。


 美術館の柱も、民宿の傾いた屋根も、黄色い街灯も、濃い霧の中へ溶けていった。


 足元の石畳が白く変わる。


 硬かった感触が消え、靴が柔らかなものへ沈んだ。


 雪だった。


 冷たい風が、マックスの頬を撫でる。


 霧が少しずつ薄れていく。


 その向こうに、雪を被った木々が現れた。


 町はもうない。


 龍の死体だけが、黒いローブを雪の上へ広げて横たわっている。


 マックスは見上げた。


 雲の切れ間に、夜明け前の青い空が見える。


 雪山は静かだった。


 女の呻き声も、石像の足音も聞こえない。


 ポケットの中へ手を入れる。


 焦げ茶色の手袋。


 細い縫い針。


 二本の鍵は残っていなかった。


 マックスは手袋と針を強く握った。


 町が消えても、二人が戻ることはなかった。


 それでも、彼らを縛っていたものだけは、もう存在しない。


 山の斜面を一筋の光が照らした。


 朝が来ようとしている。


 マックスは一人、雪の中に立ち尽くしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。