第九話 罪を解く鍵
霧の神が、マックスへ向けて最初の一歩を踏み出した。
石畳が沈んだ。
足があるようには見えない。
龍の肉体を包む白い霧が膨らみ、その一部が地面へ触れただけだった。それでも広場全体が大きく揺れ、石像の表面へ無数の亀裂が走った。
マックスは体勢を崩した。
握っていた二本の鍵が、掌の中でぶつかる。
銀色の鍵。
真鍮色の鍵。
どちらの持ち手にも、閉じた目が刻まれている。
龍は、銀色の鍵が力を失ったと言った。
ソニアの抱えていたものを、マックスが知ってしまったから。
しかし鍵は、今も震えている。
生き物の鼓動に似た、弱く規則的な震えだった。
霧の神が二歩目を踏み出す。
今度は人の腕に似たものが伸びた。
肘の位置がなく、幾つもの指へ枝分かれしている。その指先には小さな顔が浮かんでいた。
ジョージ。
ソニア。
龍。
見知らぬ老人。
幼い子供。
誰もが口を開き、同じ声を発した。
――こちらへ。
マックスは後ずさった。
指の一つが頬を掠める。
触れられた場所から冷たさが広がった。同時に、頭の中へ他人の記憶が流れ込んでくる。
暗い部屋。
床に膝をつく誰か。
閉ざされた扉。
外から聞こえる祈りの声。
胸の奥へ抱え込んだ願い。
あいつさえいなくなれば。
私さえいなければ。
もう一度だけ戻れたなら。
どれも一瞬浮かび、すぐ次の記憶に塗り潰された。
数え切れない人間の考えが、互いを押し潰しながら渦巻いている。
「離れろ!」
マックスは腕を振り払った。
霧の指が崩れる。
直後、黒い根が石畳の亀裂から伸び、彼の足首へ巻きついた。
身体が引かれる。
マックスは地面へ手をついた。傷の残る左の掌が石へ擦れ、鋭い痛みが走る。
黒い根は、彼を開かれた扉へ引きずっていく。
暗闇の中で、大きな目が見開かれている。
その瞳に、自分の姿が映っていた。
赤毛の青年。
汚れたオレンジ色のスキーウェア。
二本の鍵を握り締めた手。
ただし、目だけが自分のものではなかった。
白く濁り、何も映していない。
マックスは近くの割れた石へ足を掛け、根に抗った。
だが、力の差は大きかった。
一歩。
また一歩。
扉へ近づくたび、身体の内側から何かを抜き取られる感覚がある。
最初に、雪山の記憶が薄れた。
三人で囲んだ焚き火。
白いシチューの匂い。
笑っていたソニア。
不機嫌そうに皿を置くジョージ。
思い出そうとしても、顔の輪郭が霧に覆われていく。
「やめろ……」
マックスは歯を食いしばった。
次に、大学での記憶が奪われる。
閉ざされた講義室。
窓から入り込もうとするジョージの背中。
写真機材を抱えたソニアの微笑み。
言葉だけが残り、声が消える。
彼らが存在した証拠を、一つずつ食われている。
「やめろ!」
マックスは鍵を握った右手で、黒い根を殴った。
銀色の鍵の先端が根へ触れる。
甲高い音が鳴った。
鍵ではなく、扉の錠が外れるような音だった。
根が激しくのたうち、締めつける力を失った。
マックスは足を引き抜いた。
銀色の鍵を見る。
閉じていた目が開いていた。
黒い瞳は山の神ではなく、マックス自身を見ている。
「鍵が教える……」
ソニアの言葉を口にする。
この鍵は扉を開けるものではない。
少なくとも、目に見える扉を開けるためのものではない。
罪と呼ばれたものを、閉じ込めている境界。
マックスは龍の言葉を思い返した。
成就しない願い。
実行されないまま残り続ける負の感情。
叶わなければ消えない。
諦めなければ終わらない。
だから無限の力を持つ。
「違う」
マックスは呟いた。
霧の神が歩みを止めた。
無数の顔が、一斉にこちらを向く。
「ジョージが抱いていたものは、罪じゃない」
顔の一つが歪んだ。
ジョージの顔だった。
見開かれた黒い目。
引き結ばれた口。
嫉妬も、苛立ちも、孤独への恐れも、その表情には残っている。
――お前さえいなければ。
霧の中から声が聞こえた。
「ああ。そう思ったんだろう」
マックスは答えた。
「だが、思うことと実行することは違う」
――同じだ。
「違う」
――願った。
「それでも、あいつは俺を捜した」
雪山で姿を見失った後も。
どれほど自分を疎んでいても。
ジョージはマックスを捜した。
凍った斜面では、考えるより先に手を伸ばした。自分の肩を痛めても、その手を離さなかった。
「誰かを憎む気持ちがあったからといって、それまで助けた事実が消えるわけじゃない」
銀色の鍵が熱を帯びた。
「嫉妬することも、腹を立てることも、誰かに消えてほしいと一瞬願うこともある。それは綺麗じゃない。だが、それだけで人間のすべてを決められるものじゃない」
ジョージの顔に亀裂が走った。
霧で作られた頬が崩れ、その奥から黒い光が溢れ出す。
――俺は、お前を。
「知っている」
マックスは顔を上げた。
「お前は最後に謝った。俺にソニアを見つけろと言った。そして、あいつの気持ちはあいつが決めることだと言った」
ジョージの顔から怒りが消えた。
大学へ入ったばかりの頃と同じ、不器用な笑みが浮かぶ。
口元が動いた。
先に行け。
声は聞こえなかった。
顔は白い霧となり、山の神の身体から離れた。
霧の一部が崩れ落ちる。
広場を揺らすほどの叫び声が上がった。
人の声でも獣の声でもない。
無数の扉が同時に軋み、無数の窓が割れるような音だった。
山の神の腕がマックスへ振り下ろされる。
逃げる間はなかった。
彼は両腕で頭を庇った。
衝撃が身体を打つ。
地面を転がり、背中を石像の台座へぶつけた。
肺から息が押し出される。
手を開いた。
鍵は落としていない。
だが、銀色の鍵には亀裂が入っていた。
山の神が再び動く。
先ほどより輪郭が不安定になっている。巨体の左側が崩れ、霧となって扉へ戻ろうとしていた。
それでも龍の肉体だけは中心に残っている。
白い瞳がマックスを見た。
「マックス」
ソニアの声がした。
霧の右腕に、彼女の顔が浮かんでいる。
蒼い瞳。
濡れた茶色の髪。
黒い涙の跡。
「来ないでください」
声も口調も、彼女そのものだった。
「もう十分です」
マックスは立ち上がった。
「これ以上、傷つかないでください」
ソニアの顔が穏やかに微笑む。
「私が望んだことです」
「違う」
「私は、自分がいなくなればいいと思いました」
「違う」
「だから、こうなったんです」
黒い根がソニアの口から伸び、霧の中へ絡みついている。
声を作っているのは彼女ではない。
それでも、その言葉が完全な偽物だと切り捨てることもできなかった。
彼女が心の奥で抱いた思いを、山の神が声にしている。
「確かに、お前はそう思ったのかもしれない」
マックスは山の神へ近づいた。
「自分がいなければ、苦しまずに済む。ジョージと俺の間に立たずに済む。そう考えたのかもしれない」
「なら、罪です」
「違う」
「自分自身を消そうと願いました」
「願っただけだ」
「同じことです」
「同じじゃない!」
マックスの声が広場へ響いた。
周囲の霧が震える。
「苦しんだ人が、苦しみから逃れたいと願うことを罪と呼ぶな!」
ソニアの顔から微笑みが消えた。
「お前は消えたかったんじゃない。苦しみを終わらせたかったんだ」
写真家になりたいと語った時の瞳。
撮影した風景を嬉しそうに見せていた横顔。
手袋を片方ずつ使おうと、思いがけない提案をした笑顔。
彼女は未来を望んでいた。
消えることそのものを望んでいたのではない。
「言葉にできなかっただけだ。伝えることが怖かっただけだ。誰かを困らせたくなくて、自分だけで抱え込んだ」
銀色の鍵の亀裂から、淡い光が漏れた。
「それは罪じゃない。苦しんでいたということだ」
ソニアの頬を透明な雫が流れた。
黒くない涙だった。
「俺が気づかなかった」
マックスは唇を噛んだ。
「いや。気づかないふりをした。お前とジョージの間にあるものを理解すれば、何かを選ばなければならないと思ったからだ」
山の神の霧がマックスの身体へまとわりつく。
脇腹。
胸。
喉。
冷たい指が皮膚の内側へ入り込み、心臓へ根を伸ばそうとしている。
――ならば、お前も罪を持つ。
「そうだ」
マックスは否定しなかった。
――器となれ。
「だが、お前たちの決めた意味では受け入れない」
――見ぬふりをした。
「ああ」
――二人を救えなかった。
「ああ」
喉が締めつけられる。
それでも声を絞り出した。
「俺は、自分がしたことから目を逸らさない」
霧の奥で、大きな目が見開かれた。
「だが、それを理由に俺自身を差し出すつもりもない」
マックスは銀色の鍵を左手に、真鍮色の鍵を右手に持った。
二本の鍵の目が、同時に開く。
銀色の目にはソニアが映っていた。
真鍮色の目にはジョージが映っている。
二人とも、マックスを見ていなかった。
互いに背を向け、それぞれ別の場所を見つめている。
それでよかった。
三人は互いのためだけに存在していたのではない。
一つの願いや、一瞬の感情だけで、そのすべてを定義することなどできない。
「つまり、こういう事か……」
マックスは山の神を見据えた。
「お前は罪を食べているんじゃない」
霧の指が喉へ食い込む。
「人が自分を罪人だと思い続ける時間を食べている」
それこそが、終わりのない力。
望んだことを恥じる。
口にできなかったことを責める。
気づかなかった過去を何度も振り返る。
答えの出ない問いを繰り返し、自分で自分を閉じ込める。
山の神が与えたのは罪ではない。
罪という名前だった。
「なら、終わらせればいい」
鍵が熱くなる。
掌の皮膚が焼けるほどの熱だった。
だが、マックスは離さなかった。
銀色と真鍮色の鍵が、自ら互いへ引き寄せられる。
二本の先端が重なった。
金属が溶け、一つの長い鍵へ形を変えていく。
持ち手に刻まれた二つの目も重なり、一つになった。
その瞳は、もう誰も映していない。
ただ扉の奥にある暗闇の中心を見据えていた。
そこに鍵穴が浮かび上がる。
山の神の胸元。
依り代となった龍の、開かれた口の下。
霧に隠されていた小さな穴が、心臓の位置で黒く開いている。
鍵がマックスの手を引いた。
ソニアの声が聞こえた。
鍵が教えてくれる。
「ああ」
マックスは答えた。
「今度は分かった」
山の神が腕を振り上げる。
無数の顔が叫んだ。
ジョージの声。
ソニアの声。
龍の声。
そして、マックス自身の声。
助けて。
許して。
こちらへ。
逃げろ。
すべてが一つになり、怯える心を押し潰そうとする。
マックスは走った。
霧の腕が肩を打つ。
足元から伸びた根が右脚へ絡みつく。
構わず前へ出る。
ジョージが最後に残した言葉を思い出す。
次は、お前が先に手を伸ばせ。
マックスは鍵を突き出した。
「二人の抱いたものは、罪じゃない!」
鍵の先端が、山の神の胸へ突き刺さった。
抵抗はなかった。
水面へ手を入れるように、鍵は霧を貫いた。
奥にあった鍵穴へ届く。
マックスは両手で持ち手を掴み、右へ回した。
かちり。
小さな音だった。
次の瞬間、町中の錠が一斉に外れた。
広場を囲む建物の扉が開く。
美術館に並んでいた無数の扉。
民宿の開かなかった窓。
雪山の石像が抱いていた赤ん坊の目。
すべてが同時に開き、内側へ閉じ込められていた声を吐き出した。
泣き声が空へ昇る。
怒鳴り声が霧を裂く。
助けを求める声も、誰かを憎む声も、自分を責める声も、二度と口にできなかった謝罪も、白い光となって山の神から抜けていく。
霧の身体が膨張した。
龍の肉体が胸を反らす。
白い瞳がマックスを見つめ、口が大きく開いた。
そこから出たのは叫びではなかった。
「ほっほお……」
掠れた笑い声だった。
けれど、最後まで続かなかった。
音の途中で龍の顔が崩れ、皮膚の下から白い霧が噴き出した。
巨体に無数の亀裂が走る。
亀裂の一つ一つから、人の顔が離れていった。
ジョージがいた。
以前のように大きく目を見開き、いつもの不満そうな顔をしている。
その隣にはソニアがいた。
穏やかな蒼い瞳で、マックスを見つめている。
「待て」
二人は答えなかった。
「まだ、何も返していない」
ジョージの縫い針。
ソニアの手袋。
今もマックスのポケットに残っている。
「持ち主がいなければ返せないだろ」
ジョージは肩をすくめた。
ソニアは少し困ったように微笑んだ。
二人の姿が光へ変わる。
マックスは手を伸ばした。
今度は掴もうとはしなかった。
ただ、二人が消える最後の瞬間まで、その姿を見失わないために。
「忘れない」
その言葉が届いたかは分からなかった。
光は霧の天井へ昇り、見えなくなった。
山の神の身体が内側へ崩れ始める。
巨大だった霧の塊は急速に縮み、人の大きさへ戻っていく。
獣の輪郭。
赤ん坊の顔。
石像の女。
それらが次々に剝がれ落ち、最後に龍の肉体だけが残った。
禿げ上がった頭。
色白の顔。
黒いローブ。
丸眼鏡には大きな亀裂が入っている。
龍は数秒その場に立ち尽くした。
細く閉じられていた瞼が僅かに開く。
そこには、もう白い瞳はなかった。
黒い目が、初めて半笑いを浮かべずにマックスを見た。
「御方を……否定なされたか」
声は弱く、老人そのものだった。
「否定したのは、神じゃない」
マックスは鍵から手を離した。
「人の苦しみを罪と決めつけた、お前たちの考えだ」
龍の身体が前へ傾いた。
石畳へ倒れる。
乾いた音が広場へ響いた。
胸元から突き出していた鍵は消えていた。
マックスは老人へ近づき、首元へ指を当てた。
脈はない。
呼吸もしていない。
黒いローブの上にあった銀色の首飾りは中央から割れ、目に似た模様を失っていた。
顔に半笑いは残っていなかった。
ただ疲れ切った老人の死体が、霧に濡れた石畳へ横たわっている。
背後で音がした。
開かれていた扉が閉じていく。
暗闇も、大きな目も、その向こうへ吸い込まれていった。
最後に扉の隙間から、白い手が伸びた。
ソニアの手に見えた。
その隣には、ジョージの左手もあった。
マックスは一歩近づいた。
二つの手は、何かを求めるのではなく、別れを告げるように小さく動いた。
扉が閉じた。
鍵穴は消え、錆びた金属板だけが残る。
次の瞬間、扉そのものが霧となって崩れた。
石像も崩れ始める。
歪んだ笑みを浮かべた女の顔が割れ、腕の中にいた赤ん坊も灰色の粉となって地面へ落ちた。
広場を囲んでいた建物から、一斉に明かりが消える。
一軒。
また一軒。
霧の町全体が、長い息を吐くように沈んでいく。
道が消えた。
窓が消えた。
美術館の柱も、民宿の傾いた屋根も、黄色い街灯も、濃い霧の中へ溶けていった。
足元の石畳が白く変わる。
硬かった感触が消え、靴が柔らかなものへ沈んだ。
雪だった。
冷たい風が、マックスの頬を撫でる。
霧が少しずつ薄れていく。
その向こうに、雪を被った木々が現れた。
町はもうない。
龍の死体だけが、黒いローブを雪の上へ広げて横たわっている。
マックスは見上げた。
雲の切れ間に、夜明け前の青い空が見える。
雪山は静かだった。
女の呻き声も、石像の足音も聞こえない。
ポケットの中へ手を入れる。
焦げ茶色の手袋。
細い縫い針。
二本の鍵は残っていなかった。
マックスは手袋と針を強く握った。
町が消えても、二人が戻ることはなかった。
それでも、彼らを縛っていたものだけは、もう存在しない。
山の斜面を一筋の光が照らした。
朝が来ようとしている。
マックスは一人、雪の中に立ち尽くしていた。




