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霧の町  作者: KRR
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第七話 もう一つの扉

 黒い足跡は、血と錆に覆われた廊下を真っ直ぐに延びていた。


 一歩ごとに形が崩れ、縁から細い筋が流れている。それでも足跡は消えることなく、暗がりの中へマックスを導いていた。


 彼は右手に懐中電灯を持ち、左手には真鍮色の鍵と縫い針を握っていた。


 掌へ食い込む針の痛みだけが、ジョージの存在を証明している。


 次は、お前が先に手を伸ばせ。


 最後に残された言葉が、何度も頭の中で繰り返された。


 もう少し早く手を伸ばしていれば、彼を引き留められたのではないか。


 鏡を見せなければ。


 あの部屋へ入らなければ。


 そもそも自分が石像へ近づかなければ。


 考えるたび、過ぎた時間の中に別の選択肢が生まれた。どの道も今いる場所へは続かず、どの道を選んでもジョージはまだ隣にいる。


 だが、それは道ではない。


 戻ることのできない過去へ、後から引いた線にすぎない。


 マックスは足を止めなかった。


 黒い足跡は一枚の扉の前で途切れていた。


 鍵穴のない、細い木製の扉だった。


 鉄製の取っ手には赤錆が浮かんでいる。扉の周囲だけ壁紙が剥がれ、その下から黒ずんだ煉瓦が覗いていた。


 マックスは耳を寄せた。


 向こう側から風の音がする。


 美術館の中にいるはずなのに、落ち葉が地面を転がる乾いた音も聞こえた。


「ソニア。そこにいるのか?」


 返事はない。


 取っ手へ手を掛ける。


 冷たい。


 保存室の扉とは違い、抵抗なく回った。


 押しても開かない。


 試しに手前へ引くと、扉は軽い音を立てて動いた。


 隙間から霧が流れ込んでくる。


 マックスが身体を滑り込ませると、背後で扉が閉まった。


     *


 そこは、美術館の裏通りだった。


 左右を背の高い煉瓦造りの建物に挟まれ、舗装されていない細い道が霧の奥へ続いている。地面には雨水が溜まり、壁から突き出した排水管が一定の間隔で黒い雫を落としていた。


 空は見えない。


 見上げても建物の上部が霧に呑み込まれ、屋根がどこにあるかさえ分からなかった。


 マックスは振り返った。


 先ほどの扉は、美術館の裏壁に取り付けられている。


 その扉を中心に、壁面へ無数の爪痕が刻まれていた。内側ではなく、外側から誰かが入ろうとした跡だった。


 マックスは懐中電灯を掲げた。


 黒い足跡が路地の奥へ続いている。


 数歩先に、人影が立っていた。


 オレンジ色のスキーウェア。


 濡れた茶色の髪。


「ソニア」


 彼女は背を向けたままだった。


 マックスが近づくと、一歩遠ざかる。


「待ってくれ」


 さらに一歩。


 ソニアも一歩。


 二人の距離は縮まらない。


「ジョージが消えた」


 ソニアの足が止まった。


 肩が小さく震える。


「鏡に映らなかった。雪山で何かをされた姿が映って、その後……俺の目の前で消えた」


 ソニアは振り返らなかった。


「お前は知っていたのか?」


 しばらくの沈黙の後、彼女の首が僅かに縦へ動いた。


「なぜ言わなかった」


 問いかけた声は、自分が思った以上に鋭かった。


 ソニアの肩が強張る。


 責めるつもりはなかった。


 だが、ジョージが消えていく姿が脳裏に焼きついている。その事実を彼女が知っていたのなら、何かできたのではないかという思いを捨てきれなかった。


「いや……違うな」


 マックスは息を吐いた。


「話せなかったんだな」


 ソニアは動かない。


「鍵を渡した時も、何かを説明しようとしていた。それでも言葉が出なかった。お前の意思で黙っていたわけではない」


 彼女の右手が胸元へ上がった。


 何かを押さえている。


 マックスが一歩踏み出すと、ソニアは再び歩き始めた。


「来ないで、か?」


 足が僅かに止まり、また動く。


「それには従えない」


 マックスは後を追った。


 二人の足音が路地へ響く。


 ソニアの靴が水溜まりを踏むたび、透明だった水が黒く変わった。そこへマックスが足を置くと、黒い水は一瞬だけ赤く染まり、すぐ泥の色へ戻る。


 建物の窓には、すべて板が打ちつけられていた。


 板の隙間から何かがこちらを覗いている。


 白い指。


 瞬きをしない目。


 歯のない口。


 懐中電灯を向けると、それらは奥へ引っ込んだ。


 代わりに、窓板の向こうから無数の囁きが聞こえ始めた。


 ひとりめ。


 ひとりめ。


 ひとりめ。


 マックスは縫い針を強く握った。


 掌に鋭い痛みが走る。


「ジョージを数えるな」


 囁きは止まらなかった。


「人を物のように数えるな!」


 声を上げた瞬間、すべての窓板が一斉に揺れた。


 内側から無数の手が叩いている。


 ばたばたと乾いた音が連なり、狭い路地を満たした。


 ソニアが振り返った。


 青白い顔に黒い涙の跡が残っている。


 彼女は唇へ人差し指を当てた。


 静かに。


 マックスが口を閉じると、窓を叩く音も一つずつ消えていった。


 最後に残った窓の向こうから、ジョージの声が聞こえた。


「マックス」


 彼は反射的にそちらを見た。


「待て」


 低い声が続く。


「まだ、ここにいる」


 板の隙間に黒い瞳が見えた。


「開けてくれ」


 マックスは窓へ近づこうとした。


 ソニアが両手を広げて立ちはだかる。


「ジョージかもしれない」


 彼女は首を横へ振った。


「声は同じだ」


 もう一度、強く首を振る。


 窓の内側で何かが笑った。


 ジョージの声のまま。


「何だよ、マックス。今度も見捨てるのか?」


 言葉と同時に、ソニアが窓へ手を向けた。


 その掌の中で銀色の光が弾ける。


 板の隙間から覗いていた目が消えた。


 直後、窓の奥から人間のものとは思えない叫び声が上がった。


 板が大きく膨らみ、隙間から黒い液体が噴き出す。


 ソニアはマックスの手首を掴んだ。


 今度は感触があった。


 雪よりも冷たい指だった。


「走るのか?」


 彼女は頷いた。


 二人は駆け出した。


 背後で窓板の砕ける音がする。


 何かが路地へ下り立った。


 追ってくる足音は聞こえない。


 代わりに、濡れた布を地面へ這わせる音が急速に近づいてきた。


 ずる。


 ずる。


 ずる。


 路地の角を曲がる。


 霧が濃くなり、前を走るソニアの姿さえ見失いそうになる。


 それでも手首を掴む冷たい感触は消えなかった。


 ジョージの言葉が蘇る。


 次は、お前が先に手を伸ばせ。


 今、自分が掴まれている。


 これでは、あの時と同じだ。


 マックスは腕を捻り、ソニアの手を掴み返した。


 彼女が驚いたように振り向く。


「離さない」


 ソニアの蒼い瞳が大きく開かれた。


「今度は俺が掴む」


 彼女は何かを言おうとした。


 けれど声は出ず、唇から黒い息だけが漏れた。


 冷たかったソニアの指に、ほんの僅かな温度が戻った。


 二人は手を繋いだまま走り続けた。


     *


 追ってくる音が消えた頃、路地は小さな広場へ出た。


 中央に石像が立っている。


 雪山で見た女の像だった。


 長い髪。


 身体を覆う衣。


 腕の中に抱かれた灰色の布。


 歪んだ笑みを浮かべた顔は、あの時と同じ角度で赤ん坊を見下ろしている。


 だが、黒い涙は流していなかった。


 赤ん坊も動かない。


 石像の周囲には、黒いローブを着た者たちが円を描くように倒れていた。


 顔は布で覆われている。


 生きているのか、死んでいるのか分からない。


 胸が上下する様子はない。それでも近づくと、ローブの下から同じ言葉が聞こえてきた。


 もうすぐ。


 もうすぐ。


 もうすぐ。


 声は彼らの口からではなく、身体の内側から漏れているようだった。


「ここは……」


 マックスが石像を見上げる。


 腕の中の赤ん坊は、美術館で見たものと同じだった。


 布の隙間から黒く萎れた根が伸びている。


 ただし、今は一本も動かない。


 その沈黙が、かえって不気味だった。


 眠っているのではない。


 何かが満ちる時を待っている。


 マックスには、そう見えた。


「ジョージは、こいつに何をされた?」


 ソニアは俯いた。


「お前も何かされたのか?」


 答えはない。


「その黒い涙は何だ。なぜ話せない。なぜ俺を遠ざけようとする」


 問いを重ねるほど、ソニアの表情が苦しげに歪んだ。


 彼女は繋いでいた手を離そうとした。


 マックスは離さなかった。


「全部を説明しろとは言わない」


 声を抑える。


「話せない理由があることは分かった。だが、一人で何とかしようとするな」


 ソニアの目が揺れた。


「大学でもそうだった。写真展へ出す作品の撮影で、崖の近くまで一人で行っただろ」


 彼女の唇が僅かに動く。


 覚えている。


 そう答えたように見えた。


「あの時も、俺が機材を持つと言うまで、一人で全部運ぶつもりだった」


 ソニアは小さく首を横へ振った。


「違う?」


 今度は頷く。


 マックスには意味が分からなかった。


「俺を連れて行くつもりだったのか?」


 頷かない。


 否定もしない。


 あの日、ソニアは撮影場所を尋ねてきた。


 マックスが心当たりを教えると、彼女は少し間を置いてから、こう言った。


『一人だと、少し不安ですね』


 危険な場所だからだと思った。


 重い機材を運ぶ人手が必要なのだと。


 彼女の言葉をそのまま受け取り、それ以上の理由を考えなかった。


「お前は……」


 マックスが言葉を続けようとした時、杖を地面へ突くような音が響いた。


 広場の端に龍が立っていた。


 黒いローブ。


 丸眼鏡。


 胸元で重ねた両手。


 いつもの半笑いは、今は僅かに引きつっている。


「ほっほお……。ここまで辿り着かれましたか」


 マックスはソニアを背に庇った。


「ジョージを返せ」


「わしは何も奪っておりません」


「鏡に映った者たちは、あなたと同じ服を着ていた」


「同じ衣をまとう者が、同じ人間とは限りませんぞ」


「言葉遊びはやめてください」


「言葉ほど正確なものはございません。使う者が、正確でありさえすれば」


 龍の丸眼鏡がソニアへ向く。


 彼女はマックスの背後で、胸元を押さえた。


「ソニアが持っているものを狙っているんですか?」


 龍は眼鏡の縁へ指を当てた。


 だが、いつものように一周なぞることはしなかった。


「狙う必要はございません」


「なぜ?」


「わしには、見守ることしか許されておりませんゆえ」


 広場を囲む建物が低く鳴った。


 地面の下を巨大なものが動いている。


 そんな震動だった。


 石像も赤ん坊も動かない。


 倒れたローブ姿の者たちだけが、一斉に声を上げた。


 もうすぐ。


 もうすぐ。


 もうすぐ。


「何が始まる?」


「始まるのではございません」


 龍の半笑いが戻った。


「終わるのです」


 ソニアがマックスの袖を引いた。


 広場の奥を指している。


 霧の向こうに、一枚の扉が立っていた。


 壁も建物もない。


 扉だけが、自らの影を地面へ落としている。


 保存室にあったものと同じ、錆びた金属製の扉だった。


 マックスは手の中の真鍮色の鍵を見た。


 保存室を開けた鍵は、まだそこにある。


 しかし、扉には鍵穴が二つ並んでいた。


 一つは右。


 もう一つは左。


 ソニアが胸元から手を離す。


 その掌に銀色の鍵があった。


 真鍮色の鍵と同じ形。


 蔓のような模様。


 中央に刻まれた、小さな目。


「それを使えばいいのか?」


 ソニアは答えなかった。


 銀色の鍵をマックスへ差し出しかけ、途中で手を止める。


 蒼い瞳が彼を見つめた。


 そこには恐れがあった。


 扉の向こうにあるものへの恐れではない。


 鍵を渡すことで、何かが決定してしまうことへの恐れだった。


「ソニア」


 マックスは手を伸ばした。


 彼女は一歩退いた。


 唇が動く。


 来ないで。


 また同じ言葉だった。


「ここまで来て、それは聞けない」


 ソニアは首を横へ振った。


「ジョージはもういない。お前まで一人で行かせるつもりはない」


 彼女の頬を黒い涙が伝った。


「理由を言えないなら、言わなくていい」


 マックスは伸ばした手を下ろさなかった。


「それでも手を伸ばすことはできる」


 ソニアは銀色の鍵を見つめた。


 次に、マックスの手。


 そして最後に、石像が抱く赤ん坊へ目を向けた。


 赤ん坊の閉じていた左目が、ゆっくりと開いた。


 広場を包む霧が一斉に渦を巻く。


 龍の半笑いが消えた。


「お時間です」


 ソニアは銀色の鍵を強く握り締めた。


 扉の二つの鍵穴から、黒い液体が流れ出す。


 その向こう側で、何かが目を覚ました。


 低い呼吸が、扉全体を震わせる。


 ひゅう。


 ひゅう。


 ソニアはマックスの手を取った。


 蒼い瞳がマックスを見つめる。


 唇が、声にならない言葉を作った。


 ごめんなさい。


 その直後、二つの鍵穴が同時に音を立てた。


 まだ鍵を差していないにもかかわらず。


 扉は、内側からゆっくりと開き始めた。

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