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霧の町  作者: KRR
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第六話 真実を映す鏡

 鍵穴へ触れていたマックスの指先に、冷たいものが重なった。


 人の手だった。


 反射的に振り返る。


 誰もいない。


 廊下は錆と暗闇に覆われ、懐中電灯の光が届く場所にも人影はなかった。それでも、指先には他人の体温が残っている。


 温かいというより、雪の中へ長く埋められていた手を思わせる冷たさだった。


 マックスは保存室の扉から離れた。


「ソニア?」


 返事はない。


 代わりに、手の中の焦げ茶色の手袋が動いた。


 左右の手袋がゆっくり重なり、互いの指を絡める。握り合わせた掌の間から、何か硬いものが床へ落ちた。


 甲高い音が響く。


 真鍮色の鍵だった。


 掌ほどの長さがあり、持ち手には細い蔓のような模様が刻まれている。その中央には、小さな目に似た印があった。


 龍の首飾りにあったものと、よく似ている。


「今まで、どこにあった」


 マックスは手袋を裏返した。


 縫い目にも内側にも、鍵を隠せる場所はない。第一、これほど大きな鍵が入っていれば、持った時に気づくはずだった。


 床から拾い上げる。


 金属は冷えていなかった。


 誰かが、つい先ほどまで強く握り締めていたような温度がある。


 廊下の奥で、照明が一度だけ明滅した。


 光と闇が入れ替わった一瞬、保存室の横に人影が立っていた。


 オレンジ色のスキーウェア。


 耳を覆うほどの茶色い髪。


 俯いているため、顔は見えない。


「ソニア」


 マックスが一歩近づく。


 人影は顔を上げなかった。


 右手だけを伸ばし、鍵を握るマックスの手へ重ねる。


 触れた感覚はない。


 けれど、指の間から黒い液体が滲み出した。


「これを使えというのか?」


 人影の首が、僅かに縦へ動いた。


「中にジョージがいる?」


 今度は答えなかった。


 そしてマックスから逃れるように、一歩後ろへ退いた。


「待ってくれ。何が起きているのか知っているなら、説明してくれ」


 人影が首を振る。


「話せないのか?」


 もう一度、首が横へ動いた。


「それとも、話したくない?」


 その問いに、人影は動きを止めた。


 照明が激しく明滅する。


 明るくなるたびに輪郭が薄くなり、暗くなるたびに影だけが濃く床へ落ちた。


 やがて顔が上がった。


 蒼い瞳が、まっすぐにマックスを見る。


 間違いない。


 ソニアだった。


 ただ、その顔色は生きた者のものとは思えないほど白かった。頬には黒い筋が流れ、顎の先から一滴ずつ床へ落ちている。


「どうした。その顔は……」


 マックスが手を伸ばす。


 ソニアは身を引いた。


 触れられることを恐れているのではない。


 触れれば、マックスに何かが起こる。


 そう警告しているようだった。


 唇が動く。


 声は出ない。


 しかし、その形だけは読み取れた。


 来ないで。


「何度もそう言うが、理由が分からない」


 ソニアは苦しそうに目を伏せた。


「俺たちを巻き込みたくないのか?」


 肩が僅かに揺れた。


「つまり、こういう事か? お前は俺たちに危険が迫っていると知っている。だから遠ざけようとしている」


 ソニアは答えない。


「だが、ジョージが消えた。お前もこの状態だ。それを見て何もせずに立ち去ることはできない」


 マックスの声が廊下へ響いた。


「説明できない事情があるなら、それでもいい。だが、俺たちに何をさせたいのかくらいは教えてくれ」


 ソニアは保存室の扉を見た。


 次に、鍵。


 最後にマックスへ視線を戻す。


 その蒼い瞳に、何かを託すような光が浮かんだ。


 直後、廊下の奥から重い足音が聞こえた。


 ドスッ。


 ソニアの顔が強張った。


 ドスッ。


 石像の足音だった。


 彼女はマックスの胸を押すように両手を突き出した。


 触れていないはずなのに、強い力が身体へ伝わる。マックスは保存室の扉へ背中をぶつけた。


 照明が消えた。


「ソニア!」


 懐中電灯を向ける。


 そこにはもう誰もいなかった。


 床に残されているのは、二つの濡れた足跡だけだった。


 その足跡さえ、黒い水となって崩れ、木目の間へ吸い込まれていく。


 ドスッ。


 足音はさらに近づいていた。


 マックスは鍵を保存室の錠へ差し込んだ。


 寸分の隙間もなく収まる。


 右へ回す。


 内部で幾つもの金属部品が連動し、重い音を立てた。


 錠が外れる。


 同時に、背後の暗闇から低い呼吸音が聞こえた。


 ひゅう。


 赤ん坊のものだった。


 振り返らず、扉を引く。


 今まで何をしても動かなかった扉が、抵抗もなく開いた。


 マックスは中へ入り、すぐに扉を閉めた。


 外側から何かがぶつかる。


 激しい衝撃で扉が揺れ、枠から赤錆が降り注いだ。


 ドン。


 もう一度。


 ドン。


 扉の中央が僅かに内側へ膨らむ。


 しかし、三度目はなかった。


 足音も、呼吸音も消える。


 マックスは取っ手を握ったまま、耳を澄ませた。


 何も聞こえない。


 静けさの中に、自分の荒い呼吸だけが残っている。


「マックス?」


 背後から声がした。


 聞き慣れた低い声だった。


 振り返る。


 保存室の中央に、ジョージが立っていた。


 グリーンのスキーウェアは濡れ、茶色い髪が額へ張りついている。大きく見開かれた黒い目でマックスを見つめていた。


「やっと来たか」


 安堵より先に、苛立ちが表情へ浮かんでいる。


「どこへ消えた?」


「俺が訊きたい。照明が点滅したと思ったら、お前がいなくなった」


「また俺が消えたように見えたのか」


「ああ。扉も開かねえし、何度呼んでも返事もしない。どれだけ待たせるんだよ」


 ジョージは保存室に閉じ込められていたつもりらしい。


 しかし、扉を叩く音を聞いた時、彼はまだ廊下にいた。


 順序が合わない。


「中へ入ってから、どのくらい経った?」


「知らねえよ。時計は止まってる」


「感覚でいい」


「一時間くらいじゃないか?」


 マックスが扉を開けてから、数分も経っていない。


「どうした?」


「いや。後で整理する」


「また考え込む気か。今はソニアを捜せ」


「そのソニアに会った」


 ジョージの表情が変わった。


「どこで?」


「この扉の前だ。鍵を渡された」


「無事だったのか?」


「分からない。会話はできなかった」


「分からないって何だよ。見たんだろ」


「あれが本当に、今のソニアなのか確信できない」


「お前、何か隠してるだろ」


「隠してはいない」


「だったら、全部言え」


 マックスは答えなかった。


 黒い涙を流していたこと。


 触れようとすると逃げたこと。


 来ないで、と繰り返したこと。


 説明すれば、ジョージは後先を考えず飛び出すかもしれない。


 だが、黙っていることも彼への裏切りになる。


「様子がおかしかった」


 マックスは慎重に言葉を選んだ。


「顔色が悪く、こちらに触れようとしなかった。鍵を渡した後、消えた」


「怪我をしてたのか?」


「外傷は見えなかった」


「なら、まだ近くにいる。捜しに行くぞ」


 ジョージが扉へ向かう。


 マックスは腕を掴んだ。


「待て。ここを調べてからだ」


「こんな物置に何がある」


 保存室は窓のない正方形の部屋だった。


 壁際には古い絵画や彫刻が並び、そのほとんどが白い布で覆われている。棚には変色した書類や割れた額縁が積まれ、床には細かな硝子片が散らばっていた。


 空気は冷たい。


 外の廊下に漂っていた血や錆の臭いはない。


 代わりに、乾いた紙と埃の臭いがした。


 そして正面の壁に、大きな鏡が掛かっている。


 人の背丈よりも高い鏡だった。


 銀色の枠には、絡み合う蔓と人の顔が彫られている。笑っている顔。泣いている顔。口を大きく開けている顔。


 どれも目だけが閉じられていた。


 鏡面は曇り一つなく、部屋の中を鮮明に映し出している。


 マックス自身も映っていた。


 赤毛。


 汚れたオレンジ色のスキーウェア。


 懐中電灯を持つ右手。


 傷の残る左の掌。


 そして、隣にいるはずのジョージだけが映っていなかった。


 鏡の中には、マックスしかいない。


「ジョージ」


「何だよ」


「鏡を見ろ」


「見てる」


「何が映っている?」


「お前だよ。どうして俺に背中を向けてるんだ?」


 マックスは鏡の中の自分を見た。


 正面を向いている。


 にもかかわらず、ジョージには背中を向けているように見えるらしい。


「お前自身は?」


「映ってるに決まってるだろ」


「どこに?」


「ここだ!」


 ジョージは鏡の中央を指さした。


 その場所には古い棚しか映っていない。


「俺には見えない」


 言った途端、室内の温度が下がった。


 鏡の枠に彫られた顔が、一斉に目を開いた。


「何が見えない」


「お前が映っていない」


「馬鹿なこと言うな」


 ジョージは鏡へ近づいた。


 鏡面に手を触れる。


 指先が触れているはずの場所に、何の変化もない。


 曇りも、指紋も残らなかった。


「ほら、映ってるだろ。俺がいる」


 声が震えていた。


「俺には、棚と壁しか見えない」


「嘘だ」


「嘘をつく理由がない」


「じゃあ、お前の目がおかしいんだ!」


 ジョージは鏡を殴った。


 硝子の割れる音はしなかった。


 代わりに、どこか遠くで鐘が一度鳴った。


 ゴォン。


 鏡面に波紋が広がる。


 その中へ、別の景色が浮かび上がった。


 雪山だった。


 黒いローブをまとった数人が、雪の中で円を作っている。


 中央に青年が横たわっていた。


 グリーンのスキーウェア。


 逆立った茶色い髪。


 胸元が赤く染まっている。


「何だ、これ」


 ジョージが後ずさった。


 鏡の中で、横たわる青年の見開かれた黒い瞳は、何も見ていなかった。


 ローブ姿の一人が、その身体の上へ黒い液体を注いでいる。


 別の者が銀色の刃を抜いた。


「やめろ」


 ジョージの声が掠れた。


「そんなもの、見せるな」


 鏡の中の刃が落ちる。


 マックスは目を逸らさなかった。


 何が起きたのか理解しなければならない。


 だが、刃が身体へ触れる直前、鏡の景色は暗転した。


 次に映ったのは、美術館の通路だった。


 ジョージが一人で歩いている。


 本人は何かを叫び、誰かを捜している。


 そのすぐ後ろを、胸から血を流した同じ姿の青年がついていく。


 歩くジョージは、背後の自分に気づいていない。


「違う」


 ジョージは小さく言った。


「俺は生きてる」


 両手で胸元を押さえる。


 スキーウェアに傷はない。


 血も流れていない。


「怪我なんかしてない。痛くもない」


「ジョージ」


「俺はお前と話してる。歩ける。考えられる。死んでるわけがない」


「落ち着け」


「その言い方をやめろ!」


 ジョージはマックスの胸倉を掴んだ。


 力はある。


 指も、腕も、確かに存在している。


 それでも鏡には、マックス一人しか映っていなかった。


「俺を消そうとしてるのか?」


「何を言っている」


「お前だろ。ソニアを独り占めするために、今度は俺をいなかったことにする気か」


「そんなことをする理由はない」


「またそれか」


 ジョージの目に怒りが浮かぶ。


 だが、その奥には怒り以上に強い恐怖があった。


 一人になることへの恐れ。


 誰にも見えず、誰にも認められず、存在そのものを忘れられることへの恐れだった。


「お前さえいなければと思った」


 ジョージの手から、少しずつ力が抜けていく。


「山でお前が消えた時、これでソニアが俺を見るかもしれないって思った」


 鏡の表面に亀裂が走った。


 細い一本の割れ目が、映ったマックスの胸元を横切る。


「すぐ後悔した。捜した。本当に捜したんだ」


「分かっている」


「分かってない」


「分かっている。お前は俺を助けたことがある」


「昔の話だ」


「それでも事実だ」


 マックスは胸倉を掴むジョージの手に、自分の手を重ねた。


「凍った斜面で俺が滑った時、お前は自分の肩を痛めてまで止めた。あの時、考えてから動いたか?」


「覚えてねえよ」


「考えてはいなかった。お前は、そういう時には先に手を伸ばす」


「だから何だ」


「一瞬抱いた考えより、その後に何をしたかの方が、お前自身を示している」


 ジョージの顔が歪んだ。


「綺麗事を言うな」


 一歩、後ろへ下がる。


 その身体の輪郭が薄くなっていた。


 スキーウェアの向こうに、壁の棚が透けて見える。


「マックス」


 初めて、怒りのない声で名前を呼んだ。


「俺、どうなるんだ?」


 マックスには答えられなかった。


 手を伸ばす。


 ジョージも手を伸ばした。


 二人の指先が触れる。


 感触はあった。


 大学の閉ざされた講義室へ窓から忍び込んだ時。


 切れたリュックの肩紐を縫ってもらった時。


 凍った斜面で掴まれた時。


 長い間、当たり前のようにそばにあった手だった。


「ソニアを見つけろ」


 ジョージが言った。


「お前も一緒に捜す」


「もう無理みたいだ」


「決めつけるな」


「お前こそ、見れば分かるだろ」


 ジョージは自分の透けた腕を見て、引きつった笑いを浮かべた。


「最後まで腹立つ奴だな。こういう時まで、諦めが悪い」


「お前に言われたくない」


「違いねえ」


 笑みが消える。


「なあ、マックス」


「何だ」


「もしソニアが見つかったら……」


 言葉が途切れた。


 ジョージは目を閉じ、僅かに首を振った。


「いや。言わなくていい」


「何をだ?」


「何でもない。あいつの気持ちは、あいつが決めることだ」


 足元から黒い霧が立ち上った。


 ジョージの身体へまとわりつき、腰から胸へ這い上がっていく。


 マックスは彼の腕を掴んだ。


「離すな」


「お前が掴めって言ったんだろ」


「そうじゃない!」


 黒い霧の中で、ジョージの手が急速に冷たくなる。


「俺が何を思ってたか、ソニアには言うな」


「自分で言え」


「言えると思うか、この有様で」


 声まで薄くなっていく。


「それから……悪かった」


「何がだ」


「色々だよ。いちいち説明させるな」


「説明しなければ分からない」


「お前は、本当に最後まで……」


 ジョージは何かを言いかけ、苦笑した。


 その顔から怒りも嫉妬も消えていた。


 ソニアと出会う前、二人で山を登っていた頃と同じ顔だった。


「次は、お前が先に手を伸ばせ」


 指先の感触が消えた。


 マックスの手は何もない宙を掴んだ。


 黒い霧が天井へ昇る。


 その中に、ジョージの輪郭はもうなかった。


「ジョージ」


 名前を呼ぶ。


 返事はない。


 鏡の中には、マックス一人だけが立っている。


 足元に何かが落ちた。


 細い縫い針だった。


 ジョージが普段持ち歩いていた裁縫道具の一本。


 マックスはそれを拾い上げた。


 針の先には、焦げ茶色の糸が僅かに残っている。


 手袋の裂け目を縫ったものと同じ色だった。


 鏡面に、文字が浮かび上がった。


 白い曇りの上を、見えない指がなぞっていく。


 ひとりめ


 文字の下から黒い液体が流れ出した。


 マックスは鏡を睨んだ。


「ジョージをどこへやった」


 問いに答える者はいない。


 ただ、鏡に映るマックスの背後で、保存室の扉が音もなく開いた。


 廊下にソニアが立っている。


 その蒼い瞳はマックスではなく、彼の手に残された縫い針を見つめていた。


 唇が震える。


 泣いているように見えた。


「ソニア」


 振り返る。


 扉の向こうには誰もいない。


 再び鏡を見る。


 鏡の中のソニアも消えていた。


 床から、ひと筋の黒い足跡だけが廊下へ続いている。


 マックスは縫い針と鍵を握り締めた。


 ジョージを失ったという事実を、まだ受け入れることはできない。


 それでも立ち止まれば、彼の最後の言葉まで無駄になる。


 次は、お前が先に手を伸ばせ。


 マックスは黒い足跡を追い、保存室を出た。


 背後で扉が閉まる。


 最後に鏡が映したのは、誰もいない部屋だった。

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