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霧の町  作者: KRR
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第五話 閉ざされた保存室

 どちらかひとり。


 黒い文字は、床の上で濡れた光を放っていた。


 マックスはジョージから視線を外し、廊下の奥へ懐中電灯を向けた。


 赤ん坊の姿はない。


 天井から落ちていた赤黒い雫も止まり、先ほどまで聞こえていた呼吸音も消えている。


 静かだった。


 扉の向こう側まで息を潜め、二人の答えを待っているかのような静けさだった。


「違うって言ってるだろ」


 ジョージが繰り返した。


「俺が書いたんじゃない」


「分かっている」


「嘘をつけ。俺を疑ってる」


「お前がいつ、何を使って書いたというんだ」


 マックスは床を指した。


「文字は俺たちの後ろに現れた。お前はずっと前にいた。それに、この液体を持っている様子もない」


「だったら、何で黙ってた」


「意味を考えていた」


「またそれかよ」


 ジョージは吐き捨てると、錆びた扉を拳で叩いた。


「考えたところで開かねえだろ。だったら、とにかく動け!」


 最初の一撃に続けて、二度、三度と扉を殴る。


 鈍い音が廊下へ響いた。


 だが、扉は揺れなかった。


 壁に埋め込まれた金属板のように、僅かな振動さえ見せない。


「壊れないのは分かった。手を傷めるだけだ」


「じゃあ、どうする」


「開かない扉に共通点があるか調べる」


「全部開かない。それが共通点だろ」


「まだ全部は確かめていない」


 廊下は懐中電灯の光が届かない場所まで続いている。


 左右に並ぶ扉の数も分からない。


 マックスは最も近い扉へ戻り、取っ手を調べた。


 錆に覆われているが、回すことはできる。


 鍵穴へ懐中電灯を近づけた。内部に金属片は見えない。施錠されていないのではなく、初めから錠そのものが組み込まれていないようだった。


「この扉、鍵が掛からない」


「だから何だ?」


「鍵を必要としない扉なのかもしれない」


「開きもしないけどな」


 ジョージが隣の取っ手を乱暴に回す。


 やはり開かない。


 二人は廊下を進み、一枚ずつ扉を確かめた。


 一枚目。


 二枚目。


 三枚目。


 どの取っ手も回り、鍵穴は空だった。


 それでも扉は開かない。


 隙間に指を挟み、二人で引いた。肩からぶつかった。ジョージが床へ落ちていた金属片を差し込み、梃子のように押し込んだ。


 扉は動かなかった。


 木の床だけが軋み、天井から赤錆の粉が落ちてくる。


 四枚目。


 五枚目。


 六枚目。


 同じだった。


 扉の間隔は一定ではない。二歩ほどしか離れていないものもあれば、十歩以上先にあるものもあった。


 大きさも少しずつ違っている。


 人一人が通れるだけの細い扉。


 両開きの大きな扉。


 床から天井まで届く扉。


 子供でなければ屈まなければ入れない、小さな扉。


 それらが用途も順序もなく並んでいる。


「美術館に、こんな廊下があると思うか?」


 マックスが訊いた。


「俺に訊くな。美術館なんてほとんど行かねえよ」


「特別展示室から、かなりの距離を歩いている。建物の外周を考えれば、もう外へ出ているはずだ」


「迷ったんじゃないのか?」


「廊下は真っ直ぐだ」


「途中で方向が変わったかもしれないだろ」


「曲がり角はなかった」


「じゃあ、お前の言う通り、建物より中の方が広いってのかよ」


 ジョージの声が僅かに上ずった。


 マックスは答えなかった。


 論理的に考えれば、そのようなことはあり得ない。


 だが、あり得ないという理由だけで否定できる段階は、雪山でとうに過ぎていた。


 背後で、扉が閉まる音がした。


 二人は同時に振り返った。


 どの扉も閉じている。


 それでも、確かに音がした。


 重い扉が、ゆっくりと枠へ収まる音だった。


「今の、聞いたよな?」


「ああ」


「どれだ?」


「分からない」


 懐中電灯を向けながら、来た道を戻る。


 床に書かれていたはずの文字が消えていた。


 黒い液体の跡さえない。


 代わりに、廊下の中央へ焦げ茶色の手袋が落ちていた。


 マックスは足を止めた。


 ポケットへ手を入れる。


 手袋は入っている。


 取り出すと、目の前に落ちているものと左右が対になっていた。


「もう片方……」


「ソニアが持ってたやつか?」


「ああ」


 マックスは拾おうと屈んだ。


「待て」


 ジョージが腕を掴む。


「罠かもしれない」


「その可能性はある」


「だったら触るな」


「だが、彼女が残したものかもしれない」


「それも罠だったらどうする」


「確かめなければ判断できない」


「お前はソニアのものなら何でも信じるのかよ」


 マックスは顔を上げた。


 ジョージの指が腕へ強く食い込んでいる。


「今、その話をする必要があるか?」


「ある」


「ない。俺たちがすべきなのは、ソニアを見つけて、この建物から出ることだ」


「それだよ」


 ジョージの口元が歪んだ。


「お前はいつも、ソニアを捜すとか、ソニアを助けるとか、そればかりだ」


「お前だって捜しているだろ」


「俺とお前じゃ違う」


「何が違う?」


 ジョージは答えなかった。


 代わりにマックスの腕を放し、顔を背ける。


「勝手にしろ」


 マックスは床の手袋へ手を伸ばした。


 指先が触れる直前、手袋が動いた。


 親指が折れ、人差し指が廊下の奥を示す。


 前に拾った片方と同じ動きだった。


 マックスは慎重に持ち上げた。


 冷たい。


 けれど内側には、人肌に触れていたばかりのような湿り気がある。


「ソニア」


 名前を呼ぶ。


 廊下の奥で、靴音がした。


 こつ。


 一度だけだった。


「いるのか?」


 マックスは光を向けた。


 血と錆に覆われた廊下の先に、人影が立っている。


 茶色い髪。


 オレンジ色のスキーウェア。


 輪郭は薄暗がりに霞んでいたが、見間違えるはずはなかった。


「ソニア!」


 マックスは走り出した。


「待て、マックス!」


 ジョージも後を追う。


 人影は動かなかった。


 距離は数十歩ほどしかない。


 それなのに、走っても近づかない。


 扉だけが左右を流れていく。


「ソニア、聞こえるか!」


 呼びかけると、人影が右腕を上げた。


 来ないで。


 掌をこちらへ向ける仕草は、そう告げているように見えた。


「どうして逃げる!」


 ジョージが声を張り上げた。


「俺たちだ! 分かるだろ!」


 人影の顔は影に隠れている。


 それでも、首が僅かに横へ振られた。


 一度。


 もう一度。


「何を伝えたいんだ?」


 マックスの問いに、人影は手を下ろした。


 そして背後の扉へ身体を向ける。


 錆びた金属製の扉だった。


 他のものと変わらないように見えたが、その中央には白い文字で、ひとことだけ書かれている。


 保存室。


 人影はその扉へ手を伸ばした。


 触れたように見えた瞬間、照明が消えた。


 暗闇が廊下を覆う。


「ソニア!」


 マックスは懐中電灯を振った。


 光の輪が壁を横切る。


 扉。


 扉。


 扉。


 人影は消えていた。


 だが、保存室の扉は残っている。


 その前に、小さな水溜まりができていた。


 透明な水ではない。


 黒い液体だった。


「また消えた……」


 ジョージが追いつき、荒い息を吐いた。


「今の、本当にソニアだったのか?」


「服装は一致していた」


「顔を見てないだろ」


「彼女の可能性は高い」


「可能性、可能性って、そればっかりだな」


 ジョージは扉へ近づき、取っ手に手を掛けた。


 次の瞬間、金属を打つ甲高い音が響いた。


 取っ手は回らない。


「おい」


 もう一度、力を込める。


 動かない。


 ジョージは鍵穴を覗き込んだ。


「鍵が掛かってる」


 マックスも確認した。


 確かに、鍵穴の奥には錠の一部らしい金属が見える。


 これまでの扉とは違う。


 開かなかった扉には、鍵そのものが存在していなかった。


 この扉だけが、施錠されている。


「つまり、こういう事か……」


 マックスは二枚の手袋を見た。


 どちらも保存室を指している。


「開けられない扉ではなく、鍵があれば開く扉だ」


「その鍵はどこだ?」


「分からない」


「ソニアが持ってるのか?」


「さっきの人影が彼女なら、この場所を教えようとしていた。鍵まで持っているなら、自分で開けたはずだ」


「じゃあ、中にいるんじゃないのか」


 ジョージは扉へ耳を当てた。


「ソニア! いるなら返事しろ!」


 しばらく何も聞こえなかった。


 やがて、扉の内側から三度、音がした。


 コン。


 コン。


 コン。


 二人は顔を見合わせた。


「ソニアか!」


 ジョージが取っ手を激しく揺らす。


「そこにいるんだろ! 離れてろ。今、壊してやる!」


 彼は数歩下がると、肩から扉へぶつかった。


 鈍い音がする。


 扉はびくともしない。


 もう一度。


 勢いを増し、全体重を掛ける。


 金属が鳴り、天井から錆の粉が落ちた。


「やめろ」


「うるせえ!」


「開かない。鍵を探すべきだ」


「中にいるんだぞ!」


「返事が、本当にソニアのものだという保証はない」


「見捨てろって言うのか!」


「そうは言っていない!」


 マックスが一歩近づいた時、照明が明滅した。


 短い暗闇。


 直後、明かりが戻る。


 ジョージの姿が消えていた。


「……ジョージ?」


 扉の前には誰もいない。


 床にも足跡はない。


 ただ、彼が最後に立っていた場所へ赤黒い雫が落ちている。


 一滴。


 二滴。


 三滴。


「ジョージ!」


 マックスは周囲の扉を開けようとした。


 右の扉。


 開かない。


 左の扉。


 開かない。


 取っ手は回るのに、どちらも枠へ縫いつけられたように動かない。


 保存室の扉を叩く。


「ジョージ! 中にいるのか!」


 返事はなかった。


 先ほどの三度の音も、もう聞こえない。


 廊下にはマックス一人だけが残されていた。


 つい先ほどまで聞こえていたジョージの怒鳴り声が、嘘のように消えている。


 まただ。


 雪山と同じだった。


 隣にいた者が、瞬き一つの間に消える。


 そのたび、自分だけが取り残される。


「どちらかひとり……」


 床に現れた文字を思い出した。


 あれが選択を迫っていたのなら、何を選ばせようとしていたのか。


 自分か、ジョージか。


 残る者か、消える者か。


 それとも、ソニアを捜す者と、諦める者か。


「お見事ですな」


 背後から、しゃがれた声がした。


 マックスは振り返った。


 廊下の中央に龍が立っている。


 黒いローブに身を包み、胸の前で両手を重ねていた。錆と血に汚れた周囲の中で、老人だけが最初から別の場所に立っているかのように清潔だった。


「いつからいたんです?」


「さて。あなたが一人になる前か、後か」


「ジョージをどこへやった」


「わしが?」


 龍は丸眼鏡の縁を一周なぞった。


「ほっほお。人を消せるほどの力が、わしにあるように見えますかな」


「少なくとも、この場所について何か知っている」


「それは否定いたしません」


「ここで何が行われている?」


 龍の半笑いが僅かに深くなった。


「行われている、ではございません。行われようとしているのです」


「何が?」


「古くから、多くの者が願ってきたことです。失われたものを呼び戻し、沈黙したものに声を与える」


「死者を蘇らせるとでも?」


「死とは、どちら側から眺めるかによって姿を変えるもの。こちらで死んだ者が、あちらでも死んでいるとは限りません」


 マックスは保存室を見た。


「ジョージは、この扉の向こうにいるんですか?」


「今は、どちらとも申せませんな」


「答えてください」


「答えは扉の向こうにございます」


「鍵がない」


「ならば、まだ見る時ではないのでしょう」


 龍は保存室の扉へ歩み寄った。


 黒い液体の水溜まりを踏んでも、足元には何も付着しない。


 老人は鍵穴へ顔を近づけた。


「この扉は、隠されたものを保存しております。記録。記憶。命。そして、本人さえ認めようとしなかった願い」


「誰の願いです?」


「あなた方の」


「俺たちをこの町へ呼んだのは、あなたですか?」


「ほっほお。わしが呼ばずとも、抱えたものが道を開いたのです」


「抱えたもの?」


「口にせず、実行せず、捨てもせず。胸の奥へ閉じ込められた願いは、長く留まるほど強くなる」


 龍の胸元で、銀色の首飾りが揺れた。


 幾重にも絡み合った輪の中央にある目のような模様が、マックスを見返している。


「叶えば消える。諦めても消える。しかし、叶えられぬまま抱き続けた願いは、終わりを持たない」


「それを集めているのか?」


 龍は答えなかった。


 廊下の扉が一斉に音を立てた。


 コン。


 コン。


 コン。


 無数の扉の向こうから、何かが叩いている。


 弱い音。


 激しい音。


 爪を立てる音。


 掌で縋る音。


 一つ一つは違うのに、すべてが同じ言葉を訴えているようだった。


 開けてくれ。


 ここから出してくれ。


「この中に、人がいるのか?」


「人であったものなら」


「あなたたちは何をしようとしている?」


「わしらは器を整えているにすぎません」


「何のための?」


「山が、再び目を開くための」


 照明が大きく揺れた。


 天井の奥から低い振動が伝わり、床に積もった錆が細かく跳ねる。


 遠くで、女の呻き声に似た音がした。


 ウウウゥゥゥゥ。


 雪山で聞いた風の音だった。


「石像と関係があるんですね」


「像は、目印にすぎません」


「あの赤ん坊は?」


「まだ生まれておりません」


「生きていた」


「生まれずとも、生きるものはございます」


 龍は扉から離れた。


「今は鍵を捜しなされ。もっとも、手にした時に開ける勇気が残っていれば、ですが」


「どこにある?」


「鍵は、閉じ込められた側が持っているもの」


「保存室の中にあるというんですか?」


「一つは」


「一つ?」


 問い返した時には、龍の姿が薄くなっていた。


 黒いローブの輪郭が霧のようにほどけ、廊下の暗がりへ溶けていく。


「待ってください!」


 マックスは老人へ手を伸ばした。


 指先は何にも触れなかった。


「ジョージは生きているんですか?」


 龍の丸眼鏡だけが暗闇に浮かんでいた。


「この町で、その問いに意味はございません」


「ソニアは?」


「彼女はすでに、あなたより多くを見ております」


「どこにいる!」


「近くに」


 丸眼鏡が消えた。


 最後に、しゃがれた声だけが残った。


「見えなくなったものほど、近くにおりますゆえ」


 廊下に静けさが戻った。


 マックスは保存室の前に立ち尽くしていた。


 手の中には、左右一組となった焦げ茶色の手袋がある。


 その片方が、ゆっくりと指を曲げた。


 何かを握ろうとしている。


 だが、その掌には何もなかった。


 鍵を除いて。


 初めからそこにあったはずの鍵だけが、抜き取られているかのように。


 マックスは鍵穴へ指を触れた。


 扉の向こうから、微かな音が聞こえた。


 コン。


 一度。


 間を置いて、もう一度。


 コン。


 そして最後に、今度はすぐ耳元で囁くような音がした。


 コン。


 マックスは扉から手を離した。


 誰が叩いているのかは分からない。


 ジョージか。


 ソニアか。


 それとも、二人の声を真似る何かなのか。


 鍵はない。


 扉を開けることはできない。


 それでもマックスには、扉の向こうにいる者が、自分の持っていない鍵を握り締めているように思えた。

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