第四話 錆びた揺り籠
ポケットから取り出した手袋には、黒い染みが広がっていた。
指先から手首へ向かい、布地の繊維を一本ずつ侵している。水に濡れた時とは違い、染みの輪郭は生き物のように脈打っていた。
マックスは親指で触れた。
冷たい。
雪解け水よりも冷たく、それでいて指へまとわりつく粘り気がある。
臭いはしなかった。
雪山の石像が流していた黒い涙も、こうして臭いまで確かめてはいなかった。似ているというだけで、同じものだと決めつけるべきではない。
しかし、美術館へ導く文字。
ソニアへ貸した手袋。
そして、その内側から染み出した黒い液体。
それぞれが無関係だと考える方が不自然だった。
「つまり、こういう事か……」
マックスは呟いた。
「俺をここへ呼んだ誰かは、ソニアが手袋を持っていたことを知っている」
「ほっほお。その誰かが、ソニア殿とはお考えにならないので?」
階段の下に立つ龍が、丸眼鏡の縁をなぞった。
「彼女なら、黒い液体で壁に文字を書いたりしない。少なくとも、事情を説明できる状態なら」
「事情を説明できない状態かもしれませんぞ」
マックスは老人を見た。
「どういう意味です?」
龍は胸元で両手を重ね、半笑いを浮かべたまま美術館を見上げた。
「中へ入れば、お分かりになるのでは?」
一緒に来るつもりはないらしい。
「あなたは入らないんですか?」
「招かれたのは、あなたですからな」
「ここまで案内しておいて?」
「道を教える者が、必ずしも目的地まで同行するとは限りません」
マックスは美術館の扉へ目を向けた。
金属製の両扉には、無数の傷が刻まれている。
近くで見ると、その深さは一定ではなかった。表面を浅く擦っただけのものもあれば、金属板を裂く寸前まで食い込んだものもある。
五本一組の傷。
指の本数と同じだった。
内側から誰かが、必死に扉を開けようとした。
そう考えるのが自然だった。
「龍さん」
「何でしょうな」
「これまで、この中から出てきた人を見たことは?」
老人は少し首を傾けた。
「出てきたのが、入った者と同じであるなら」
「同じでなければ?」
「そう見えるだけの別人かもしれませんな」
意味を問い直す前に、龍は背を向けた。
黒いローブが霧に溶けていく。
「待ってください」
「お二人が見つかるとよろしいですな」
「もし俺が戻らなかったら?」
老人の足が止まった。
振り返りはしなかった。
「戻らぬ者を待つ必要はございません」
しゃがれた声だけを残し、龍の姿は霧の向こうへ消えた。
マックスはしばらく、その場所を見つめていた。
追いかけて問い詰めることも考えた。
だが、ポケットの中にはソニアの持っていた手袋がある。自分を導いた者の意図が何であれ、二人へ繋がる唯一の手掛かりだった。
マックスは美術館の階段を上った。
傷だらけの扉へ手を掛ける。
金属とは思えないほど温かかった。
誰かの掌に触れている。
そんな温度だった。
力を込めると、扉は重い音を立てて内側へ開いた。
*
美術館の内部は、外観から想像したものより明るかった。
正面に広い玄関ホールがあり、天井からは大きな硝子製の照明が下がっている。白い壁には金色の縁取りが施され、磨かれた床には照明の光が映り込んでいた。
埃もない。
長く放置された町の建物とは思えなかった。
ただ、人の姿だけがなかった。
受付には誰もいない。入館者の記録らしき帳面が開かれているものの、すべての頁が白紙だった。
マックスは受付の奥へ声を掛けた。
「誰かいませんか?」
返事はなかった。
声だけが高い天井へ昇り、薄い反響となって戻ってくる。
いませんか。
いませんか。
最後の一声だけが、女の声に聞こえた。
「ソニア?」
呼びかけても、今度は反響さえ返らなかった。
玄関ホールから、三つの展示室へ通路が延びている。
左には絵画展示室。
右には彫刻展示室。
正面には特別展示室。
それぞれの入口に金色の案内板が掛かっていた。
床を調べたが、黒い液体の跡はない。濡れた靴跡も残っていなかった。
マックスはポケットから焦げ茶色の手袋を出した。
先ほどまで広がっていた黒い染みが消えている。
代わりに、手袋の人差し指だけが真っ直ぐ伸び、正面の通路を指していた。
偶然に形が崩れただけだ。
そう考えながらも、マックスは特別展示室へ向かった。
通路の両側には人物画が並んでいる。
どの絵も、顔だけが描かれていなかった。
豪華な衣装を身にまとった男。
花束を抱く女。
椅子に腰掛ける老人。
身体は細部まで描き込まれているのに、顔に当たる部分には白い絵の具が塗られている。初めから何も描かれていなかったのではない。別の顔を上から塗り潰したように、白の下から肌色や黒い瞳の一部が透けていた。
マックスが一枚の絵の前を通り過ぎる。
背後で、布の擦れる音がした。
立ち止まる。
音も止まった。
振り返れば、椅子に座る老人の絵がある。
顔は白い。
先ほどと何も変わらない。
再び歩く。
衣擦れの音がついてくる。
さり。
さり。
額縁の中の人物たちが、見えない顔をこちらへ向けているようだった。
マックスは歩調を速めた。
特別展示室の扉は開いていた。
中には小さな展示台が一つだけ置かれている。
硝子の覆いもない。
照明に照らされているのは、人形だった。
赤ん坊を象ったものらしい。
身を包む布は灰色に変色し、顔の半分を覆っている。露出した頬には細かな亀裂が走り、口は泣き声を上げる寸前の形に開いていた。
雪山で見た石像が抱いていたもの。
あの時は布に隠れており、はっきりとは見えなかった。
だが、大きさも形も同じだった。
布の隙間から突き出した細長いものもある。
指ではない。
黒く萎れた木の根のようなものが、赤ん坊の胴体から何本も伸びていた。
根の先は展示台を這い、床へ垂れている。
マックスは近づかなかった。
展示台の前に説明板がある。
題名も作者名も書かれていない。
中央に一行だけ文字が刻まれていた。
望まれたものは生まれない。
「何だ、これは……」
その瞬間、赤ん坊の口から息が漏れた。
ひゅう。
弱い呼吸音だった。
マックスは懐中電灯へ手を伸ばした。
照明が一度、明滅する。
明るさが戻ると、人形の首が先ほどより僅かに傾いていた。
展示室の入口へ顔を向けている。
マックスもそちらを見た。
誰もいない。
だが、通路の奥から足音が近づいてきた。
規則正しい、人間の足音だった。
「ソニアか?」
マックスは展示室を出た。
白い壁に囲まれていたはずの通路が、薄暗くなっている。
照明の数が減っていた。
天井から下がる灯りは、不規則な間隔で明滅している。その奥を、人影が横切った。
「待ってくれ!」
マックスは走った。
角を曲がる。
そこには長い廊下が延びていた。
先ほど通った場所ではない。両側には人物画ではなく、金属製の扉が幾つも並んでいる。
人影は廊下の先にいた。
グリーンのスキーウェア。
逆立った茶色い短髪。
「ジョージ!」
呼びかけると、人影が立ち止まった。
ゆっくりと振り返る。
見開かれた黒い目が、マックスを捉えた。
「……マックス?」
聞き慣れた低い声だった。
その声を聞いた途端、胸の奥で張り詰めていたものが切れた。
「無事だったのか」
マックスは駆け寄った。
「それはこっちの台詞だ!」
ジョージは怒鳴り、両手でマックスの肩を掴んだ。
「どこへ行ってた! 急に消えやがって!」
「俺が消えた?」
「そうだよ! 像を見てたと思ったら、次の瞬間にはいなくなってた!」
マックスは言葉を失った。
自分が見たものとは逆だった。
消えたのはジョージとソニアだ。
二人分の足跡が、雪の途中で途切れていた。
「待て。つまり、こういう事か? お前からは、俺が消えたように見えたのか?」
「だから、そう言ってるだろ!」
「ソニアは?」
ジョージの手から力が抜けた。
「お前と一緒じゃないのか?」
「違う。山で二人を見失ってから、一度も会っていない」
「じゃあ、あいつはどこにいる」
「それを捜している」
ジョージは唇を噛み、マックスから目を逸らした。
顔色が悪かった。
寒さのせいとは思えないほど白く、額には細かな汗が浮かんでいる。グリーンのスキーウェアは濡れているが、雪が解けたというより、雨の中に長時間立っていたような濡れ方だった。
肩から裾へ、暗い染みが広がっている。
「怪我をしているのか?」
「してない」
「その服は?」
「知らねえよ。気づいたらこうなってた」
「ここへ来るまで、何があった?」
ジョージは答えようと口を開き、眉を寄せた。
「山を下りた。それから……」
「それから?」
「分からない」
苛立ったように頭を掻く。
「気づいたらこの建物にいた。誰かに会った気もする。でも、顔が思い出せない」
「老人を見なかったか? 黒いローブを着て、丸眼鏡を掛けている」
「見てない」
「本当に?」
「疑ってんのか?」
「確認しているだけだ」
「その言い方が腹立つんだよ」
以前と変わらない反応だった。
マックスは僅かに息を吐いた。
怒鳴り声さえ、今は安堵をもたらした。
「ソニアを捜そう」
「ああ。言われなくても、そのつもりだ」
ジョージが先に歩き出す。
その背中を見ながら、マックスは大学へ入ったばかりの頃を思い出していた。
まだソニアと出会う前。
二人だけで、初めて冬山へ登った時のことだった。
経験の浅かったマックスは、凍った斜面で足を滑らせた。谷へ落ちるほどの場所ではなかったが、身体が勢いよく流され、自力では止まれなかった。
横からジョージが飛びつき、雪の中へピッケルを突き立てた。
二人分の体重が掛かり、ジョージの左肩が不自然な角度に捻れた。
『腕を痛めたんじゃないか?』
『動くから平気だ』
『下山した方がいい』
『ここまで来て戻れるか。とにかく登るぞ』
結局、二人は頂上まで辿り着いた。
下山後、ジョージの左肩には大きな赤紫色の痣ができていた。それでも彼は、助けたことを一度も恩に着せなかった。
口が悪く、短気で、勝ち負けにこだわる。
それでも、マックスが危険に陥れば考えるより先に手を伸ばす男だった。
いつから、互いの間に見えない壁ができたのだろう。
答えは分かっている。
「なあ、マックス」
前を歩くジョージが不意に言った。
「ソニアと付き合ってるのか?」
「付き合っていない」
「本当に?」
「以前にも答えたはずだ」
「二人で出掛けてるだろ」
「彼女が写真を撮る場所を探していたから、心当たりを教えただけだ」
「一緒に行く必要はない」
「機材を運ぶ人手が必要だった」
「何でも理由をつけるよな、お前」
ジョージは振り返らなかった。
「ソニアは、お前の隣にいる時だけ楽しそうに見える」
「考えすぎだ」
「そうやって何も気づかないふりをしてれば、自分は悪くないって思えるよな」
冷たい声だった。
マックスは足を止めた。
「何が言いたい?」
ジョージも立ち止まる。
廊下の照明が明滅し、彼の影が伸び縮みした。
「お前がいなければって、考えたことがある」
雨が降り始めたような音がした。
天井の奥で無数の雫が弾けている。
「お前がいなければ、ソニアは俺を見るんじゃないかって」
ジョージの左手が拳を作る。
「山でお前が消えた時、一瞬だけ思った」
一呼吸置いて、声が続いた。
「これで邪魔する奴はいなくなった、って」
マックスは何も言えなかった。
夢の中で見た口元が蘇る。
お前さえいなければ。
「でも、すぐ捜した」
ジョージは吐き捨てるように付け加えた。
「本当だ。お前が消えればいいなんて、本気で思ってたわけじゃない。ほんの一瞬だ。誰だって、それくらい考えるだろ」
最後の言葉は、マックスではなく自分自身へ向けられていた。
「ジョージ」
「そんな目で見るな」
「俺は何も」
「見るなって言ってんだよ!」
ジョージが壁を殴った。
鈍い音が響く。
白かった壁の表面に亀裂が走った。
その隙間から、赤黒い液体が滲み出した。
二人は同時に息を止めた。
液体は細い筋となって壁を伝い、床へ落ちた。
ぽたり。
落ちた場所から、磨かれていた床が茶色く腐食していく。
錆だった。
床だけではない。
異変は廊下全体へ広がっていった。
白い壁紙が膨れ、内側から血のような染みが浮き出す。金色の縁取りは黒ずみ、赤茶色の粉を落としながら崩れていく。
照明が一つずつ消えた。
清潔だった空気に、鉄と黴と腐った水の臭いが混じる。
天井から赤黒い雫が落ち始めた。
「何だよ、これ……」
ジョージが後ずさる。
足元で、床板が軋んだ。
先ほどまで石造りだったはずの床が、黒く腐った木材へ変わっている。壁に並んでいた扉は表面を錆で覆われ、どれも長い年月を経た廃墟のようになっていた。
マックスは背後を見た。
廊下の奥に、先ほどの赤ん坊がいた。
展示台から下りている。
灰色の布を引きずり、床の上に座っている。
顔はこちらへ向いていた。
口が大きく開いている。
泣き声は聞こえない。
代わりに、天井から落ちる雫が声を作っていた。
たすけて。
たすけて。
一滴ごとに、そう聞こえた。
「走れ!」
マックスが叫んだ。
二人は廊下を駆け出した。
背後から何かを引きずる音が追ってくる。
ずる。
ずる。
赤ん坊が這っている。
振り返らなくても分かった。
細長い根を何本も床へ突き立て、自らの身体を引きずっている。
ずる。
ずる。
その間隔が次第に短くなる。
前方に扉があった。
ジョージが先に辿り着き、取っ手を掴む。
「開かねえ!」
「鍵は?」
「掛かってない!」
二人で扉を引く。
取っ手は動く。
鍵の外れる感触もある。
それでも扉は、壁の一部になったかのように開かなかった。
背後で、赤ん坊の呼吸音がした。
ひゅう。
ひゅう。
マックスは隣の扉へ走った。
取っ手を回す。
鍵は掛かっていない。
だが、開かない。
さらに次の扉。
その次の扉。
どれも同じだった。
「どうなってやがる!」
ジョージが錆びた扉を蹴りつける。
低い音だけが廊下へ響いた。
マックスは懐中電灯を背後へ向けた。
赤ん坊の姿はなかった。
廊下にも、引きずられた跡はない。
ただ、床の上に黒い液体で言葉が書かれていた。
子供のように歪んだ文字だった。
どちらかひとり
ジョージがそれを読み、黙り込む。
次にマックスを見た。
見開かれた目の中で、何かが揺れた。
恐怖か。
疑いか。
あるいは、雪山でマックスが消えた時に抱いたという、ほんの一瞬の願いか。
「違う」
ジョージが掠れた声で言った。
「俺じゃない」
マックスは答えなかった。
答えられなかった。
どちらかひとり。
その言葉の意味を考えているうちに、二人の間にあった僅かな安堵は、血と錆の臭いの中へ消えていた。




