↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
霧の町  作者: KRR
PR
5/11

第四話 錆びた揺り籠

 ポケットから取り出した手袋には、黒い染みが広がっていた。


 指先から手首へ向かい、布地の繊維を一本ずつ侵している。水に濡れた時とは違い、染みの輪郭は生き物のように脈打っていた。


 マックスは親指で触れた。


 冷たい。


 雪解け水よりも冷たく、それでいて指へまとわりつく粘り気がある。


 臭いはしなかった。


 雪山の石像が流していた黒い涙も、こうして臭いまで確かめてはいなかった。似ているというだけで、同じものだと決めつけるべきではない。


 しかし、美術館へ導く文字。


 ソニアへ貸した手袋。


 そして、その内側から染み出した黒い液体。


 それぞれが無関係だと考える方が不自然だった。


「つまり、こういう事か……」


 マックスは呟いた。


「俺をここへ呼んだ誰かは、ソニアが手袋を持っていたことを知っている」


「ほっほお。その誰かが、ソニア殿とはお考えにならないので?」


 階段の下に立つ龍が、丸眼鏡の縁をなぞった。


「彼女なら、黒い液体で壁に文字を書いたりしない。少なくとも、事情を説明できる状態なら」


「事情を説明できない状態かもしれませんぞ」


 マックスは老人を見た。


「どういう意味です?」


 龍は胸元で両手を重ね、半笑いを浮かべたまま美術館を見上げた。


「中へ入れば、お分かりになるのでは?」


 一緒に来るつもりはないらしい。


「あなたは入らないんですか?」


「招かれたのは、あなたですからな」


「ここまで案内しておいて?」


「道を教える者が、必ずしも目的地まで同行するとは限りません」


 マックスは美術館の扉へ目を向けた。


 金属製の両扉には、無数の傷が刻まれている。


 近くで見ると、その深さは一定ではなかった。表面を浅く擦っただけのものもあれば、金属板を裂く寸前まで食い込んだものもある。


 五本一組の傷。


 指の本数と同じだった。


 内側から誰かが、必死に扉を開けようとした。


 そう考えるのが自然だった。


「龍さん」


「何でしょうな」


「これまで、この中から出てきた人を見たことは?」


 老人は少し首を傾けた。


「出てきたのが、入った者と同じであるなら」


「同じでなければ?」


「そう見えるだけの別人かもしれませんな」


 意味を問い直す前に、龍は背を向けた。


 黒いローブが霧に溶けていく。


「待ってください」


「お二人が見つかるとよろしいですな」


「もし俺が戻らなかったら?」


 老人の足が止まった。


 振り返りはしなかった。


「戻らぬ者を待つ必要はございません」


 しゃがれた声だけを残し、龍の姿は霧の向こうへ消えた。


 マックスはしばらく、その場所を見つめていた。


 追いかけて問い詰めることも考えた。


 だが、ポケットの中にはソニアの持っていた手袋がある。自分を導いた者の意図が何であれ、二人へ繋がる唯一の手掛かりだった。


 マックスは美術館の階段を上った。


 傷だらけの扉へ手を掛ける。


 金属とは思えないほど温かかった。


 誰かの掌に触れている。


 そんな温度だった。


 力を込めると、扉は重い音を立てて内側へ開いた。


     *


 美術館の内部は、外観から想像したものより明るかった。


 正面に広い玄関ホールがあり、天井からは大きな硝子製の照明が下がっている。白い壁には金色の縁取りが施され、磨かれた床には照明の光が映り込んでいた。


 埃もない。


 長く放置された町の建物とは思えなかった。


 ただ、人の姿だけがなかった。


 受付には誰もいない。入館者の記録らしき帳面が開かれているものの、すべての頁が白紙だった。


 マックスは受付の奥へ声を掛けた。


「誰かいませんか?」


 返事はなかった。


 声だけが高い天井へ昇り、薄い反響となって戻ってくる。


 いませんか。


 いませんか。


 最後の一声だけが、女の声に聞こえた。


「ソニア?」


 呼びかけても、今度は反響さえ返らなかった。


 玄関ホールから、三つの展示室へ通路が延びている。


 左には絵画展示室。


 右には彫刻展示室。


 正面には特別展示室。


 それぞれの入口に金色の案内板が掛かっていた。


 床を調べたが、黒い液体の跡はない。濡れた靴跡も残っていなかった。


 マックスはポケットから焦げ茶色の手袋を出した。


 先ほどまで広がっていた黒い染みが消えている。


 代わりに、手袋の人差し指だけが真っ直ぐ伸び、正面の通路を指していた。


 偶然に形が崩れただけだ。


 そう考えながらも、マックスは特別展示室へ向かった。


 通路の両側には人物画が並んでいる。


 どの絵も、顔だけが描かれていなかった。


 豪華な衣装を身にまとった男。


 花束を抱く女。


 椅子に腰掛ける老人。


 身体は細部まで描き込まれているのに、顔に当たる部分には白い絵の具が塗られている。初めから何も描かれていなかったのではない。別の顔を上から塗り潰したように、白の下から肌色や黒い瞳の一部が透けていた。


 マックスが一枚の絵の前を通り過ぎる。


 背後で、布の擦れる音がした。


 立ち止まる。


 音も止まった。


 振り返れば、椅子に座る老人の絵がある。


 顔は白い。


 先ほどと何も変わらない。


 再び歩く。


 衣擦れの音がついてくる。


 さり。


 さり。


 額縁の中の人物たちが、見えない顔をこちらへ向けているようだった。


 マックスは歩調を速めた。


 特別展示室の扉は開いていた。


 中には小さな展示台が一つだけ置かれている。


 硝子の覆いもない。


 照明に照らされているのは、人形だった。


 赤ん坊を象ったものらしい。


 身を包む布は灰色に変色し、顔の半分を覆っている。露出した頬には細かな亀裂が走り、口は泣き声を上げる寸前の形に開いていた。


 雪山で見た石像が抱いていたもの。


 あの時は布に隠れており、はっきりとは見えなかった。


 だが、大きさも形も同じだった。


 布の隙間から突き出した細長いものもある。


 指ではない。


 黒く萎れた木の根のようなものが、赤ん坊の胴体から何本も伸びていた。


 根の先は展示台を這い、床へ垂れている。


 マックスは近づかなかった。


 展示台の前に説明板がある。


 題名も作者名も書かれていない。


 中央に一行だけ文字が刻まれていた。


 望まれたものは生まれない。


「何だ、これは……」


 その瞬間、赤ん坊の口から息が漏れた。


 ひゅう。


 弱い呼吸音だった。


 マックスは懐中電灯へ手を伸ばした。


 照明が一度、明滅する。


 明るさが戻ると、人形の首が先ほどより僅かに傾いていた。


 展示室の入口へ顔を向けている。


 マックスもそちらを見た。


 誰もいない。


 だが、通路の奥から足音が近づいてきた。


 規則正しい、人間の足音だった。


「ソニアか?」


 マックスは展示室を出た。


 白い壁に囲まれていたはずの通路が、薄暗くなっている。


 照明の数が減っていた。


 天井から下がる灯りは、不規則な間隔で明滅している。その奥を、人影が横切った。


「待ってくれ!」


 マックスは走った。


 角を曲がる。


 そこには長い廊下が延びていた。


 先ほど通った場所ではない。両側には人物画ではなく、金属製の扉が幾つも並んでいる。


 人影は廊下の先にいた。


 グリーンのスキーウェア。


 逆立った茶色い短髪。


「ジョージ!」


 呼びかけると、人影が立ち止まった。


 ゆっくりと振り返る。


 見開かれた黒い目が、マックスを捉えた。


「……マックス?」


 聞き慣れた低い声だった。


 その声を聞いた途端、胸の奥で張り詰めていたものが切れた。


「無事だったのか」


 マックスは駆け寄った。


「それはこっちの台詞だ!」


 ジョージは怒鳴り、両手でマックスの肩を掴んだ。


「どこへ行ってた! 急に消えやがって!」


「俺が消えた?」


「そうだよ! 像を見てたと思ったら、次の瞬間にはいなくなってた!」


 マックスは言葉を失った。


 自分が見たものとは逆だった。


 消えたのはジョージとソニアだ。


 二人分の足跡が、雪の途中で途切れていた。


「待て。つまり、こういう事か? お前からは、俺が消えたように見えたのか?」


「だから、そう言ってるだろ!」


「ソニアは?」


 ジョージの手から力が抜けた。


「お前と一緒じゃないのか?」


「違う。山で二人を見失ってから、一度も会っていない」


「じゃあ、あいつはどこにいる」


「それを捜している」


 ジョージは唇を噛み、マックスから目を逸らした。


 顔色が悪かった。


 寒さのせいとは思えないほど白く、額には細かな汗が浮かんでいる。グリーンのスキーウェアは濡れているが、雪が解けたというより、雨の中に長時間立っていたような濡れ方だった。


 肩から裾へ、暗い染みが広がっている。


「怪我をしているのか?」


「してない」


「その服は?」


「知らねえよ。気づいたらこうなってた」


「ここへ来るまで、何があった?」


 ジョージは答えようと口を開き、眉を寄せた。


「山を下りた。それから……」


「それから?」


「分からない」


 苛立ったように頭を掻く。


「気づいたらこの建物にいた。誰かに会った気もする。でも、顔が思い出せない」


「老人を見なかったか? 黒いローブを着て、丸眼鏡を掛けている」


「見てない」


「本当に?」


「疑ってんのか?」


「確認しているだけだ」


「その言い方が腹立つんだよ」


 以前と変わらない反応だった。


 マックスは僅かに息を吐いた。


 怒鳴り声さえ、今は安堵をもたらした。


「ソニアを捜そう」


「ああ。言われなくても、そのつもりだ」


 ジョージが先に歩き出す。


 その背中を見ながら、マックスは大学へ入ったばかりの頃を思い出していた。


 まだソニアと出会う前。


 二人だけで、初めて冬山へ登った時のことだった。


 経験の浅かったマックスは、凍った斜面で足を滑らせた。谷へ落ちるほどの場所ではなかったが、身体が勢いよく流され、自力では止まれなかった。


 横からジョージが飛びつき、雪の中へピッケルを突き立てた。


 二人分の体重が掛かり、ジョージの左肩が不自然な角度に捻れた。


『腕を痛めたんじゃないか?』


『動くから平気だ』


『下山した方がいい』


『ここまで来て戻れるか。とにかく登るぞ』


 結局、二人は頂上まで辿り着いた。


 下山後、ジョージの左肩には大きな赤紫色の痣ができていた。それでも彼は、助けたことを一度も恩に着せなかった。


 口が悪く、短気で、勝ち負けにこだわる。


 それでも、マックスが危険に陥れば考えるより先に手を伸ばす男だった。


 いつから、互いの間に見えない壁ができたのだろう。


 答えは分かっている。


「なあ、マックス」


 前を歩くジョージが不意に言った。


「ソニアと付き合ってるのか?」


「付き合っていない」


「本当に?」


「以前にも答えたはずだ」


「二人で出掛けてるだろ」


「彼女が写真を撮る場所を探していたから、心当たりを教えただけだ」


「一緒に行く必要はない」


「機材を運ぶ人手が必要だった」


「何でも理由をつけるよな、お前」


 ジョージは振り返らなかった。


「ソニアは、お前の隣にいる時だけ楽しそうに見える」


「考えすぎだ」


「そうやって何も気づかないふりをしてれば、自分は悪くないって思えるよな」


 冷たい声だった。


 マックスは足を止めた。


「何が言いたい?」


 ジョージも立ち止まる。


 廊下の照明が明滅し、彼の影が伸び縮みした。


「お前がいなければって、考えたことがある」


 雨が降り始めたような音がした。


 天井の奥で無数の雫が弾けている。


「お前がいなければ、ソニアは俺を見るんじゃないかって」


 ジョージの左手が拳を作る。


「山でお前が消えた時、一瞬だけ思った」


 一呼吸置いて、声が続いた。


「これで邪魔する奴はいなくなった、って」


 マックスは何も言えなかった。


 夢の中で見た口元が蘇る。


 お前さえいなければ。


「でも、すぐ捜した」


 ジョージは吐き捨てるように付け加えた。


「本当だ。お前が消えればいいなんて、本気で思ってたわけじゃない。ほんの一瞬だ。誰だって、それくらい考えるだろ」


 最後の言葉は、マックスではなく自分自身へ向けられていた。


「ジョージ」


「そんな目で見るな」


「俺は何も」


「見るなって言ってんだよ!」


 ジョージが壁を殴った。


 鈍い音が響く。


 白かった壁の表面に亀裂が走った。


 その隙間から、赤黒い液体が滲み出した。


 二人は同時に息を止めた。


 液体は細い筋となって壁を伝い、床へ落ちた。


 ぽたり。


 落ちた場所から、磨かれていた床が茶色く腐食していく。


 錆だった。


 床だけではない。


 異変は廊下全体へ広がっていった。


 白い壁紙が膨れ、内側から血のような染みが浮き出す。金色の縁取りは黒ずみ、赤茶色の粉を落としながら崩れていく。


 照明が一つずつ消えた。


 清潔だった空気に、鉄と黴と腐った水の臭いが混じる。


 天井から赤黒い雫が落ち始めた。


「何だよ、これ……」


 ジョージが後ずさる。


 足元で、床板が軋んだ。


 先ほどまで石造りだったはずの床が、黒く腐った木材へ変わっている。壁に並んでいた扉は表面を錆で覆われ、どれも長い年月を経た廃墟のようになっていた。


 マックスは背後を見た。


 廊下の奥に、先ほどの赤ん坊がいた。


 展示台から下りている。


 灰色の布を引きずり、床の上に座っている。


 顔はこちらへ向いていた。


 口が大きく開いている。


 泣き声は聞こえない。


 代わりに、天井から落ちる雫が声を作っていた。


 たすけて。


 たすけて。


 一滴ごとに、そう聞こえた。


「走れ!」


 マックスが叫んだ。


 二人は廊下を駆け出した。


 背後から何かを引きずる音が追ってくる。


 ずる。


 ずる。


 赤ん坊が這っている。


 振り返らなくても分かった。


 細長い根を何本も床へ突き立て、自らの身体を引きずっている。


 ずる。


 ずる。


 その間隔が次第に短くなる。


 前方に扉があった。


 ジョージが先に辿り着き、取っ手を掴む。


「開かねえ!」


「鍵は?」


「掛かってない!」


 二人で扉を引く。


 取っ手は動く。


 鍵の外れる感触もある。


 それでも扉は、壁の一部になったかのように開かなかった。


 背後で、赤ん坊の呼吸音がした。


 ひゅう。


 ひゅう。


 マックスは隣の扉へ走った。


 取っ手を回す。


 鍵は掛かっていない。


 だが、開かない。


 さらに次の扉。


 その次の扉。


 どれも同じだった。


「どうなってやがる!」


 ジョージが錆びた扉を蹴りつける。


 低い音だけが廊下へ響いた。


 マックスは懐中電灯を背後へ向けた。


 赤ん坊の姿はなかった。


 廊下にも、引きずられた跡はない。


 ただ、床の上に黒い液体で言葉が書かれていた。


 子供のように歪んだ文字だった。


 どちらかひとり


 ジョージがそれを読み、黙り込む。


 次にマックスを見た。


 見開かれた目の中で、何かが揺れた。


 恐怖か。


 疑いか。


 あるいは、雪山でマックスが消えた時に抱いたという、ほんの一瞬の願いか。


「違う」


 ジョージが掠れた声で言った。


「俺じゃない」


 マックスは答えなかった。


 答えられなかった。


 どちらかひとり。


 その言葉の意味を考えているうちに、二人の間にあった僅かな安堵は、血と錆の臭いの中へ消えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。