第三話 黒い道標
龍に案内された民宿は、町の中心から外れた細い路地の奥にあった。
二階建ての木造家屋だった。軒は大きく傾き、外壁には黒い雨染みが幾筋も垂れている。玄関の上には看板らしきものが掛かっていたが、表面が腐食しており、宿の名は一文字も読めなかった。
窓に明かりはない。
人が泊まる場所というより、長い間放置されてきた空き家に見えた。
「ここですか?」
「左様で」
龍が半笑いを浮かべる。
「町で最も静かな宿です」
「他に客はいないんですか?」
「今は、あなたお一人ですな」
今は。
その言い方が妙に引っ掛かった。
マックスは背後へ目を向けた。霧は路地の入口を覆い、つい先ほど歩いてきた道さえ隠している。
山から追ってきた重い足音は聞こえない。
それでも何かが霧の向こうに立ち、こちらを見ているような感覚は消えなかった。
「ほっほお。外が気になりますかな?」
「山から、何かがついてきていました」
「それは大変ですな」
「他人事みたいに言いますね」
「他人事でなければ、何事になるのでしょう」
龍はしゃがれた声で笑い、玄関の戸へ手を掛けた。
鍵を使った様子はなかった。
戸は、まだ触れてもいないうちから内側へ開いた。
暗い廊下が現れる。
湿った木材と古い畳の臭いが流れ出し、その奥に蝋燭の明かりが一つだけ灯っていた。
「宿の人は?」
「必要なものは用意されております」
「誰が用意したんです?」
「必要とする者が現れれば、必要なものもまた現れる。この町では、それで十分なのです」
マックスは龍の横顔を見た。
問いに答えているようで、何一つ答えていない。
それでも外に留まるよりはましだった。追ってきた何かが町へ入れないという保証はないが、少なくとも壁と戸がある。
マックスは民宿へ足を踏み入れた。
廊下の床板が沈み、軋んだ。
ぎし。
その音に続いて、二階からも同じ音がした。
ぎし。
誰かが真上で、こちらの一歩を真似たようだった。
マックスは天井を見上げた。
「客は俺一人だと言いませんでしたか?」
「ええ。申しましたとも」
「では、上にいるのは?」
龍は答えず、胸元で手を重ねた。
「一番奥の部屋をお使いなされ。朝になれば、霧も多少は薄くなりましょう」
「今は夜なんですか?」
町へ着いてから、空を一度も見ていない。
どこを見上げても霧があり、その向こうに太陽も月もなかった。街灯が点いているから夜だと思ったが、時計を確認してはいなかった。
マックスは腕時計を見た。
針は二時十七分を指している。
秒針は止まっていた。
「山へ入ったのは昼過ぎでした。テントを張って、食事をして、それから……」
最低でも数時間は経っているはずだ。
だが、二時十七分が深夜なのか午後なのか分からない。
「この町に時計は必要ございません」
龍が言った。
「待ってください」
マックスは立ち去ろうとする老人を呼び止めた。
「あなたは、ここに住んでいるんですよね?」
「住む、という言葉がふさわしければ」
「警察も管理事務所もない。電話も知らない。宿には誰もいない。それなのに、俺が来ることだけは分かっていたように見える」
龍の足が止まった。
「つまり、こういう事か? あなたは俺が山から下りてくるのを待っていた」
廊下の蝋燭が揺れた。
龍はゆっくり振り返る。
丸眼鏡に炎が二つ映り、その奥の目を隠していた。
「ほっほお……。面白い考えですな」
「否定しないんですか?」
「人は誰かを待つ時、その者の顔を知っている必要があるのでしょうか」
「少なくとも、来ると知らなければ待てない」
「では、わしが待っていたのは、あなたではなかったのかもしれませんな」
「どういう意味です?」
龍は眼鏡の縁を指で一周なぞった。
「お休みなされ、マックス殿。眠りは、混ざり合ったものを分けてくれます。記憶と夢。現実と願望。そして、あなたのものと、あなた以外のものを」
老人は戸口の霧へ踏み出した。
「待ってください。二人を捜すのを手伝ってほしい」
「朝になりましたら」
「朝が来るんですか、この町に」
龍は半笑いを浮かべたまま、霧の中へ消えた。
「来ないとお思いなら、それまで眠っていればよろしい」
しゃがれた声だけが、しばらく路地に残っていた。
*
一番奥の部屋には、薄い布団が一組敷かれていた。
壁紙はところどころ剥がれ、天井の隅には黒い黴が広がっている。小さな卓上には水差しとコップが置かれていたが、水は濁り、底に細かな沈殿物が溜まっていた。
マックスは飲まなかった。
窓を調べる。
鍵は掛かっていない。
しかし、いくら力を込めても開かなかった。窓枠と壁が一体化しているかのように、僅かにも動かない。
外には霧がある。
窓のすぐ向こうに白い幕が張られ、その奥を何かがゆっくり横切った。
人の輪郭に見えた。
「ソニア?」
ガラスへ顔を近づける。
影はすでに消えていた。
名前を呼んだ自分に、マックスは眉を寄せた。
ジョージの可能性もあったはずだ。
それなのに、なぜ先に彼女の名前が出たのか。
無意識に選んだだけだ。オレンジ色のスキーウェアが霧の中で目立つと思ったから。
そう結論づけようとして、できなかった。
マックスは窓を離れ、布団の上へ腰を下ろした。
疲労は限界に近かった。
雪山を駆け下り、正体の分からない何かに追われ、この町まで辿り着いた。左の掌には転倒した際の傷が残り、乾いた血が細い線になっている。
横になるつもりはなかった。
少し身体を休めるだけ。
目を閉じても眠らない。
二人が町へ来るかもしれない。外で声がすれば、すぐ捜しに行く。
そう考えていた。
意識が途切れるまでに、十秒も掛からなかった。
*
夢の中で、ソニアが泣いていた。
声は聞こえない。
何かを伝えようと唇を動かしているが、その言葉は白い息になり、すぐ霧へ溶けてしまう。
マックスは彼女へ近づこうとした。
だが、足元には雪がない。
黒い水が広がっている。
一歩進むたび、水面の下から無数の手が伸び、足首を掴もうとした。
ソニアの隣にはジョージが立っていた。
大きく見開かれた黒い目で、マックスを睨んでいる。
その口も何かを告げていた。
お前が。
声はないのに、それだけは分かった。
お前さえいなければ。
ジョージがソニアの肩へ手を伸ばす。
だが、触れる寸前、彼の指先が霧になった。
手が消える。
腕が消える。
ジョージは驚いた様子もなく、ただマックスを見ていた。
最後に残った口元が、もう一度動く。
お前が。
そこで目が覚めた。
マックスは息を呑み、上体を起こした。
部屋は暗かった。
蝋燭は消えている。
窓の外には相変わらず白い霧があり、朝が来たのかどうか分からない。
夢の中の言葉が耳の奥に残っていた。
お前さえいなければ。
「馬鹿げている」
ジョージが自分に対抗意識を抱いていることは知っていた。
大学へ入った頃は、そうではなかった。
同じ講義へ遅刻し、閉められた扉の前で二人揃って立ち尽くしたのが最初だった。ジョージは扉を蹴り、教授への不満を並べた後、まったく悪びれずに言った。
『裏口を探すぞ。とにかく入れば何とかなる』
結局、二人は窓から講義室へ入り、教授だけでなく学生全員から笑われた。
それ以来、よく行動を共にした。
山岳部で初めて登山した時、マックスのリュックの肩紐が切れた。ジョージは予備の紐を持っていなかったが、裁縫道具を取り出し、その場で修繕してみせた。
『何だ、その顔』
『意外だった』
『裁縫くらいできる。母親に仕込まれたんだよ。誰かに言ったら殴るぞ』
粗雑な言葉とは裏腹に、縫い目は店で直したように整っていた。
あの頃のジョージは、マックスを敵のように見ることはなかった。
変わったのは、ソニアが山岳部へ入ってからだ。
彼女と初めて話したのも、ジョージがきっかけだった。
『新入部員が道具の使い方で困ってる。お前、教えてやれ』
『お前が教えればいいだろ』
『俺は忙しい』
そう言いながら、ジョージは何度もこちらを振り返っていた。
今なら分かる。
彼は忙しかったのではない。ソニアへ話しかける理由を探しながら、踏み出せずにいたのだ。
対してマックスは、彼女を異性として意識しなかったわけではない。
ただ、困っている部員へ道具の使い方を説明した。それだけだった。
ソニアは覚えが早かった。
一度見せた結び方を正確に再現し、翌週には別の部員へ教えていた。
『よく覚えていたな』
『一度見たものは、あまり忘れないんです』
そう答えた彼女は、少し照れたように笑った。
その日から、ソニアはマックスへよく声を掛けるようになった。
講義の帰り。
部活動の前。
写真を撮りに行った休日。
彼女が隣にいることは、いつしか日常の一部になっていた。
一方、ジョージの言葉には棘が増えた。
なぜ自分に腹を立てるのか。
マックスには分からなかった。
ソニアと話したいなら話せばいい。想いを伝えたいなら伝えればいい。自分がそれを邪魔した覚えはない。
だが、ジョージの側から見れば違うのかもしれない。
マックスは夢で見た彼の口元を思い出した。
お前さえいなければ。
「まさかな」
呟いた時、廊下で何かが擦れる音がした。
ずる。
ずる。
誰かが重いものを引きずっている。
音は部屋の前まで来て、止まった。
マックスは身構えた。
戸の下の隙間から、黒いものが滲み込んでくる。
液体だった。
粘り気を帯びた黒い液体が畳へ細い筋を描き、マックスの足元へ伸びてきた。
石像の涙。
そう思った途端、戸が三度叩かれた。
コン。
コン。
コン。
「誰だ?」
返事はない。
マックスは懐中電灯を手に取り、戸を開けた。
廊下には誰もいなかった。
床に黒い液体もない。
ただ、部屋の前に焦げ茶色の手袋が片方、置かれていた。
マックスは息を止めた。
拾い上げる。
手首の内側に、小さな白い糸で縫われた二本の線がある。
以前、山岳部の活動中に裂けた箇所だ。ジョージが縫って直した。
間違いない。
マックスの手袋だった。
そして雪山で、ソニアへ貸したものだった。
「ソニア」
彼女がここにいる。
少なくとも、いた。
マックスは廊下を走った。
一階へ下り、玄関の戸を開ける。
外の霧は眠る前より薄くなっていた。灰色の建物が道の両側に並び、遠くの街灯まで見通せる。
「ソニア!」
返事はない。
路上には誰の姿もなかった。
マックスは手袋を強く握り、周囲を見回した。
向かいの建物の壁に、黒い染みがある。
近づくと、それは文字になっていた。
MUSEUM
その下に、右を指す矢印。
黒い液体はまだ乾いていない。文字の端から雫が垂れ、石壁をゆっくり伝っている。
雪山で見たものと同じだった。
DOWN。
あの言葉に従った結果、マックスはこの町へ辿り着いた。
そして今度は、美術館へ行けと告げている。
「つまり、こういう事か……」
手袋を残した者と、文字を書いた者は同じ場所へ自分を導こうとしている。
それがソニアなのかは分からない。
だが、この手袋が彼女のいた証拠なら、無視することはできなかった。
「お目覚めですかな」
背後から声がした。
マックスは振り返る。
霧の中に龍が立っていた。
黒いローブにも、禿げ上がった頭にも、霧の雫一つ付いていない。胸の前で両手を重ね、いつもの半笑いを浮かべている。
「この手袋が宿の前にありました」
「左様ですか」
「ソニアに貸したものです。彼女はこの町にいる」
「そうかもしれませんな」
「知っていたんですか?」
「わしが存じているのは、落とした物が時折、持ち主とは別の場所へ辿り着くということだけです」
「別の場所?」
龍は答えず、壁の文字を見た。
「美術館へ招かれておられるようで」
「この町に美術館があるんですか?」
「ございますとも。価値あるものも、価値を失ったものも、あそこには平等に収められております」
「人も?」
尋ねると、龍の半笑いが深くなった。
「ほっほお……。人が収められていない場所など、この世にありましょうか」
「案内してください」
「わしが?」
「場所を知っているんでしょう」
「矢印が示しております」
「この霧の中で、矢印一つを信用しろと?」
龍は眼鏡の縁をなぞった。
「信用なさらずとも、向かうのでしょう?」
否定できなかった。
手の中の焦げ茶色の手袋は冷え切っていた。
しかし、内側には微かな湿り気が残っている。
つい先ほどまで、誰かが身に着けていたように。
マックスは手袋をポケットへ入れた。
「ソニアを見つけます。ジョージも」
「お二人とも?」
龍の問いに、マックスは足を止めた。
「当然です」
「ほっほお。それは失礼を」
老人は恭しく頭を下げた。
「では、参りましょう。もっとも、あそこへ入る道は、出る道と同じとは限りませんが」
龍は矢印の先へ歩き出した。
マックスは少し距離を空けて後を追った。
霧の町は目覚めているのか、眠っているのか分からなかった。建物の窓には明かりが灯っている。それなのに、人影は一つもない。
時折、カーテンだけが揺れた。
無人の窓の奥から、誰かが通り過ぎる二人を数えているようだった。
やがて霧の中に、大きな建物が姿を現した。
石造りの正面には六本の柱が並び、その上に三角形の屋根が載っている。入口には金属製の両開きの扉があり、表面には無数の傷が刻まれていた。
爪で内側から引っ掻いたような傷だった。
階段の下で、龍が立ち止まる。
「着きましたぞ」
入口の上に、錆びた文字が掲げられていた。
町立美術館。
その文字を見た瞬間、ポケットの中で手袋が動いた。
指が曲がり、マックスの手を握ろうとした。
そう感じた。
彼はポケットへ手を入れた。
手袋は動かない。
ただ、その内側から一滴の黒い液体が染み出し、マックスの指先を濡らしていた。




