第二話 霧の麓
黒い涙を流す像と、女の呻き声に似た林のざわめき。
そこへ完全な暗闇まで加われば、これ以上の恐怖はないのではないか。
マックスはそう思った。
「ソニア! ジョージ!」
喉が裂けるほど叫んだ。
返事はない。
先ほどまで二人が立っていた場所には足跡だけが残され、その足跡さえ途中で途切れていた。夜の林を満たしているのは、どこから吹き始めたのか分からない風の唸りだけである。
ウウウゥゥゥゥ。
声のような風だった。
マックスは背後を振り返らなかった。
そこには石像がいる。
黒い涙を流しながら、あの歪んだ目でこちらを見ている。
見なくても分かった。
むしろ見てしまえば、今度こそ本当に動けなくなる気がした。
しばらくすると、暗闇に慣れ始めた目が、焚き火のあった場所に薄い灰色の輪郭を見つけた。炭になった薪から、まだ僅かに煙が立っている。
二人が近くにいるなら、火を起こせば戻ってくるかもしれない。
マックスは慎重に足を進めた。
雪の下に隠れた枝を踏み、乾いた音が鳴る。そのたびに心臓が跳ね上がった。背後の石像が一歩近づいたのではないか。そんな考えが脳裏をよぎる。
振り返るな。
確かめても、何も変わらない。
そう言い聞かせながら、マックスはスキーウェアのポケットを探った。指先に触れた小箱を取り出し、中からマッチを一本抜く。
濡れていない。
箱の側面へ擦りつける。
炎が灯った。
弱々しい赤い光だった。
風前の灯という言葉が、これほどそのままの姿になったものを、マックスは見たことがなかった。炎は細く身をよじらせ、今にも闇に食われそうになっている。
彼は身体を風上へ向け、両手で火を囲った。
揺らめく光が、薪と濡れた雪を交互に照らす。
その時、薪のすぐ横に何かが見えた。
文字だった。
地面へ染み込んだ黒い液体で文字が記されている。
DOWN
「……下へ?」
マックスは炎を近づけた。
筆跡には一定の太さがなく、最初のDはひどく歪んでいた。指先を液体へ浸し、急いで書いたようにも見える。
ジョージか。
いや、彼が自分へ行き先を残すとは考えにくい。
ソニアならあり得る。
石像を見て危険を感じ、ジョージを連れて下山した。混乱の中でも自分が後から追えるよう、ここへ言葉を残したのだ。
「つまり、こういう事か……」
声に出してみても、胸に生じた疑問は消えなかった。
二人が下山したのなら、なぜ足跡がない。
この文字は何で書かれている。
雪解け水で濡れた地面に、これほど濃く残る黒い液体。
マックスの脳裏に、石像の頬を伝っていたものが浮かんだ。
マッチの炎が消えた。
闇が戻ってくる。
同時に、背後から視線を感じた。
首筋に何か冷たいものを押し当てられたような感覚だった。マックスは新しいマッチを擦り、振り返らないままテントへ急いだ。
内部を照らし、自分のリュックを探す。
入口近くに転がっている銀色の皿。
中身のなくなった鍋。
ソニアの小型カメラ。
そして、ジョージのリュック。
すべて残されていた。
「荷物も持たずに下山したのか?」
あり得ない。
冬山で装備を置いていくことが何を意味するか、山岳部員である二人が知らないはずはない。
だが、ここで待つこともできなかった。
マックスは自分のリュックから懐中電灯を取り出した。予備のマッチ、ロープ、水筒、それに小さな救急用品を詰め直す。二人分の荷物まで持つ余裕はない。
テントの入口で足を止める。
闇の中に白い像が立っていた。
先ほどより近い。
そう見えた。
焚き火の近くから眺めた時には、像まで十数歩はあったはずだ。今は、懐中電灯を伸ばせば届きそうな場所にいる。
勘違いだ。
暗闇のために距離感が狂っている。
マックスはそう結論づけ、その横を通り過ぎた。
石像の顔へは光を向けなかった。
*
どれほど歩いただろう。
懐中電灯が照らす範囲だけを頼りに、マックスは雪の斜面を下り続けた。
登ってきた時の道筋は覚えている。
右手に大きく曲がった針葉樹があり、その先に凍った沢がある。沢沿いに進めば、麓へ通じる登山道へ出るはずだった。
しかし、曲がった針葉樹は見つからない。
沢の水音も聞こえなかった。
「ソニア!」
返事はない。
「ジョージ!」
声は風の中へ吸い込まれた。
ウウウゥゥゥゥ。
代わりに、女の呻き声が返ってくる。
マックスは歩調を速めた。
木々の間を縫うように進み、ときおり地面へ光を向ける。足跡を探しているのだが、見つかるのは自分のものだけだった。
二人が先に下りたのなら、必ず跡が残っている。
雪は降っていない。風も足跡を消すほど強くはない。
では、あの文字は誰が書いた。
DOWN。
下へ。
行き先を示す言葉ではなく、命令だったのではないか。
そこまで考えた時、懐中電灯の光が白く濁った。
「……霧か」
薄い靄が木々の間から流れ込んでいた。
それは煙のように地面を這い、マックスの足元を包んでいく。初めは膝より下に留まっていたものが、見る間に腰、胸、顔の高さまで膨らんだ。
視界が白く閉ざされる。
遠くを照らそうとした光が霧の中で乱反射し、かえって目の前を見えなくした。マックスは光を足元へ向けた。
木の根。
雪。
黒い土。
見えるのは数歩先までだった。
方向を見失わないよう注意して進む。
だが右へ歩いているのか、左へ歩いているのか、それさえ次第に分からなくなった。斜面を下っているつもりなのに、時折、足元が上り坂になる。
同じ場所を回っているのかもしれない。
マックスは近くの木の幹へナイフで傷をつけた。
縦に一本、横に二本。
再び歩き始める。
十歩。
二十歩。
三十歩。
霧の向こうに黒い影が見えた。
近づけば、先ほど傷をつけた木だった。
縦に一本、横に二本。
「戻ってきたのか」
真っ直ぐ歩いたはずだった。
マックスは木を背にし、今度は先ほどと反対の方向へ進んだ。
しばらくして、また同じ木が現れた。
同じ傷。
同じ樹皮の裂け目。
ただし、その根元に黒い染みが増えていた。
石像の涙と同じ色だった。
ぽたり。
頭上から何かが落ち、マックスの肩を濡らした。
懐中電灯を上へ向ける。
枝しかない。
雪も積もっていない枝の先から、黒い液体が滴っていた。
マックスは木から離れた。
「ソニア! ジョージ!」
声を張り上げる。
遠くで、音がした。
ドスッ。
マックスは息を止めた。
風ではない。
雪の塊が落ちた音でもない。
何か重いものが、地面を踏みしめた音だった。
「誰かいるのか?」
霧の中へ問いかける。
答えはない。
前へ一歩進む。
ドスッ。
後ろから聞こえた。
素早く振り返り、光を向ける。
白い霧しかない。
「ジョージか?」
彼なら、悪趣味な冗談でこちらを脅かすこともあり得る。マックスが冷静さを失う姿を見て、勝ったとでも言うつもりなのかもしれない。
だが、あれは人間の足音ではなかった。
石の塊を持ち上げ、雪の上へ落としている。
そんな音だった。
「出てこい。ふざけている場合じゃない」
返事はなかった。
マックスは再び歩き出した。
一歩。
ドスッ。
二歩。
ドスッ、ドスッ。
こちらが踏み出した数だけ、何かがついてくる。
マックスが止まれば、音も止まった。
歩けば、また始まる。
ドスッ。
ドスッ。
距離が近づいている。
振り返っても何もいないと分かっていた。
それでも背中へ向けられる視線を感じた。あの石像の見開かれた目が、霧のすぐ向こうから自分を観察している。
マックスは早足になった。
足音も速くなる。
ドスッ。ドスッ。ドスッ。
走り出す。
同時に、背後の何かも走った。
ドスッドスッドスッドスッ。
重い音が地面を揺らす。
雪に足を取られ、何度も転びそうになる。それでも止まれなかった。息が切れ、肺へ冷たい刃を突き込まれたように胸が痛む。
光が激しく揺れる。
木の幹。
枝。
霧。
雪。
その一瞬の隙間に、白い女の顔が見えた。
すぐ後ろに。
マックスは叫び、斜面を駆け下りた。
木々が途切れた。
踏み出した足が雪ではなく、硬い地面を叩く。
舗装された道だった。
マックスは勢いを殺せず、その場に膝をついた。手袋をしていない左手を路面へ擦りつけ、掌に鋭い痛みが走る。
それでもすぐに立ち上がった。
背後へ光を向ける。
山へ続く林があるはずだった。
だが、そこには霧しかなかった。
木の一本さえ見えない。
足音も消えていた。
「麓まで、この有様か……」
呼吸を整えながら周囲を見回す。
森を抜けたはずなのに、霧はさらに濃くなっていた。懐中電灯の届く範囲には、濡れた舗装路と錆びた街灯が一本あるだけで、人の姿はない。
街灯には明かりが灯っていた。
淡い黄色の光が、霧の中にぼんやりと浮かんでいる。
マックスは眉をひそめた。
麓にこんな道はなかった。
三人が山へ入る時に通ったのは、除雪もされていない細い山道だった。街灯はもちろん、舗装路さえない。
霧の奥へ目を凝らす。
屋根のような影が見えた。
一つではない。
舗装路の両側に建物が並び、さらに奥へ続いている。風化した石造りの家。板で塞がれた窓。埋められたように低い入口。建物と建物の間には細い路地があり、そこから霧が絶え間なく流れ出していた。
町だった。
だが、生活の音が何もない。
車も走っていなければ、犬の鳴き声さえ聞こえない。窓には明かりがなく、看板に書かれた文字は錆に覆われて読めなかった。
「こんな場所があるはずがない」
山へ来る前、地図は確認した。
近くにあるのは、何キロも離れた寂れた村だけだ。これほど多くの建物が並ぶ町を見落とすはずがない。
それでも、目の前には町がある。
マックスは服についた雪を払い、懐中電灯を握り直した。
二人がここへ下りてきた可能性もある。
「ソニア! ジョージ!」
声が霧の町へ響いた。
しばらく遅れて、同じ声が返ってくる。
ジョージ。
ジョージ。
ジョージ。
反響にしては、繰り返す回数が多かった。
「ほっほお……。旅のお方ですかな?」
背後から、しゃがれた声がした。
マックスは振り返った。
霧の中に、人影が浮かんでいる。
横に広い大柄な身体。左右へ揺れながら近づく姿は、手足の生えた黒い達磨のように見えた。
「誰だ?」
声を低くして問いかける。
人影は足を止めなかった。
「ほっほお……。これは礼を失しましたな」
霧から押し出されるように、一人の老人が姿を現した。
年齢は七十を越えているように見える。頭には髪が一本もなく、白い眉の下に丸眼鏡を掛けていた。目は糸のように細いが、レンズの奥から刺すような眼光が覗いている。
身にまとっているのは、足元まで届く黒いローブだった。
その胸元には、何を象ったものか分からない銀色の首飾りが下がっている。細い輪が幾重にも絡み合い、中央で人の目に似た形を作っていた。
老人は胸元で両手を重ね、恭しく頭を下げた。
「わしは龍白豊。皆からは、龍と呼ばれております」
「ロン……?」
「左様で」
老人は口元の半笑いを崩さない。
「東洋から来た方ですか?」
初対面の相手への警戒から、マックスの言葉は自然と丁寧になった。
「ほっほお。さて、どこから来たのでしょうな。長く生きておりますと、生まれた場所より、辿り着いた場所の方が大切になるものでして」
答えになっていない。
マックスは老人の背後へ目を向けた。
他に人はいない。
「俺はマックス・オールドウェイです。二人組の若者を見ませんでしたか? 俺と同じくらいの歳です。男は茶色い短髪で、緑のスキーウェアを着ています。女は耳を覆うくらいの茶髪で、俺と同じオレンジ色のウェアです」
龍は眼鏡の縁を指でなぞった。
一周。
レンズに街灯の光が反射し、その目を完全に隠す。
「ほっほお。ご友人をお捜しで」
「山で姿が見えなくなりました。先に下山したと思ったんですが」
「なるほど。山で、姿が」
老人の半笑いが僅かに深くなった。
まるで、その言葉を待っていたかのようだった。
「見かけていませんか?」
「残念ながら、わしはそのような方々を見ておりません」
「そうですか」
期待していたわけではない。
それでも落胆は胸へ重く沈んだ。
マックスは町の奥を見た。
「ここに警察か、山の管理事務所はありますか?」
「そのようなものはございませんな」
「電話を借りられる場所は?」
「電話……ですか」
龍は初めて聞く言葉であるかのように、ゆっくり繰り返した。
「宿ならございます。まずは身体を休められてはいかがかな」
「今は休んでいる場合ではありません。二人が山に残っているかもしれない」
「お戻りになるおつもりで?」
「当然です」
答えた途端、霧の奥から音がした。
ドスッ。
マックスは山のある方角へ懐中電灯を向けた。
何も見えない。
ドスッ。
先ほどまで消えていた足音が、町の入口まで来ていた。
龍はそちらを見ようともしなかった。
「何かいる」
「山には、様々なものがおりますからな」
「あれが何か知っているんですか?」
「ほっほお……。知ることと、口にすることは別の事です」
龍の返答と重なるように、霧の中から女の呻き声が聞こえた。
ウウウゥゥゥゥ。
遠くで街灯が一つ灯った。
次に、その先の街灯。
さらに奥の街灯。
黄色い明かりが順番に霧の中へ浮かび、町の中心へ続く一本の道を作っていく。
まるで、マックスを招き入れているようだった。
「気をつけなされ」
龍が言った。
「この霧の中では、見えているものより、見えなくなったものの方が近くにおります」
「どういう意味です?」
「ご友人とはぐれたままにしてはなりません。なるべく早く、お二人と合流することです」
「俺もそうしたい。だから居場所を知っているなら教えてください」
「ほっほお。残念ですが、今のわしには」
「今の?」
マックスは聞き返した。
龍は答えず、胸の前で重ねた手を町の奥へ向けた。
「まずはお休みなされ。身体の疲れは、目を曇らせます。曇った目では、真に捜すべきものを取り違えることもありましょう」
背後で、再び足音がした。
ドスッ。
先ほどより近い。
マックスは闇に閉ざされた山と、霧に包まれた町を交互に見た。
片方には、姿の見えない何かがいる。
もう片方には、信用できない老人が立っている。
どちらを選ぶべきかは明らかなはずだった。
それなのに、マックスには分からなかった。
「一つだけ訊かせてください」
「何でしょうな」
「ここは、何という町です?」
龍は丸眼鏡の縁を、ゆっくりとなぞった。
そしてフクロウのように喉を鳴らした。
「ほっほお……」
霧の奥で、幾つもの窓に明かりが灯った。
誰かが火を点けた様子はない。
それでも町は、長い眠りから目覚めるように、一軒、また一軒と姿を現していく。
龍は細い目をさらに細めた。
「名前など、とうに失われました」
背後から迫っていた足音が、ぴたりと止まった。
「今では皆、こう呼んでおります」
老人の半笑いの向こうで、曇った歯が覗いた。
「霧の町、と」




