第一話 雪中の像
何気なく目にしたものに心を奪われ、立ち止まってしまうことは誰にでもある。
町中のショーケースに飾られた新型のスキー板かもしれない。発売されたばかりのゲームソフトかもしれない。それとも、書店の片隅に積まれた、誰も手に取らない一冊の小説かもしれない。
それは人によって様々だ。
オレンジ色のスキーウェアに身を包んだ赤毛の青年、マックス・オールドウェイの場合は、眼下に広がる冬山の景色だった。
白い雪に覆われた木々が、傾きかけた太陽を浴びて淡い金色に輝いている。遠くの峰は薄い雲に隠れ、その輪郭だけが青白く透けていた。風が吹くたび、枝に積もった雪が細かな粒となって舞い上がり、光の中を漂っていく。
それは、とても静かな景色だった。
静かすぎて、ここが人間の立ち入る場所ではないようにさえ思えた。
「おい、マックス! 眺めてないでテント張るの手伝えよ!」
背後から飛んできた大声で、マックスは現実へ引き戻された。
振り返ると、グリーンのスキーウェアを着た茶髪の青年が、折り畳まれたテントの骨組みを片手に睨んでいる。短い髪は癖のように逆立ち、大きく見開かれた黒い目には苛立ちが浮かんでいた。
「ジョージ。雪崩でも起こす気か?」
マックスは声を押し殺して言った。
「この程度で雪崩が起きてたまるか。いいから、こっち持て」
「つまり、こういう事か? 俺が景色を見ている間、お前は一人で働かされて腹を立てている」
「分かってるなら、とにかくやれ!」
ジョージ・ミリオスは吐き捨てるように言い、茶色い革手袋をした左手で骨組みの端を持ち上げた。
マックスは小さく息をつき、彼の向かい側にしゃがみ込んだ。雪を踏み固めた場所へ金属製の脚を差し込み、凍りついた接合部を素手で押し込む。
指先に鋭い冷たさが走った。
金属というより、氷そのものに触れているようだった。
「素手で平気なのか?」
ジョージが訊いた。
心配しているというより、何かを確かめようとしている声だった。
「平気には見えないだろ」
「じゃあ、手袋は?」
「貸した」
その一言で、ジョージの手が止まった。
「誰に」
「誰って……ソニアだが」
ジョージの眉間に深い皺が刻まれた。
マックスには、彼が不機嫌になった理由がすぐには分からなかった。ソニアは手袋を忘れていた。薪を拾う際、木片で手を傷つけるかもしれない。それなら、自分のものを貸すのが自然だと思っただけである。
しかし、ジョージにとってはそうではなかったらしい。
「点数稼ぎかよ」
「何の点数だ?」
「惚けるな。ソニアに決まってるだろ」
「手袋を貸しただけだ」
「だから、それがだよ」
ジョージは骨組みを乱暴に雪へ突き立てた。
「俺が貸そうとした時には、もうお前のをはめてただろ。先回りしやがって」
「彼女が手を怪我したら困ると思った。それ以上の意味はない」
「白々しいんだよ」
「そう言われても、ないものはない」
答えながら、マックスは自分の言葉が火に油を注いでいることに気づいた。
ジョージとは、以前ならもっと気楽に話せた。大学に入学して間もない頃、同じ講義に遅刻したことがきっかけで知り合い、山岳部へ入ったのもほぼ同時だった。講義のノートを貸し借りし、休日には二人で映画を観に行くことさえあった。
それがいつ頃からか、ジョージは何かにつけてマックスと張り合うようになった。
山を登る速さ。荷物の重さ。試験の点数。
そして、ソニアの隣を歩くのが誰であるか。
「お前はいつもそうだよな」
ジョージは低い声で言った。
「何もしてませんって顔で、欲しいものを持っていく」
「欲しいもの?」
「もういい」
「よく分からない。つまり、俺がお前の邪魔をしているという事か?」
「その言い方が腹立つんだよ!」
ジョージが声を荒らげた、その時だった。
「ただいま戻りました」
二人の間に張り詰めた空気を、穏やかな声が横切った。
林の奥からソニア・カスターシャが現れた。両腕いっぱいに薪を抱え、雪の中を慎重に歩いてくる。耳を覆うほどの茶髪には細かな雪が付着し、吐く息が白く頬の前へ広がっていた。
彼女もマックスと同じ、オレンジ色のスキーウェアを着ている。
「これだけあれば、足りますか?」
「十分だ。重かっただろ」
マックスが薪を受け取ろうと立ち上がる。
「ありがとうございます」
ソニアは微笑み、マックスへ薪を渡した。その両手には、彼が貸した焦げ茶色の手袋がはめられている。
横で、ジョージが鼻を鳴らした。
「俺だって取れるぞ、それくらい」
「ジョージにもお願いします。まだ少し向こうに残っていますから」
「え」
「太い枝が三本ほどありました。私では持ちきれなくて」
ソニアが林の奥を指さす。
「ジョージなら大丈夫ですよね?」
柔らかな口調だったが、断られるとは少しも考えていない顔だった。
ジョージは口を開きかけ、マックスを見た。次にソニアを見て、胸を張った。
「当たり前だ。三本どころか全部持ってきてやる」
「無理はしないでくださいね」
「これくらい、とにかくやれば何とかなる」
ジョージは勢いよく林へ入っていった。すぐに雪へ足を取られ、危うく転びかけたが、何事もなかったように姿勢を正す。その背中が木々の間へ消えると、ソニアが小さく笑った。
「ジョージは頼りになりますね」
「操るのが上手い、の間違いじゃないのか?」
「そんなつもりはありませんよ」
そう答えながらも、彼女は楽しそうだった。
マックスは薪を地面へ置き、冷え切った両手に息を吹きかけた。
それを見たソニアの表情が曇る。
「やっぱり、お返しします」
「薪集めが終わるまでは使っていてくれ」
「でも、マックスの手が真っ赤です」
「この程度なら問題ない」
「問題があります」
ソニアは薪の束を置くと、右手の手袋を外した。
「片方ずつ使うというのはどうでしょう」
「余計に不便だろ」
「では、私が両方返します」
「棘が刺さるかもしれない」
「マックスだって同じです」
穏やかな口調のまま、一歩も引こうとしない。
ソニアは時折、このようなところがあった。普段はおっとりしていて、誰の意見にも笑顔で耳を傾ける。ところが一度こうと決めると、周囲が驚くほど大胆な行動に出るのだ。
「仕方ないな。設営が終わるまで片方借りる」
「はい」
ソニアは満足そうに頷き、右手の手袋を差し出した。
その様子をジョージが見ていれば、また面倒なことになったかもしれない。
そう考えた直後、林の奥から大きな物音がした。
「くそっ、この枝、雪に埋まってやがる!」
ジョージの声だった。
マックスとソニアは顔を見合わせ、同時に笑った。
*
日が暮れる頃には、灰色のテントと焚き火の支度が整っていた。
三人が持ち寄った野菜をソニアが刻み、マックスとジョージが火を起こした。鍋の中では白いシチューが煮え、湯気と共にミルクと香草の匂いが漂っている。
昼間まで見えていた遠くの峰は、すでに夜の中へ沈んでいた。
雪を被った木々の隙間に、星がいくつか見える。焚き火のはぜる音が響くたび、周囲の闇がわずかに後退し、また元の位置まで近づいてきた。
マックスは温かなシチューを口へ運んだ。
冷え切った身体の内側に、ゆっくり熱が広がっていく。雪の上では、この白い食べ物が命そのもののように思えた。
「それにしても、情けない話だよな」
皿を空にしたジョージが言った。
「何がですか?」
「山岳部の連中だよ。揃いも揃って風邪なんかひきやがって。おかげで来たのは俺たち三人だけだ」
「幸運だったとも言えますね」
ソニアが微笑む。
「私たちは風邪をひかなかったんですから」
「しかも、あのティムジーまで休みとはな。普段は俺たちに体調管理をしろって偉そうに言ってるくせに」
「キャプテンは無理をしていたんじゃないか?」
マックスが言うと、ジョージは露骨に顔をしかめた。
「そうやって、すぐあいつを庇う」
「庇ってはいない。あの人は部員全員の装備を確認して、登山計画も一人で組んでいた。疲労が溜まっていても不思議じゃない」
「管理が悪いから一人で抱え込むんだろ。俺ならもっとうまくやる」
「そうでしょうか」
ソニアが首を傾げた。
「何だよ。俺には無理だって言うのか?」
「いいえ。ただ、ジョージがキャプテンになったら、全員を自分と同じ速さで歩かせそうだと思って」
一瞬の沈黙の後、マックスは吹き出した。
「笑うな!」
「いや、かなり正確な分析だと思った」
「お前まで言うな!」
ジョージは怒鳴ったが、本気で腹を立てたわけではないらしい。やがて彼自身も苦笑し、空になった皿を雪の上へ置いた。
三人の笑い声が、夜の林へ吸い込まれていく。
マックスはその時、ふとジョージの背後を見た。
炎の向こうに、白いものが立っていた。
初めは雪を被った木の幹だと思った。
しかし、それにしては輪郭が滑らかすぎる。枝もなく、腰の辺りから裾のようなものが広がっている。頭部らしきものがあり、そこから長い髪に似た筋が垂れていた。
人の姿に見えた。
マックスは目を細めた。
炎が揺れるたび、暗闇に浮かぶ人影も揺れて見える。
「マックス?」
ソニアに声を掛けられ、彼は一度そちらを見た。
「どうしました?」
「いや……」
再び林へ目を向ける。
白い人影は、まだそこにあった。
見間違いではない。
「あんな物、登ってきた時にあったか?」
マックスは林を指さした。
ジョージが面倒そうに振り返る。
「何が……」
途中で声が止まった。
彼にも見えたのだろう。黒い目が大きく見開かれた。
「何だ、あれ」
三人は立ち上がった。
焚き火から数十歩離れた林の中に、石像が立っている。
女性を象ったものらしかった。腰に届くほど長い髪。首元から足元までを覆う衣。その両腕には、布に包まれた何かが抱かれている。顔は俯けられ、腕の中にあるものを見つめていた。
「マリア像じゃないか?」
ジョージが言った。
それを聞いて、マックスは胸の奥に引っ掛かっていた記憶の正体に気づいた。
以前、ソニアと町の教会を訪れた時に見た像。
慈しみに満ちた面差しで、幼子を抱く聖母。
遠目には、確かによく似ていた。
「でも、どうしてこんな場所に?」
ソニアが呟いた。
「地元の人が置いたのかもしれない」
「こんな山奥にか?」
ジョージの疑問はもっともだった。
近くに道はない。建物もない。人が暮らしていた痕跡すら、彼らは見ていなかった。何より、三人はテントを張る前に周辺の安全を確認している。
これほど目立つ石像を、全員が見落とすだろうか。
「確かめてみます」
ソニアが歩き出した。
「待て」
マックスは反射的に彼女の腕を掴んだ。
自分でも、なぜ止めたのか分からなかった。
石像は動かない。
ただ、そこに立っているだけだ。
それなのに、近づいてはならない気がした。
「危ないものには見えませんが」
「そうだが……」
「だったら、とにかく見に行けば分かるだろ」
ジョージが二人の横を通り過ぎた。
「石像を怖がってどうするんだよ」
マックスは返事をしなかった。
代わりにジョージの後を追い、ソニアも続いた。
三人が焚き火から離れるにつれ、空気が冷たくなっていった。
雪を踏む音が、不自然なほど大きく聞こえる。
風はない。
それでも周囲の木々がざわめき始めた。
雪を載せた枝が互いに擦れ、低く長い音を立てる。その響きは、喉の奥から絞り出される女の呻き声に似ていた。
石像まで、あと数歩。
炎の明かりが届かなくなり、細部が闇の中から浮かび上がってくる。
ソニアが先に息を呑んだ。
「……これ、マリア像ではありません」
顔が違った。
石像の女は、両腕に抱いたものを大きく見開いた目で凝視している。
慈しんでいるのではない。
怯えているようにも見えない。
その目に宿るものは、飢えだった。
頬は不自然に吊り上がり、口元には歪んだ笑みが刻まれている。腕の中のものを愛でているのではなく、これから味わおうとしている。
そうとしか思えない顔だった。
「気味が悪いな」
強がるようにジョージが言った。
マックスは石像の抱くものへ視線を落とした。
布に包まれているため、姿はほとんど見えない。形だけなら赤ん坊に思える。しかし、布の隙間から細いものが何本か突き出していた。
指だろうか。
それにしては長すぎた。
「戻ろう」
マックスは言った。
「写真だけ撮ってもいいですか?」
ソニアが胸元の小型カメラへ手を伸ばした。
「やめた方がいい」
「どうしてですか?」
「分からない。だが、ここに長くいない方がいい」
その時、石像の目が動いた。
そう見えた。
俯いていたはずの顔が、僅かに持ち上がったように思えた。
マックスは瞬きもせず、その目を見つめた。
石の瞳の端に、黒い染みが浮かんでいる。
一滴。
黒い液体が目から溢れ、頬を伝った。
油よりも濃く、夜よりも暗い液体だった。それは歪んだ口元を横切り、顎の先から腕の中の布へ落ちた。
ぽたり。
音がした。
あり得ない。
凍りつくような寒さの中で、石から液体が流れ出すはずがない。
「見たか?」
マックスが訊いた。
返事はなかった。
「ソニア?」
背後を振り返る。
誰もいなかった。
「ジョージ?」
雪の上には三人分の足跡がある。
焚き火から石像へ向かって並んでいる。
しかし、マックスの足跡の左右にあった二人分の跡は、途中で唐突に途切れていた。
引き返した跡もない。
別の方向へ歩いた跡もない。
まるで二人が、そこで雪から足を離し、そのまま空へ昇っていったかのように。
「ふざけるな。どこにいる!」
声が林の中へ響いた。
返ってきたのは、木々の低いざわめきだけだった。
ウウウゥゥゥゥ。
女の呻き声に似た音が、先ほどより近くで鳴った。
マックスは石像へ向き直った。
黒い涙は、両目から流れていた。
筋となって石の頬を汚し、顎から絶え間なく滴り落ちている。
腕の中の布が濡れていく。
その奥で、何かが動いた。
マックスは後ずさった。
闇の中で、焚き火が急に小さくなった。
風はない。それなのに炎は地面へ押し潰されるように低くなり、赤い舌を弱々しく震わせている。
「こういう事か……?」
掠れた声が、自分の口から漏れた。
二人は石像を見て、危険を感じて逃げた。
そう考えれば説明できる。
だが、足跡はない。
石像へ近づいた自分を驚かせようと、木の陰に隠れている。
それなら、呼べば返事をするはずだ。
説明を組み立てるたび、その根拠が一つずつ暗闇へ沈んでいく。
「ソニア! ジョージ!」
もう一度、叫んだ。
遠くで、何かが雪を踏んだ。
ぎゅっ。
返事の代わりに、一歩。
ぎゅっ。
別の方角から、もう一歩。
足音はある。
だが、誰の姿も見えない。
焚き火が消えた。
温かな光も、テントも、置かれていた食器も、一瞬にして闇の中へ呑み込まれた。
星まで消えていた。
マックスは完全な暗闇の中に立ち尽くした。
見えるものは、一つだけだった。
黒い涙を流す石像が、なぜか闇の中に白く浮かんでいる。
そして先ほどまで腕の中のものへ注がれていた石の瞳は、今、まっすぐにマックスを見つめていた。




