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霧の町  作者: KRR
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2/11

第一話 雪中の像

 何気なく目にしたものに心を奪われ、立ち止まってしまうことは誰にでもある。


 町中のショーケースに飾られた新型のスキー板かもしれない。発売されたばかりのゲームソフトかもしれない。それとも、書店の片隅に積まれた、誰も手に取らない一冊の小説かもしれない。


 それは人によって様々だ。


 オレンジ色のスキーウェアに身を包んだ赤毛の青年、マックス・オールドウェイの場合は、眼下に広がる冬山の景色だった。


 白い雪に覆われた木々が、傾きかけた太陽を浴びて淡い金色に輝いている。遠くの峰は薄い雲に隠れ、その輪郭だけが青白く透けていた。風が吹くたび、枝に積もった雪が細かな粒となって舞い上がり、光の中を漂っていく。


 それは、とても静かな景色だった。


 静かすぎて、ここが人間の立ち入る場所ではないようにさえ思えた。


「おい、マックス! 眺めてないでテント張るの手伝えよ!」


 背後から飛んできた大声で、マックスは現実へ引き戻された。


 振り返ると、グリーンのスキーウェアを着た茶髪の青年が、折り畳まれたテントの骨組みを片手に睨んでいる。短い髪は癖のように逆立ち、大きく見開かれた黒い目には苛立ちが浮かんでいた。


「ジョージ。雪崩でも起こす気か?」


 マックスは声を押し殺して言った。


「この程度で雪崩が起きてたまるか。いいから、こっち持て」


「つまり、こういう事か? 俺が景色を見ている間、お前は一人で働かされて腹を立てている」


「分かってるなら、とにかくやれ!」


 ジョージ・ミリオスは吐き捨てるように言い、茶色い革手袋をした左手で骨組みの端を持ち上げた。


 マックスは小さく息をつき、彼の向かい側にしゃがみ込んだ。雪を踏み固めた場所へ金属製の脚を差し込み、凍りついた接合部を素手で押し込む。


 指先に鋭い冷たさが走った。


 金属というより、氷そのものに触れているようだった。


「素手で平気なのか?」


 ジョージが訊いた。


 心配しているというより、何かを確かめようとしている声だった。


「平気には見えないだろ」


「じゃあ、手袋は?」


「貸した」


 その一言で、ジョージの手が止まった。


「誰に」


「誰って……ソニアだが」


 ジョージの眉間に深い皺が刻まれた。


 マックスには、彼が不機嫌になった理由がすぐには分からなかった。ソニアは手袋を忘れていた。薪を拾う際、木片で手を傷つけるかもしれない。それなら、自分のものを貸すのが自然だと思っただけである。


 しかし、ジョージにとってはそうではなかったらしい。


「点数稼ぎかよ」


「何の点数だ?」


「惚けるな。ソニアに決まってるだろ」


「手袋を貸しただけだ」


「だから、それがだよ」


 ジョージは骨組みを乱暴に雪へ突き立てた。


「俺が貸そうとした時には、もうお前のをはめてただろ。先回りしやがって」


「彼女が手を怪我したら困ると思った。それ以上の意味はない」


「白々しいんだよ」


「そう言われても、ないものはない」


 答えながら、マックスは自分の言葉が火に油を注いでいることに気づいた。


 ジョージとは、以前ならもっと気楽に話せた。大学に入学して間もない頃、同じ講義に遅刻したことがきっかけで知り合い、山岳部へ入ったのもほぼ同時だった。講義のノートを貸し借りし、休日には二人で映画を観に行くことさえあった。


 それがいつ頃からか、ジョージは何かにつけてマックスと張り合うようになった。


 山を登る速さ。荷物の重さ。試験の点数。


 そして、ソニアの隣を歩くのが誰であるか。


「お前はいつもそうだよな」


 ジョージは低い声で言った。


「何もしてませんって顔で、欲しいものを持っていく」


「欲しいもの?」


「もういい」


「よく分からない。つまり、俺がお前の邪魔をしているという事か?」


「その言い方が腹立つんだよ!」


 ジョージが声を荒らげた、その時だった。


「ただいま戻りました」


 二人の間に張り詰めた空気を、穏やかな声が横切った。


 林の奥からソニア・カスターシャが現れた。両腕いっぱいに薪を抱え、雪の中を慎重に歩いてくる。耳を覆うほどの茶髪には細かな雪が付着し、吐く息が白く頬の前へ広がっていた。


 彼女もマックスと同じ、オレンジ色のスキーウェアを着ている。


「これだけあれば、足りますか?」


「十分だ。重かっただろ」


 マックスが薪を受け取ろうと立ち上がる。


「ありがとうございます」


 ソニアは微笑み、マックスへ薪を渡した。その両手には、彼が貸した焦げ茶色の手袋がはめられている。


 横で、ジョージが鼻を鳴らした。


「俺だって取れるぞ、それくらい」


「ジョージにもお願いします。まだ少し向こうに残っていますから」


「え」


「太い枝が三本ほどありました。私では持ちきれなくて」


 ソニアが林の奥を指さす。


「ジョージなら大丈夫ですよね?」


 柔らかな口調だったが、断られるとは少しも考えていない顔だった。


 ジョージは口を開きかけ、マックスを見た。次にソニアを見て、胸を張った。


「当たり前だ。三本どころか全部持ってきてやる」


「無理はしないでくださいね」


「これくらい、とにかくやれば何とかなる」


 ジョージは勢いよく林へ入っていった。すぐに雪へ足を取られ、危うく転びかけたが、何事もなかったように姿勢を正す。その背中が木々の間へ消えると、ソニアが小さく笑った。


「ジョージは頼りになりますね」


「操るのが上手い、の間違いじゃないのか?」


「そんなつもりはありませんよ」


 そう答えながらも、彼女は楽しそうだった。


 マックスは薪を地面へ置き、冷え切った両手に息を吹きかけた。


 それを見たソニアの表情が曇る。


「やっぱり、お返しします」


「薪集めが終わるまでは使っていてくれ」


「でも、マックスの手が真っ赤です」


「この程度なら問題ない」


「問題があります」


 ソニアは薪の束を置くと、右手の手袋を外した。


「片方ずつ使うというのはどうでしょう」


「余計に不便だろ」


「では、私が両方返します」


「棘が刺さるかもしれない」


「マックスだって同じです」


 穏やかな口調のまま、一歩も引こうとしない。


 ソニアは時折、このようなところがあった。普段はおっとりしていて、誰の意見にも笑顔で耳を傾ける。ところが一度こうと決めると、周囲が驚くほど大胆な行動に出るのだ。


「仕方ないな。設営が終わるまで片方借りる」


「はい」


 ソニアは満足そうに頷き、右手の手袋を差し出した。


 その様子をジョージが見ていれば、また面倒なことになったかもしれない。


 そう考えた直後、林の奥から大きな物音がした。


「くそっ、この枝、雪に埋まってやがる!」


 ジョージの声だった。


 マックスとソニアは顔を見合わせ、同時に笑った。


     *


 日が暮れる頃には、灰色のテントと焚き火の支度が整っていた。


 三人が持ち寄った野菜をソニアが刻み、マックスとジョージが火を起こした。鍋の中では白いシチューが煮え、湯気と共にミルクと香草の匂いが漂っている。


 昼間まで見えていた遠くの峰は、すでに夜の中へ沈んでいた。


 雪を被った木々の隙間に、星がいくつか見える。焚き火のはぜる音が響くたび、周囲の闇がわずかに後退し、また元の位置まで近づいてきた。


 マックスは温かなシチューを口へ運んだ。


 冷え切った身体の内側に、ゆっくり熱が広がっていく。雪の上では、この白い食べ物が命そのもののように思えた。


「それにしても、情けない話だよな」


 皿を空にしたジョージが言った。


「何がですか?」


「山岳部の連中だよ。揃いも揃って風邪なんかひきやがって。おかげで来たのは俺たち三人だけだ」


「幸運だったとも言えますね」


 ソニアが微笑む。


「私たちは風邪をひかなかったんですから」


「しかも、あのティムジーまで休みとはな。普段は俺たちに体調管理をしろって偉そうに言ってるくせに」


「キャプテンは無理をしていたんじゃないか?」


 マックスが言うと、ジョージは露骨に顔をしかめた。


「そうやって、すぐあいつを庇う」


「庇ってはいない。あの人は部員全員の装備を確認して、登山計画も一人で組んでいた。疲労が溜まっていても不思議じゃない」


「管理が悪いから一人で抱え込むんだろ。俺ならもっとうまくやる」


「そうでしょうか」


 ソニアが首を傾げた。


「何だよ。俺には無理だって言うのか?」


「いいえ。ただ、ジョージがキャプテンになったら、全員を自分と同じ速さで歩かせそうだと思って」


 一瞬の沈黙の後、マックスは吹き出した。


「笑うな!」


「いや、かなり正確な分析だと思った」


「お前まで言うな!」


 ジョージは怒鳴ったが、本気で腹を立てたわけではないらしい。やがて彼自身も苦笑し、空になった皿を雪の上へ置いた。


 三人の笑い声が、夜の林へ吸い込まれていく。


 マックスはその時、ふとジョージの背後を見た。


 炎の向こうに、白いものが立っていた。


 初めは雪を被った木の幹だと思った。


 しかし、それにしては輪郭が滑らかすぎる。枝もなく、腰の辺りから裾のようなものが広がっている。頭部らしきものがあり、そこから長い髪に似た筋が垂れていた。


 人の姿に見えた。


 マックスは目を細めた。


 炎が揺れるたび、暗闇に浮かぶ人影も揺れて見える。


「マックス?」


 ソニアに声を掛けられ、彼は一度そちらを見た。


「どうしました?」


「いや……」


 再び林へ目を向ける。


 白い人影は、まだそこにあった。


 見間違いではない。


「あんな物、登ってきた時にあったか?」


 マックスは林を指さした。


 ジョージが面倒そうに振り返る。


「何が……」


 途中で声が止まった。


 彼にも見えたのだろう。黒い目が大きく見開かれた。


「何だ、あれ」


 三人は立ち上がった。


 焚き火から数十歩離れた林の中に、石像が立っている。


 女性を象ったものらしかった。腰に届くほど長い髪。首元から足元までを覆う衣。その両腕には、布に包まれた何かが抱かれている。顔は俯けられ、腕の中にあるものを見つめていた。


「マリア像じゃないか?」


 ジョージが言った。


 それを聞いて、マックスは胸の奥に引っ掛かっていた記憶の正体に気づいた。


 以前、ソニアと町の教会を訪れた時に見た像。


 慈しみに満ちた面差しで、幼子を抱く聖母。


 遠目には、確かによく似ていた。


「でも、どうしてこんな場所に?」


 ソニアが呟いた。


「地元の人が置いたのかもしれない」


「こんな山奥にか?」


 ジョージの疑問はもっともだった。


 近くに道はない。建物もない。人が暮らしていた痕跡すら、彼らは見ていなかった。何より、三人はテントを張る前に周辺の安全を確認している。


 これほど目立つ石像を、全員が見落とすだろうか。


「確かめてみます」


 ソニアが歩き出した。


「待て」


 マックスは反射的に彼女の腕を掴んだ。


 自分でも、なぜ止めたのか分からなかった。


 石像は動かない。


 ただ、そこに立っているだけだ。


 それなのに、近づいてはならない気がした。


「危ないものには見えませんが」


「そうだが……」


「だったら、とにかく見に行けば分かるだろ」


 ジョージが二人の横を通り過ぎた。


「石像を怖がってどうするんだよ」


 マックスは返事をしなかった。


 代わりにジョージの後を追い、ソニアも続いた。


 三人が焚き火から離れるにつれ、空気が冷たくなっていった。


 雪を踏む音が、不自然なほど大きく聞こえる。


 風はない。


 それでも周囲の木々がざわめき始めた。


 雪を載せた枝が互いに擦れ、低く長い音を立てる。その響きは、喉の奥から絞り出される女の呻き声に似ていた。


 石像まで、あと数歩。


 炎の明かりが届かなくなり、細部が闇の中から浮かび上がってくる。


 ソニアが先に息を呑んだ。


「……これ、マリア像ではありません」


 顔が違った。


 石像の女は、両腕に抱いたものを大きく見開いた目で凝視している。


 慈しんでいるのではない。


 怯えているようにも見えない。


 その目に宿るものは、飢えだった。


 頬は不自然に吊り上がり、口元には歪んだ笑みが刻まれている。腕の中のものを愛でているのではなく、これから味わおうとしている。


 そうとしか思えない顔だった。


「気味が悪いな」


 強がるようにジョージが言った。


 マックスは石像の抱くものへ視線を落とした。


 布に包まれているため、姿はほとんど見えない。形だけなら赤ん坊に思える。しかし、布の隙間から細いものが何本か突き出していた。


 指だろうか。


 それにしては長すぎた。


「戻ろう」


 マックスは言った。


「写真だけ撮ってもいいですか?」


 ソニアが胸元の小型カメラへ手を伸ばした。


「やめた方がいい」


「どうしてですか?」


「分からない。だが、ここに長くいない方がいい」


 その時、石像の目が動いた。


 そう見えた。


 俯いていたはずの顔が、僅かに持ち上がったように思えた。


 マックスは瞬きもせず、その目を見つめた。


 石の瞳の端に、黒い染みが浮かんでいる。


 一滴。


 黒い液体が目から溢れ、頬を伝った。


 油よりも濃く、夜よりも暗い液体だった。それは歪んだ口元を横切り、顎の先から腕の中の布へ落ちた。


 ぽたり。


 音がした。


 あり得ない。


 凍りつくような寒さの中で、石から液体が流れ出すはずがない。


「見たか?」


 マックスが訊いた。


 返事はなかった。


「ソニア?」


 背後を振り返る。


 誰もいなかった。


「ジョージ?」


 雪の上には三人分の足跡がある。


 焚き火から石像へ向かって並んでいる。


 しかし、マックスの足跡の左右にあった二人分の跡は、途中で唐突に途切れていた。


 引き返した跡もない。


 別の方向へ歩いた跡もない。


 まるで二人が、そこで雪から足を離し、そのまま空へ昇っていったかのように。


「ふざけるな。どこにいる!」


 声が林の中へ響いた。


 返ってきたのは、木々の低いざわめきだけだった。


 ウウウゥゥゥゥ。


 女の呻き声に似た音が、先ほどより近くで鳴った。


 マックスは石像へ向き直った。


 黒い涙は、両目から流れていた。


 筋となって石の頬を汚し、顎から絶え間なく滴り落ちている。


 腕の中の布が濡れていく。


 その奥で、何かが動いた。


 マックスは後ずさった。


 闇の中で、焚き火が急に小さくなった。


 風はない。それなのに炎は地面へ押し潰されるように低くなり、赤い舌を弱々しく震わせている。


「こういう事か……?」


 掠れた声が、自分の口から漏れた。


 二人は石像を見て、危険を感じて逃げた。


 そう考えれば説明できる。


 だが、足跡はない。


 石像へ近づいた自分を驚かせようと、木の陰に隠れている。


 それなら、呼べば返事をするはずだ。


 説明を組み立てるたび、その根拠が一つずつ暗闇へ沈んでいく。


「ソニア! ジョージ!」


 もう一度、叫んだ。


 遠くで、何かが雪を踏んだ。


 ぎゅっ。


 返事の代わりに、一歩。


 ぎゅっ。


 別の方角から、もう一歩。


 足音はある。


 だが、誰の姿も見えない。


 焚き火が消えた。


 温かな光も、テントも、置かれていた食器も、一瞬にして闇の中へ呑み込まれた。


 星まで消えていた。


 マックスは完全な暗闇の中に立ち尽くした。


 見えるものは、一つだけだった。


 黒い涙を流す石像が、なぜか闇の中に白く浮かんでいる。


 そして先ほどまで腕の中のものへ注がれていた石の瞳は、今、まっすぐにマックスを見つめていた。

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