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霧の町  作者: KRR
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序章 悔いを残した時間

 雨が、窓を叩いていた。


 山奥に取り残された古い小屋を見つけ、ようやく辿り着いた者が、必死に中へ入れてもらおうとしている。そんな叩き方だった。


 開けてくれ。


 開けてくれ。


 ひび割れたガラスが細かく震え、そのたびに、窓枠に溜まった埃が床へ落ちた。風が小屋の隙間という隙間へ指を差し込み、腐りかけた木材を掴んで揺さぶっている。屋根からは雨漏りがしていた。落ちてくる雫が、黒ずんだ床板に同じ大きさの染みを作り続けている。


 その染みの数を数える者はいない。


 小屋の中央に、人影があった。


 三本脚の椅子に腰掛け、頭から暗い色の外套をまとっている。顔は俯けられ、闇の中へ溶けていた。ただ、両膝の上に置かれた手だけが、時折差し込む稲光に青白く浮かんだ。


 轟音が山を震わせた。


 直後、窓の外で光が弾けた。


 小屋の中から、ほんの一瞬だけ闇が消し飛ぶ。割れた食器。壁際に積まれた薪。錆びた斧。蜘蛛の巣に覆われた棚。濡れて歪んだ床板。そして、椅子に座る人影。


 すべてが白い光の中へさらけ出された。


 だが、人影だけは黒かった。


 光を拒んでいるのではない。


 光のほうが、その影に触れることを恐れている。


 そう思わせるほど、そこだけが深い闇を抱えていた。


 稲光が消える。


 小屋は再び、息苦しい暗がりに沈んだ。


 雨脚が強まった。


 開けてくれ。


 開けてくれ。


 外には誰もいないはずだった。窓の向こうに広がっているのは、夜と、木々と、霧に閉ざされた山だけである。それでも雨は、閉め切られた戸口を、窓を、屋根を、何度も何度も打ち据えた。


 人影は動かなかった。


 返事もしなかった。


 雨音の隙間から、別の音が聞こえ始めた。


 最初は、風が戸板を擦る音にすぎないように思えた。あるいは、軒下へ入り込んだ小動物の鳴き声だったのかもしれない。それは低く、弱々しく、不規則に途切れていた。


 やがて、その音は言葉になった。


 ――助けて。


 小屋の隅で、雫が落ちた。


 ――助けて。


 床にできた黒い染みが、ゆっくりと広がっていく。


 ――ここから出して。


 人影の指先が、わずかに曲がった。


 それだけだった。


 立ち上がることも、窓を見ることもなかった。呼びかけに応じれば、戸口の向こうに立つ何かを認めることになる。そんな恐れから動けないのか。それとも、声の主をすでに知っているのか。


 雨は激しさを増していった。


 無数の指が壁を這い、爪を立てている。窓を打つ雫の一つ一つが、小屋の中へ訴えかけていた。


 どうして。


 どうして、あのとき。


 声は雨音に紛れ、言葉になりきらない。


 それでも人影には聞こえていた。


 聞こえていないふりなど、できなかった。


 次の稲光が、窓を白く染めた。


 その瞬間、人影が僅かに顔を上げた。


 外套の奥にある顔は見えない。けれど、窓へ向けられた暗がりの中で、何かが鈍く光った。それは濡れた瞳であったかもしれないし、単に雷光を反した金具であったかもしれない。


 雷鳴が落ちた。


 山が引き裂かれたような音だった。


 小屋全体が大きく揺れ、棚の上から空き瓶が転げ落ちた。瓶は床にぶつかって砕け、その破片の上へ、天井から雫が落ちる。


 一滴。


 また一滴。


 そして窓を流れる雨水に、別の色が混じった。


 最初は、外の闇が映り込んだだけに見えた。


 黒ずんだ水の筋が、窓の上端からゆっくりと垂れてくる。一本、二本。それらは途中で重なり合い、粘り気を伴ってガラスの上に広がった。


 再び雷光が走った。


 窓が、赤かった。


 雨ではない。


 赤黒い液体が、ひび割れたガラスを覆っていた。


 それは水のように素早く流れ落ちず、窓へしがみつくように留まっている。新たな雫が上から落ちてくるたび、ぬるりと膨らみ、重さに耐えきれなくなったところで長い尾を引いた。


 鉄錆に似た臭いが、小屋の中へ入り込んできた。


 閉ざされた窓の、どこから入り込んだのか。


 人影は鼻元を覆おうともしなかった。ただ椅子に座り、血に染まっていく窓を見ていた。


 ――タスケテ。


 声が近づいた。


 もう、外から聞こえているのではなかった。


 頭の奥。


 胸の底。


 決して手の届かない、暗く深い場所で、誰かが戸を叩いていた。


 ――タスケテ。


 赤い雨が窓を打つ。


 ――どうして、助けてくれなかった。


 人影の手が、膝の上で固く握られた。


 爪が掌へ食い込む。白かった指先から血の気が引き、微かに震え始める。それでも腰を上げることはなかった。


 立ち上がったところで、どこへ行けるというのか。


 窓を開けても、そこに待つ者はいない。


 戸を開けても、戻ってくる者はいない。


 それを知っているからこそ、人影は動けなかった。


 床板が軋んだ。


 一度。


 そしてもう一度。


 まるで濡れた足で歩く者が、小屋の中へ入ってきたかのように。


 入口から人影の背後まで、ゆっくりと音が近づいてくる。


 ぎし。


 ぎし。


 ぎし。


 人影は振り返らない。


 その音の主が誰なのか確かめようともしない。ただ、握り締めた拳を膝に押しつけ、雨音に耳を澄ませている。


 背後で、足音が止まった。


 冷たい気配が首筋に触れた。


 ――助けて。


 人影は唇を開いた。


 けれど、声は出なかった。


 謝罪も、弁明も、名前さえも。


 何一つ、言葉にはならなかった。


 窓の外で稲妻が弾けた。


 赤い光が小屋を満たした。


 壁も、床も、天井も、置き去りにされた道具も、すべてが血の色に染まる。世界そのものが巨大な傷口となり、その中心に人影だけが黒く座っていた。


 背後には、誰もいなかった。


 足跡すら残っていない。


 それでも雨は、人の声で窓を叩き続ける。


 タスケテ。


 タスケテ。


 タスケテ。


 人影は動かなかった。


 動けなかった。


 やがて小屋を満たしていた赤い光が消え、闇が戻ってきた。


 窓を覆う血だけを残して。


 雨は夜が明けるまで止まなかった。


 そして人影は、その一度たりとも、窓を開けなかった。

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