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第9話:見えない亀裂

2038年、秋。

人類が異空間予報システムという名の「神の目」を手に入れてから、一年以上の歳月が流れていた。

その日、ジン・クロサワ率いるPM-ギア特殊部隊は、旧アジア地区に位置する山岳地帯の廃村跡地に展開していた。

赤茶けた枯葉が風に舞い、朽ち果てた木造家屋の残骸が点在するうら寂しい風景の中、三機の漆黒と銀の装甲兵が、静かにその時を待っている。

「予報時刻まで、残り三十秒。各員、武装を展開し待機せよ」

ジンの低く落ち着いた声が、枯れた山風の中に溶けていく。

「了解。目標数はおよそ十体、小規模な群れだな。俺の火力なら五秒で片付くぜ」

ヴォルフが退屈そうにあくびを噛み殺しながら、両腕に巨大な粒子ガトリング砲を形成する。銃身が鈍い駆動音を立てて回転を始め、いつでも青白い死の弾幕を放てるようアイドリング状態に入った。

「油断は禁物よ、ヴォルフ。予報は絶対だけれど、相手は未知の怪物。何が起きるかわからないわ」

シオンが背部のスラスターユニットの出力バランスを微調整しながら、両手に青白い光を放つ双剣を顕現させる。

「わかってるさ。……おっと、時間だぜ」

ヴォルフの言葉と同時だった。

廃村の広場の上空、地上から約五メートルの虚空に、ガラスにヒビが入るような不気味な亀裂が走った。

ギィィィィンッ、という鼓膜を直接引っ掻くような空間の破砕音。

ここまでは、いつもと同じだ。予報システムの座標と時間に、一秒の狂いもない。

だが、空間の亀裂が開いた瞬間、ジンはバイザーの奥でわずかに眉をひそめた。

(……デカいな)

通常の小規模な群れが出現する際の次元の亀裂は、直径にして三メートルから四メートル程度だ。しかし、今目の前で口を開けた漆黒の穴は、優に十メートルを超えていた。まるで空そのものが大きく抉り取られたような、禍々しい巨大な暗黒。

そこから溢れ出してくる異世界の瘴気も、普段の数倍は濃い。

「来るぞ! 撃て!!」

空間の穴から、漆黒の体毛に覆われた未確認生命体が次々と降ってくる。

ヴォルフのガトリング砲が火を噴き、圧倒的な重粒子弾の雨が怪物たちを空中でミンチに変えていく。シオンが残骸を掻き分けて前進し、地上に降り立った個体の首を双剣で的確に刈り取っていく。

ジンもまた、スラスターを吹かして一直線に敵陣へ突入した。

右腕に粒子金属を収束させ、高周波ブレードを生成する。空気を切り裂く甲高い振動音と共に、巨大な怪物の胴体を一刀両断する。返り血を浴びる間もなく、左腕に換装したパイルバンカーで別の個体の頭部を粉砕した。

戦闘そのものは、いつも通りの一方的な蹂躙だった。

予報システムによる出待ち戦法と、PM-ギアの圧倒的な性能の前では、いかなる怪物も悲鳴を上げる間もなく肉塊へと変わる。戦闘開始からわずか一分で、予報通り十体の怪物はすべて殲滅された。

「生体反応ゼロ。……終わったぜ。今日も楽勝だったな」

ヴォルフが銃身から立ち上る白煙を吹き飛ばし、勝利を宣言する。

しかし、ジンは武器を解除せず、上空の「亀裂」を油断なく見据えたまま動かなかった。

「隊長?」

不審に思ったシオンが声をかける。

「……おかしい。穴が、塞がらない」

ジンの言葉に、二人はハッと上空を見上げた。

通常、異空間の亀裂は、怪物がこちらの世界へ押し出された直後、次元の圧力差によってゴムが縮むように数秒で閉鎖する。それがこれまでの「常識」だった。

しかし、上空に開いた十メートルを超える巨大なブラックホールは、怪物の出現が終わってから数分が経過しても、なお不気味な脈動を繰り返し、一向に閉じる気配がなかったのだ。

それどころか、亀裂の周囲の空間が、水面に落ちた油のように虹色に歪み、少しずつ、ミリ単位で外側へと広がっているようにすら見えた。

「おいおい、冗談だろ……? なんで開きっぱなしなんだよ。まるで、向こう側の世界が地球を飲み込もうとしてるみたいじゃねえか」

ヴォルフがガトリング砲を再び構え直し、後ずさりする。力こそすべてと豪語する彼でさえ、物理法則を完全に無視したその光景には本能的な恐怖を感じていた。

「司令部に通信! 空間異常が継続しています。予報データの再確認を――」

シオンがインカムを叩き、早口で報告を始めた。

ジンは無言のまま、HUDに表示される空間振動の波形データを凝視していた。

波形は激しく乱高下を繰り返し、PM-ギアの装甲を形成している粒子金属のエネルギーと、何らかの目に見えない干渉を起こしている。自身の腰のベルトが、亀裂の脈動に呼応するように、微かに熱を帯びているのをジンは感じ取っていた。

(ギアの粒子金属が……共鳴しているのか?)

異常な光景が十分ほど続いた後。

亀裂は限界を迎えたように大きく一度波打ち、そして、唐突にパチンと弾けるように消滅した。

後に残されたのは、秋の冷たい風と、血塗られた怪物の死骸だけだった。

「……空間の修復を確認。作戦終了だ。帰還する」

ジンは重い声でそう告げ、ベルトのコアを待機状態に戻した。

完全な勝利であるはずなのに、ジンの胸の奥には、氷の破片を飲み込んだような冷たい違和感がこびりついて離れなかった。

数時間後。防衛軍司令部の地下最深部に位置する研究区画。

ジンはPM-ギアをメンテナンスドックに預けた後、その足で東郷創一博士のプライベート・ラボを訪れていた。

「やあ、ジン。今日も見事な戦果だったね。君たちの活躍のおかげで、市民は今夜も安心して眠ることができる」

ラボに足を踏み入れたジンを、東郷は温かいコーヒーのカップを手にして笑顔で出迎えた。

白衣を纏い、柔和な目元を細めるその姿は、誰もが敬愛する「人類の救世主」そのものである。

「博士、本日の作戦データは確認していただけましたか。戦闘終了後も、空間の亀裂が異常な長時間にわたって開いたままになっていました」

ジンは出されたコーヒーには手をつけず、真剣な表情で切り出した。

「ああ、もちろん見ているよ」

東郷はゆっくりとカウチに腰を下ろし、コーヒーの香りを楽しみながら頷いた。

「亀裂の拡大と、閉鎖の遅延現象だね。君が不安に思うのも無理はない。だが、結論から言えば心配には及ばないよ。あれは予報システムの『微細な誤差』に過ぎない」

「微細な誤差、ですか? あれほど巨大な穴が開きっぱなしになっていたのに?」

「地球の地殻変動や、季節による磁場の変化が、次元の壁にわずかなノイズを生ませているんだ。予報システムはそのノイズを拾いすぎて、亀裂の維持時間を過大に長引かせてしまった。……つまり、自然現象の揺らぎのようなものさ」

東郷はホワイトボードに簡単な図式を描きながら、極めて論理的で、素人には反論の隙を与えない滑らかな口調で解説を始めた。

「それに、君のPM-ギアのデータも確認したが、装甲の定着率にも出力にも一切の異常は見られなかった。空間がどれほど歪もうと、君たちの刃が届く限り、この世界は安全だよ。私のシステムと、君たちの力を信じてくれたまえ」

東郷はジンに向き直り、父親のように優しく、包み込むような眼差しを向けた。

その真っ直ぐな瞳を前にして、ジンの中で渦巻いていた疑念が、少しずつ溶けていくのを感じた。

この人は、これまで何度も人類を絶望から救ってきた天才だ。

サエとリクが暮らすあの平和な日常は、この人の頭脳がなければ絶対にあり得なかった。自分が感じた違和感など、高度な次元物理学の専門家から見れば、取るに足らない思い過ごしに過ぎないのだろう。

「……わかりました。博士がそうおっしゃるなら、俺の杞憂でした。疑うような真似をして申し訳ありません」

ジンは深く頭を下げた。

「謝る必要はないさ。前線で命を懸けている君が、わずかな異常に敏感になるのは当然のことだ。むしろ、その直感こそが君を優秀な兵士にしている。これからも、何か気になることがあればいつでも報告してくれ」

「はい。ありがとうございます、博士。……それでは、失礼します」

ジンは安堵の息を一つ吐き、ラボの扉を開けて廊下へと出て行った。

頼れる味方がいる。その事実が、ジンの足取りを軽くしていた。

必ず家族の元へ帰る。その約束を果たすための道筋は、東郷博士の頭脳によって完璧に舗装されているのだと、彼は疑いなく信じていた。

自動ドアが閉まり、ロックの電子音が静かなラボに響き渡る。

足音が完全に遠ざかったのを確認すると、東郷は手に持っていたコーヒーカップを、テーブルの上へと無造作に放り投げた。

ガチャン、という陶器の砕ける音と共に、黒い液体が床にぶちまけられる。

「……微細な誤差、だと? 愚かな。あれほどの次元の悲鳴を聞いておきながら、私にそう言われただけで納得して帰っていくとは。兵士という生き物は、つくづく思考を放棄した便利な道具だな」

東郷の顔から、先ほどまでの慈愛に満ちた表情が完全に消え失せた。

冷酷で、底知れぬ狂気を孕んだ瞳が、部屋の最奥にある隠し扉へと向けられる。

網膜認証をパスし、分厚い隔壁の先にある真の実験室――エネルギー封じ込めチャンバーが設置された空間へと足を踏み入れる。

チャンバーの中で蠢く「人造の空間亀裂」は、数ヶ月前に比べて明らかに巨大化し、その周囲には赤黒いスパークが狂ったように弾け飛んでいた。

「ふふ……はははっ! 素晴らしい、実に素晴らしいデータだ!」

東郷はメインコンソールに本日の戦闘データを表示させ、恍惚とした表情でそれを撫でた。

ジンたちPM-ギア部隊は気づいていない。

なぜ、戦闘のたびに空間の亀裂が広がり、長引くようになっているのか。

それは決して自然現象などではない。東郷自身が、意図的に仕組んだことなのだ。

「ジン、君のPM-ギアを形成する粒子金属エネルギーは、向こう側の世界の『魔力脈』と完全に共鳴する周波数に調整してある。君たちが剣を振り下ろすたび、ヴォルフが重粒子弾を放つたび、シオンがスラスターを吹かすたび……その莫大なエネルギーが次元の境界で摩擦を生み、向こう側の魔力をこちら側へと引きずり込んでいるのだ」

東郷の計画は、あまりにも悪魔的で、完璧だった。

彼は「異空間予報システム」という名目で、あえて次元の壁が薄い場所を演算し、そこにPM-ギア部隊を送り込んでいた。

そして、怪物を殲滅させるために振るわれる最強の科学兵器の力そのものを、次元の穴をこじ開けるための「楔」として利用していたのである。

人類の平和を守るための戦いが、世界を破滅へと導く引き金を引く行為と同義になっていた。

ジンが家族を思って剣を握るほど、次元の崩壊は加速していく。

「地球の科学の結晶たる粒子金属と、異世界の未知なる魔力脈。二つの相反する巨大なエネルギーがこのまま引かれ合えば、やがて臨界点に達する。その時生じるのは、単なる怪物の出現などではない。空間そのものの対消滅だ」

東郷は両手を広げ、チャンバーの中で禍々しくうねる次元の狭間に向かって、まるでオーケストラを指揮するかのように指先を躍らせた。

「見えているぞ。すべての境界が溶け合い、愚かな人類と野蛮な異世界が、互いに食い合いながら無へと還っていくその瞬間が。私がこの手で、新しく、そして完全に静寂な宇宙を創り出すのだ!」

狂気の科学者の高笑いが、地下の密室に虚しく響き渡る。

コンソールの片隅。

未来の予測データを示す赤いランプが、もはや点滅ではなく、絶望的な赤い光を放ちながら常時点灯へと移行していた。

『次元崩壊予測:2039年初頭。発生地点:防衛軍最前線基地・直下』

平和の終焉は、すでに秒読み段階に入っていた。

見えない亀裂は、ジンが守ろうとする世界そのものを、足元から確実に食い破ろうとしていたのである。

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