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第8話:平和の象徴

2037年、冬。

防衛軍が指定する最高レベルの安全圏「第1居住区」には、透き通るような雪が静かに舞い降りていた。

最前線の基地から数百キロ離れたこの街には、硝煙の匂いも、怪物の鼓膜を裂くような咆哮も届かない。強固なエネルギーシールドと何重もの物理防壁に守られたこの場所は、人類が未確認生命体の脅威から逃れるために作り上げた、いわば巨大な揺り籠であった。

ジン・クロサワは、自動運転のターミナル列車を降り、見慣れた住宅街の舗道を歩いていた。

彼が身に纏っているのは、漆黒の特殊強化インナーでも、重厚なPM-ギアのベルトでもない。厚手のウールコートに、肌触りの良いマフラーという、どこにでもいる一般市民の冬の装いだ。

腰にあるはずの、数トンもの鋼鉄を圧縮したベルトの重みがない。そのあまりの身軽さに、ジンは自分が重力の違う別の惑星に降り立ったかのような、奇妙な浮遊感を覚えていた。

(平和だな……)

ジンは白く濁る吐息を漏らしながら、空を見上げた。

予報システムが稼働して以来、戦況は劇的に安定した。未確認生命体の出現を事前に察知し、無人のエリアで待ち伏せて殲滅する。その完璧なサイクルが確立されたことで、防衛軍の部隊にはローテーションで短い休暇が与えられるようになったのだ。

ジンにとって、実に半年ぶりとなる帰宅であった。

整然と並んだ住宅街の一角。見慣れた表札の前に立つと、ジンの胸の奥で、戦士としての冷徹な歯車がゆっくりと停止していくのがわかった。

インターホンのボタンを押す。

数秒の空白の後、スピーカー越しにパタパタという小さな足音が聞こえ、ガチャリとドアが開かれた。

「パパだ!!」

ドアが開くや否や、小さな弾丸のような塊がジンの足元に飛び込んできた。

五歳になる息子、リクである。

ジンは膝をつき、その小さな体をしっかりと抱き止めた。

「ただいま、リク。いい子にしてたか?」

「うん! ずっと待ってたんだよ! パパ、おっきくなったね!」

リクはジンの首に短い腕を回し、顔をすり寄せてくる。

ふわりと香る、子供特有の甘い石鹸の匂い。鋼鉄の装甲越しではない、体温という生の温もり。ジンは息子の背中を撫でながら、自分が確かに生きて帰ってきたのだという実感を、細胞の隅々まで染み渡らせていた。

「リク、パパは外から帰ってきたばかりで冷たいわよ。少し中に入れてあげなさい」

廊下の奥から、エプロン姿の妻、サエが穏やかな微笑みを浮かべて姿を現した。

彼女の顔を見た瞬間、ジンの肩から最後の緊張が抜け落ちた。

「ただいま、サエ」

「おかえりなさい、あなた。……怪我は、本当にないのね?」

サエはジンの顔から足元まで、確かめるように視線を巡らせた。ニュースでは連日、PM-ギア部隊の無傷の勝利が報じられているが、妻としては自分の目で見るまでは安心できないのだろう。

ジンは優しく頷き、立ち上がってサエの肩を抱いた。

「かすり傷一つないさ。東郷博士のシステムと、俺のギアがあれば、もう危険な目に遭うことはない」

「よかった……。さあ、上がって。ちょうどシチューができたところよ。あなたの好きな、少しスパイスを効かせたやつ」

「最高だ。基地の合成肉ステーキには、正直うんざりしていたところなんだ」

暖かなリビングに入ると、キッチンから食欲をそそる香りが漂ってきた。

テレビからは、民放のバラエティ番組の陽気な笑い声が流れている。テーブルには色とりどりのサラダと、湯気を立てるシチュー、そして焼きたてのパンが並べられていた。

夕食の席は、これ以上ないほど穏やかで、幸福な時間だった。

「それでね、パパ! 今日の幼稚園のお遊戯で、僕がPM-ギアの隊長役をやったんだよ! 手にこうやって、見えない剣を出して、ガオーッて怪物をやっつけるの!」

リクはスプーンを握りしめながら、身振り手振りで今日の出来事を語る。彼の頭の中では、テレビの向こう側で戦う防衛軍の姿は、完全にアニメのヒーローと同列になっているらしかった。

「そうか、リクは隊長なのか。じゃあ、立派な剣を出せるようにもっと野菜も食べないとな」

ジンが笑いながら言うと、リクは少し苦手なブロッコリーを大口を開けて頬張り、「えらいでしょ!」と胸を張った。

サエがそれを見てクスクスと笑う。

その光景を見つめながら、ジンはふと、自分があの無人の荒野で切り裂いた怪物たちのことを思い出した。

四つの赤い瞳。紫色の血。命を刈り取る瞬間の、骨を断つ微かな感触。

自分はその手に数え切れないほどの血を染み込ませ、殺戮を繰り返している。しかし、そのすべては、この食卓の笑顔を守るために必要なことなのだ。

(俺は間違っていない。この日常を守れるのなら、俺は喜んで鋼鉄の悪魔にでもなる)

夕食が終わり、はしゃぎ疲れたリクがベッドで眠りについた後。

リビングの照明を少し落とし、ジンとサエは二人だけでソファに腰を下ろしていた。

ローテーブルの上には、二つのマグカップからカモミールティーの香りが立ち上っている。

「本当に、平和になったのね」

サエがマグカップを両手で包み込むように持ちながら、静かに呟いた。

「一年前は、サイレンが鳴るたびに生きた心地がしなかった。あなたがどこかの街で、あの恐ろしい怪物と戦っていると思うと……夜も眠れなくて。でも今は、サイレンすら鳴らなくなったわ」

「ああ。予報システムが完成して、戦いのルールが根本から変わった」

ジンはソファの背もたれに身を預け、サエの肩を引き寄せた。

「怪物どもが空間の亀裂から顔を出した瞬間に、俺たちが待ち伏せて息の根を止める。奴らはもう、人間の街に指一本触れることはできない。……すべては東郷博士のおかげだ。あの人は、間違いなく人類の救世主だよ」

「ええ。テレビでも連日、博士の特集をやっているわ。でも……私にとってのヒーローは、いつだってあなたよ、ジン」

サエはジンの大きな右手をとり、自分の頬に押し当てた。

分厚く、タコだらけの無骨な手。PM-ギアの粒子金属を纏い、巨大なブレードで敵を両断する死神の手は、今、ガラス細工を扱うかのように優しく妻の頬を撫でていた。

「……サエ。聞いてくれ」

ジンは決意を込めた瞳で、サエを真っ直ぐに見つめた。

「軍の上層部は、あと一年もすれば、地球周辺の空間の歪みは完全に消滅するか、コントロール可能なレベルまで縮小すると予測している。未確認生命体の脅威は、根本から絶たれるんだ」

サエが驚いたように顔を上げる。

「それは……戦争が、終わるということ?」

「ああ。そして、完全に脅威が去ったその時、俺は軍を退役するつもりだ」

ジンははっきりと、力強い声で告げた。

「前線から身を引き、ギアも後進に譲る。そのあとは、軍の訓練教官になるか、あるいは完全に民間に降りてもいい。毎日リクと一緒に風呂に入って、君の作った飯を食う。そういう、普通の父親に戻るよ」

サエの瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。

彼女は言葉にならない声で頷き、ジンの胸に顔を埋めた。

「……ええ。……ええ、待ってる。ずっと、待ってるわ。だから……約束して。最後まで、絶対に無茶はしないで」

「約束する。何があっても、俺は必ず生きて、君たちの元へ帰る」

ジンはサエの背中を強く抱きしめ、その頭にそっと顎を乗せた。

静寂に包まれたリビングには、壁掛け時計の秒針の音と、二人の穏やかな寝息だけが響いていた。

翌日。

雲一つない冬晴れの空の下、ジンはリクを連れて居住区内の大きな公園へと出かけていた。

芝生は薄っすらと雪に覆われ、冷たい空気が肺を満たす。公園には他にも多くの親子連れが訪れており、子供たちの甲高い笑い声があちこちから聞こえていた。

「パパ、見て! 滑り台、一人で滑れるよ!」

「よし、行け! 怪我しないようにな!」

アスレチック遊具の上から手を振るリクに、ジンは笑顔で手を振り返した。

ベンチに腰を下ろし、温かい缶コーヒーを握りしめながら、ジンは周囲の景色をゆっくりと見渡した。

平和だ。

ここは、人類が失いかけた、最も尊く、最も美しい景色だ。

子供たちが走り回り、親たちがそれを笑顔で見守る。明日も同じ日が来ると誰もが信じている、当たり前の日常。

ヴォルフは力がすべてだと言い、シオンは正義を重んじる。それもいいだろう。彼らには彼らの戦う理由がある。

だが、ジン・クロサワの戦う理由は、この眼前に広がる景色そのものだった。

大義名分などいらない。世界を救うなどという大仰な目的もいらない。ただ、サエとリクが暮らすこの小さな世界を守り抜くこと。そのために必要な力ならば、俺はどんな過酷な運命でも背負ってやる。

「パパ! 次はブランコ押して!」

「ああ、今行くぞ」

駆け寄ってきたリクの頭を撫でながら、ジンは立ち上がった。

この手の中にある温もり。絶対に手放してはならない、俺の魂の形。

何があっても必ず生きて彼らの元へ帰るという、ジンの行動原理の核となる強靭な意志は、この穏やかな公園の陽だまりの中で、決して砕けることのないダイヤモンドのように完全に確立された。

たった三日間の短い休暇は、夢のように過ぎ去った。

四日目の早朝。ジンは再びウールコートを羽織り、小さなダッフルバッグを肩にかけた。

玄関先では、サエとリクが見送りに立っていた。

リクは少し寂しそうな顔をしていたが、泣きぐずることはしなかった。パパは世界を守る隊長なのだと、彼なりに理解し、我慢しているのだろう。

「パパ、次のお誕生日は、絶対に一緒にケーキ食べようね」

リクがジンのコートの裾をギュッと握りしめて言う。

「ああ、約束する。とびきり大きいケーキを買って帰るからな」

ジンはリクの目線に合わせてしゃがみ込み、その小さな頭を優しく撫でた。

そして立ち上がり、サエと視線を交わす。

言葉は必要なかった。ただ一度、深く頷き合うだけで、互いの思いは完全に通じ合っていた。

「行ってくる」

「気をつけてね、あなた。……いってらっしゃい」

ジンは背を向け、雪の残る舗道を踏み出した。

背後でドアが閉まる音が聞こえる。

駅へと向かう道すがら、ジンの表情は、家族に見せていた穏やかな父親の顔から、再び鋼鉄の装甲兵を束ねる冷徹な部隊長の顔へと切り替わっていった。

(次で終わらせる。すべての空間の歪みを塞ぎ、未確認生命体を完全に駆逐して、俺はこの日常に帰還する)

決意を胸に秘め、ジンは防衛軍のターミナル列車へと乗り込んだ。

車窓から遠ざかる安全圏の街並みを見つめながら、彼の心は完全に満たされ、迷いは何一つなかった。

しかし、運命とは常に残酷な形で牙を剥く。

ジンが絶対の平和を確信し、希望に満ちて基地へと帰還していたその裏側で。

防衛軍司令部の地下最深部では、東郷創一博士が仕掛けた「次元干渉システム」が臨界点を迎えようとしていた。

モニターに映し出された、地球の空間振動の波形。

それはもはや予報システムの想定をはるかに超え、取り返しのつかない巨大な「ブラックホール」の形成を静かに、そして確実に予告していた。

平和の象徴たるこの日常が、文字通り音を立てて崩れ去るまで、残された時間はあとわずかであった。

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