第10話:終わりの始まり
第10話:終わりの始まり
2039年、初頭。
新年を迎えた防衛軍の最高司令部基地は、これまでにない熱気と祝賀ムードに包まれていた。
地下の大規模なメインホールでは、数千人の兵士や士官、そして政府の高官たちが集まり、盛大な祝賀パーティーが開かれていた。天井からは色とりどりのレーザー照明が降り注ぎ、豪勢な料理の数々が長いテーブルに並べられている。誰もがグラスを片手に肩を抱き合い、声高らかに笑い合っていた。
無理もないことだった。東郷創一博士が開発した「異空間予報システム」が実稼働して約二年。この一年間、防衛軍は未確認生命体による民間人の犠牲者を「ゼロ」に抑え込んでいた。
予測された無人のエリアにPM-ギア部隊を配置し、敵が出現した瞬間に完封する。この戦術は完全にシステム化され、もはや未知の怪物たちは人類の脅威ではなく、単なる駆除対象の害獣へと成り下がっていた。軍の上層部は「空間の歪みそのものが収束傾向にある」という東郷博士の(偽りの)レポートを鵜呑みにし、事実上の勝利宣言を行ったのである。
祝賀の喧騒から少し離れた、PM-ギア特殊部隊の専用待機ラウンジ。
メインホールの騒ぎとは対照的に、ここには静かで穏やかな時間が流れていた。
「いやあ、ついに俺たちの戦争も終わりってわけだ。最高級のシャンパンが水みたいにタダで飲めるなんて、軍隊に入って初めていい思いをしたぜ」
ヴォルフ・シュナイダーが、高級なクリスタルグラスに注がれた黄金色の液体を一息に飲み干し、上機嫌に笑い声を上げた。彼の前にはすでに数本の空いたボトルが転がっている。
「飲みすぎよ、ヴォルフ。たとえ勝利宣言が出たとしても、私たちはいつ予報が来ても出撃できるように備えておく義務があるのよ」
シオン・ミカゲは呆れたようにため息をつきながらも、その表情には隠しきれない安堵と喜びが浮かんでいた。彼女の手元には、軍から支給された熱いハーブティーのカップが置かれている。
「でも……本当に、これで誰も傷つくことのない世界が来るのですね。私たちの力が、平和を守り抜いたんだわ」
「ああ、そうだな。お前たちの働きには、いくら感謝しても足りない」
ラウンジの奥のソファに深く腰を下ろしていたジン・クロサワが、二人の部下に温かい視線を向けた。
ジンは手元のパーソナルデバイスの画面を見つめていた。そこには、昨夜通信で会話した妻のサエと、今年で七歳になる息子のリクの笑顔が映っている。
「パパ、戦争が終わったら一緒に遊園地に行くんだよね」というリクの言葉が、ジンの胸の中で何度も温かく反響していた。
「隊長も、いよいよ退役の準備ですか?」
シオンが優しく微笑みながら尋ねる。
「ああ。上層部にはすでに打診している。最後の空間の歪みが消滅したのを確認でき次第、俺はこのギアを後進に譲るつもりだ。これからは、普通の父親としての時間を生きていくよ」
ジンがデバイスの画面を愛おしそうに撫でると、ヴォルフが豪快に笑った。
「隊長が最前線からいなくなるのは寂しいが、あんたには誰よりもその権利があるぜ。俺はもうしばらく軍に残って、この圧倒的な火力を楽しませてもらうとするさ」
三人の間に、疑いようのない平穏な空気が流れる。
これまでの過酷な戦い、流してきた血と汗。そのすべてが今日この日のためにあったのだと、彼らは確信していた。
人類の科学は未確認生命体に打ち勝ち、未来永劫の平和を手に入れたのだと。
しかし、その確信は、彼らの足元深くで蠢く狂気によって、すでに完全に包囲されていた。
防衛軍司令部の地下最深部。東郷創一のプライベート・ラボ。
上の階層で繰り広げられる祝賀の喧騒など一切届かない、冷たい静寂に包まれた隔壁の奥。エネルギー封じ込めチャンバーの前に立つ東郷の姿は、人類の救世主という仮面を完全に脱ぎ捨てた、狂気の神そのものであった。
チャンバーの中で蠢く「人造の空間亀裂」は、もはや亀裂という言葉では言い表せない状態になっていた。
それは直径数十メートルにまで膨れ上がり、赤黒い雷光を撒き散らしながら、チャンバーの強固な拘束を今にも食い破ろうと脈動している。まるで、向こう側の次元そのものが、この地球という果実を丸呑みにしようと巨大な顎を開いているかのようだった。
「素晴らしい……。私の計算通りだ」
東郷は目を大きく見開き、その絶望的な光景を恍惚とした表情で見つめていた。
「ジンたちがPM-ギアの粒子金属を酷使すればするほど、次元の摩擦は増大し、魔力脈との共鳴は加速した。今や、地球の空間そのものが向こう側の世界に引きずり込まれようとしている」
東郷はメインコンソールに向かい、地球全土を覆っていた「異空間予報システム」のメインプログラムにアクセスした。
軍部が完全に依存しきっているそのシステムに、彼はたった数行のコマンドを打ち込む。
『全警告機能の停止』
エンターキーが押された瞬間、司令部のモニタリングルームに表示されていたあらゆる空間異常の警告ランプが、強制的に緑色の「正常」へと固定された。
「勝利の美酒に酔いしれるがいい、無知なる人類よ。君たちが平和の頂点に立っていると錯覚したその瞬間こそが、最も美しい絶望の始まりとなる」
東郷は両腕を天高く掲げ、チャンバーの中の巨大な次元の穴に向かって叫んだ。
「さあ、境界を喰い破れ! すべての物理法則を破壊し、二つの世界を溶かし合わせろ! 私の創造する『無』の世界の産声となれ!!」
次の瞬間。
東郷の操作によってチャンバーのエネルギー拘束が完全に解除された。
抑え込まれていた莫大な次元干渉エネルギーが、臨界点を突破して爆発する。
その異変は、音よりも先に「感覚」として基地全体を襲った。
待機ラウンジでグラスを傾けていたヴォルフが、突如として激しい吐き気を催し、床に膝をついた。
「……ガハッ!? な、なんだこれは……急に視界が……」
「ヴォルフ!? どうしたの……きゃあっ!?」
シオンもまた、自分の体が斜めに傾いていくような強烈な空間識失調に襲われ、テーブルに手をついた。
ジンは瞬時に立ち上がろうとしたが、足元の大地そのものがゼリーのように波打っているのを感じて壁に背中を打ち付けた。地震ではない。重力のベクトルそのものが、デタラメな方向へと乱高下しているのだ。
直後、鼓膜を直接引き裂くような、聞いたこともない言語を絶する「破砕音」が基地全体に鳴り響いた。
ギィィィィンッッ!!
ラウンジの分厚い防弾ガラスが一斉に粉々に砕け散り、天井の照明が爆発して火花を散らす。
「隊長! これは一体……予報システムからの警告は何も出ていなかったはずです!」
シオンが耳を塞ぎながら絶叫する。
「わからない! だが、通常の空間異常じゃない。通信を繋げ!」
ジンが腕のコンソールを操作して司令部への回線を開く。
通信機の向こう側からは、先ほどまでの祝賀ムードとは打って変わった、阿鼻叫喚のパニックが聞こえてきた。
『なんだこの揺れは!』
『重力制御装置が働きません! 空間の座標データが……あり得ない! 基地の直下から、観測不能レベルの次元崩壊が発生しています!』
『予報システムはなぜ沈黙していたんだ! 東郷博士! 東郷博士を呼べ!!』
無線のノイズの奥から、東郷の悲痛な、しかしどこか底寒さを感じさせる声が割り込んできた。
『司令部、聞こえるか! だめだ、私のシステムでも予測不可能な事態だ! 地球の次元の壁そのものが、未知のエネルギーによって内側から食い破られている! この基地ごと、巨大なブラックホールに飲み込まれるぞ!』
東郷のその演技に満ちた言葉が、ジンの背筋に冷たい氷を走らせた。
基地ごと飲み込まれる。それはつまり、ここにいる数千人の人間が、逃げる間もなく次元の彼方へ消え去るということだ。
「サエ……リク……」
ジンの脳裏に、家族の笑顔がよぎる。自分が死ねば、誰が彼らを守るのか。こんなところで終わるわけにはいかない。
「ヴォルフ! シオン! 立て!!」
ジンの怒号が、混乱するラウンジの空気を切り裂いた。
「ただの地震じゃない、空間そのものが崩壊している! このまま生身でいれば、次元の圧力で肉体が消滅するぞ! 今すぐPM-ギアを展開しろ!」
「クソッ、ふざけんな! 平和になったんじゃなかったのかよ!」
ヴォルフが血を吐くような声で叫びながら、腰のベルトのコアを叩いた。
「起動シークエンス! 全パージ設定、防御装甲最大で展開!」
シオンもまた、涙目になりながらも必死にベルトを操作する。
三人のベルトから、銀色の粒子金属が滝のように溢れ出し、周囲の狂った重力に逆らうように彼らの肉体を包み込んでいく。
漆黒と銀の強固な装甲が形成されたその瞬間。
ドドドドドォォォォンッ!!!
防衛軍司令部を支えていた地下の岩盤が、完全に消滅した。
床が抜け落ちるなどという次元ではない。彼らが立っていた空間そのものが、根こそぎ「無」に向かって反転したのだ。
ジンの視界が、真っ白な閃光と、それに続く絶対的な漆黒に塗り潰された。
壁も、天井も、通信機から聞こえていた人々の悲鳴も、すべてがねじ曲がり、巨大な渦を巻いて一箇所へと吸い込まれていく。
巨大な防衛軍基地そのものが、まるで紙くずのようにくしゃくしゃに圧縮され、次元のブラックホールへと飲み込まれていく絶望的な光景。
「うおおおおおおっ!!」
「隊長ぉぉぉっ!!」
ヴォルフとシオンの絶叫が、通信回線越しに響く。
ジンは展開したPM-ギアの出力を最大にし、どうにか体勢を保とうとスラスターを吹かした。しかし、次元の奔流の前では、最新鋭の科学兵器の推力すら、濁流に落ちた木の葉のように無力であった。
(俺は……帰るんだ……! サエ、リク……!!)
装甲の内側でジンが牙を剥いて咆哮した直後。
抗いようのない圧倒的な次元の重圧が、三人の鋼鉄の装甲兵を完全に飲み込み、その意識を暗黒の底へと引きずり込んでいった。
2039年。
人類が完全なる平和を信じたその日。
防衛軍の心臓部たる最高司令部基地は、数千の人員と共に地球上から跡形もなく消失した。
それが、すべての終わりの始まりであり。
次元の境界を越えた、孤独で過酷な鋼鉄の戦記の、真の幕開けであった。




