第11話:境界の彼方の世界
絶対的な暗黒と、上下の感覚すら喪失する無重力の奔流。
それが、ジン・クロサワの意識に焼き付いている最後の記憶だった。
鼓膜を引き裂くような轟音と、全身の細胞がバラバラに分解されるような強烈な吐き気。どれほどの時間、その暗闇の中を落ちていたのかわからない。数秒だった気もするし、数百年が経過したような気もした。
やがて、その底なしの落下は唐突に終わりを告げた。
凄まじい衝撃が全身を貫き、呼吸が強制的に止まる。しかし、致命傷には至らなかった。ジンの肉体を覆う漆黒と銀の粒子金属、PM-ギアが、限界まで稼働して外部からの致死的な衝撃を完全に吸収していたからだ。
「……っ、あ……」
肺の奥から、絞り出すような咳が漏れた。
ジンはゆっくりと重い目蓋を開ける。
視界は真っ暗だった。いや、バイザーの機能がダウンしているのか。
ジンは意識を集中し、装甲の再起動シークエンスを念じた。
『システム・リブート。生命維持装置、正常。装甲定着率、89パーセント。……パイロットの覚醒を確認しました』
インカムから流れる無機質なAIの音声と共に、バイザーの視界に緑色のノイズが走り、やがてクリアな映像が結ばれた。
ジンはゆっくりと体を起こし、周囲を見渡した。
「……ここは、どこだ?」
そこは、防衛軍司令部の地下ラウンジでもなければ、見慣れた地球の風景でもなかった。
ジンの眼前に広がっていたのは、視界を覆い尽くすほどの鬱蒼とした密林だった。
ただの森ではない。生え揃う樹木はどれも全高数十メートルを超え、幹は鋼鉄のように黒光りしている。葉は毒々しい紫色や蛍光の青色を帯び、見たこともない巨大なシダ植物のようなものが足元を埋め尽くしていた。
大気には、腐葉土の匂いと、微かに甘ったるい、むせ返るような未知の香りが混じっている。
「司令部……応答しろ。こちらジン・クロサワ。次元崩壊に巻き込まれた。現在位置の特定を頼む」
ジンはインカムの周波数を合わせ、司令部への通信を試みた。
しかし、返ってくるのは鼓膜を撫でるような砂嵐のノイズだけだった。軍の暗号化回線はおろか、民間の一般電波や、GPSの衛星シグナルすら一切感知しない。
まるで、世界中のあらゆる電子ネットワークが、最初から存在していなかったかのような完全な沈黙。
ジンは状況の異常さを即座に悟り、立ち上がった。
PM-ギアの駆動系に異常はない。ベルトのコアは青い光を放ち、粒子金属は主の意志に完全に応答している。
(俺は生きている。ならば、やるべきことは一つだ)
ジンは思考をクリアにし、通信機の受信感度を極限まで引き上げた。
司令部が駄目なら、近くにいるはずの部下たちを探す。あの絶望的な次元の渦に飲み込まれる直前、ヴォルフとシオンもギアを展開していたはずだ。この装甲があれば、あの落下を生き延びている可能性は高い。
ノイズの海の中で、微弱な、本当に微弱な電子音の乱れをバイザーが捉えた。
PM-ギア同士が発する、近距離用のローカル波長だ。
「……シオン、ヴォルフ。聞こえるか。俺だ」
ジンが呼びかけると、ノイズの中から、荒い息遣いと、舌打ちの音が聞こえてきた。
『……っ! 隊長!? 無事だったんすね!』
ヴォルフの焦燥を含んだ声だった。
『隊長……! よかった……。こちらシオン、現在位置不明。周囲は見たこともない植物だらけです』
シオンの声には、隠しきれない不安が混じっていた。
「二人とも無事で何よりだ。現在、あらゆる広域通信がダウンしている。俺の座標をローカル波で送る、各自合流を急げ。未知の生態系だ、警戒を怠るな」
『了解!』
通信を切り、ジンは周囲の警戒を強めた。
足元の巨大なシダを掻き分けながら、合流地点へと歩を進める。
PM-ギアのセンサーが周囲の気温や湿度を計測していくが、どれも地球のどの気候帯とも一致しないデタラメな数値を示していた。重力も、地球よりわずかに重い感覚がある。
十数分後、木々の隙間から、青白いスラスターの光が見えた。
シオンだ。彼女は両腕に双剣を展開したまま、周囲を鋭く警戒し、木々の枝を飛び移るようにしてこちらへ向かってきていた。
「隊長!」
シオンがジンの姿を認めるなり、地面に降り立ち、安堵の表情で駆け寄ってきた。
「無事でよかったです。ここはいったい……防衛軍基地の直下で、次元崩壊が起きたんですよね? 私たちはその穴に落ちて、どこかの地底にでも飛ばされたんでしょうか」
「まだ断定はできない。だが、地底にしては生態系が異常すぎる」
ジンが周囲の巨大な植物を指差した。
そこへ、背後の茂みを強引になぎ倒しながら、巨体が姿を現した。
両腕に重機関砲を構えたヴォルフである。
「クソッ、なんだってんだこの気味が悪い森は。道すがら、見たこともない巨大な虫が飛んできやがったから、すり潰してやったぜ」
ヴォルフは肩で息をしながら、苛立たしげに周囲を睨みつけた。
部隊の三人が揃った。
ジンは少しだけ安堵の息を吐いたが、すぐに表情を引き締めた。
「状況を整理する。現在、我々は完全に孤立している。広域通信は全滅、位置情報もロストだ。まずは身の安全を確保しつつ、状況を把握できる高台を探す。それと……生存者の捜索だ。俺たちと同じように吹き飛ばされた基地の人間がいるかもしれない」
ジンがそう言った矢先、シオンのギアがピピッと警告音を鳴らした。
「隊長! 前方約五百メートルの地点に、巨大な質量の金属反応があります。……これは、防衛軍基地の建材データと一致します!」
「行くぞ!」
ジンを先頭に、三人は密林の中を疾走した。
巨大な木の根を飛び越え、視界を遮るツル草を高周波ブレードで切り払いながら進む。
やがて、木々が開けた少しばかりの広場に、それはあった。
「……ひどい有様だな」
ヴォルフが顔をしかめる。
そこにあったのは、防衛軍司令部の地下に設置されていた、あの待機ラウンジの残骸だった。
まるで巨大な手で無造作に引きちぎられたかのように、分厚いコンクリートの壁と鉄骨がひしゃげ、紫色の植物の群れの中に突き刺さっている。
内部は完全に破壊され、祝賀パーティーの華やかさなど微塵も残っていなかった。
「生存反応は……」
シオンがセンサーの出力を上げる。
「微弱ですが、一つあります! ラウンジの奥の隔壁付近です!」
三人は残骸の中に飛び込み、ひしゃげた鉄骨をギアのパワーで強引に退かしながら奥へと進んだ。
そこには、奇跡的に原形を留めていたシェルター状の隔壁の隙間で、白衣を血で汚し、倒れ込んでいる一人の男の姿があった。
「東郷博士!」
ジンが駆け寄り、瓦礫を吹き飛ばして博士の体を抱き起こす。
東郷は額から血を流し、苦しげに咳き込んでいたが、命に別状はないようだった。
「……ジ、ン……? 君たちか……おお、無事だったのだね……」
東郷は虚ろな目でジンたちを見上げ、震える手でジンの装甲に触れた。
「しっかりしてください、博士。ひどい怪我だ。シオン、応急処置キットを」
「はい!」
シオンが手早く東郷の傷の手当てをする中、ジンは重々しい口調で問いかけた。
「博士。いったい何が起きたんです。我々の基地は……世界はどうなったんですか」
東郷は痛みに顔を歪めながら、深い絶望を演じるように首を振った。
「私にも……予測できなかった。予報システムの観測網を完全にすり抜けて、地球の次元の壁が、内側から食い破られたんだ。おそらく、未確認生命体どもが意図的に空間の亀裂を暴走させたに違いない」
東郷は咳き込みながら、悲痛な声で続ける。
「基地の主要区画は、その次元の渦に飲み込まれた。私もちょうど、ラウンジの近くのシェルターに避難しようとしたところで、衝撃に吹き飛ばされて……。気づいたら、この瓦礫の中にいたのだ」
「次元の渦に飲み込まれた……じゃあ、ここはどこなんすか。地球の裏側ってわけじゃなさそうだぜ」
ヴォルフが周囲の異様な景色を指差す。
東郷はふらつく足取りでジンに支えられながら立ち上がり、木々の隙間から見える空を見上げた。
「……空間座標の連続性が完全に絶たれている。重力のベクトルも、大気の成分も、地球のそれとは微妙に異なっている。信じられないことだが……私たちは、次元の境界を超えてしまったのかもしれない」
「次元の境界を、超えた?」
シオンが息を呑む。
「つまり、地球ではない、別の世界……未確認生命体どもが元々棲んでいた、向こう側の次元に飛ばされたということだ」
東郷の言葉に、場を重い沈黙が支配した。
地球ではない。別の世界。
その言葉の持つ意味の重さが、三人の肩に重くのしかかる。
「……馬鹿な。じゃあなんだ、俺たちはもう元の世界には帰れないってのか!?」
ヴォルフが焦燥を爆発させ、近くの瓦礫を蹴り飛ばす。
「ふざけるな! 平和になったんじゃなかったのかよ! なんで俺たちが、こんな得体の知れないジャングルで遭難しなきゃならねえんだ!」
「落ち着け、ヴォルフ」
ジンが鋭く一喝する。
「パニックを起こしても状況は好転しない。ここがどこであろうと、俺たちが生き残るためにやるべきことは変わらないはずだ」
ジンは東郷を安全な場所へ座らせ、周囲の地形を見渡した。
「この森は鬱蒼としすぎている。まずは全体の位置関係と、この世界の構造を把握する必要がある。俺が上空へ出て、視界を確保してくる」
ジンは脚部のスラスターを最大出力に設定した。
「シオンとヴォルフは博士の護衛を頼む。すぐ戻る」
地を蹴り、ジンは一本の巨大な樹木の幹に張り付くようにして垂直に駆け上がった。
数十メートルの高さを、スラスターの推進力と粒子金属の爪で一気に登り切る。
やがて、視界を覆っていた紫色の葉の天蓋を突き抜け、ジンは樹海の頂上へと躍り出た。
「これは……」
ジンの視界に飛び込んできたのは、言葉を失うほどの圧倒的な光景だった。
眼下には、地平線の彼方まで続く、見渡す限りの広大な樹海。
そしてその先には、地球のどんな山脈よりも高く険しい、天を突くような巨大な岩山が連なっている。近代的な建造物や、人間の文明を感じさせる光はどこにもない。
完全に、人類の歴史が及ばない手付かずの大自然が広がっていた。
だが、ジンを最も絶望させたのは、大地ではなかった。
樹海を吹き抜ける風が、徐々に冷たさを増していく。
空はすでに夕闇を迎えようとしており、群青色から深い黒へとその色を変えつつあった。
その夜空に、ゆっくりと「それ」は姿を現した。
「……嘘だろ」
ジンの口から、無意識に乾いた声が漏れた。
夜空に浮かび上がったのは、見慣れた一つの月ではない。
巨大な、青白く冷たい光を放つ月。
そしてその隣に並ぶようにして浮かぶ、血のように赤く、一回り小さな月。
二つの月が、異世界の大地を不気味に照らし出していた。
地球の常識が、文字通り完全に崩れ去った瞬間だった。
自分がもはや、愛する家族が待つあの星にいないという事実を、これ以上ないほど残酷な形で突きつけられたのだ。
「隊長! そっちの状況はどうですか!?」
インカムから、下で待つシオンの切羽詰まった声が聞こえる。
ジンはインナーの胸ポケット越しに、サエとリクの写真が入っている場所をギュッと握り締めた。
手が震えているのがわかる。
平和な日常に帰るはずだった。もう二度と、血を流す必要はないはずだったのだ。
あの食卓に。あの公園に。あの笑顔の元に、俺は帰らなければならない。
(俺は……どんな地獄からでも、必ず帰る)
ジンはゆっくりと深く息を吸い込み、冷たい異世界の空気を肺の奥底まで満たした。
そして、部下たちを安心させるように、努めて平坦で、力強い声を作り出す。
「……最悪の景色だ。だが、絶望するほどじゃない。……ここからが、俺たちの本当のサバイバルの始まりだ」
二つの月が冷たく輝く空の下。
鋼鉄の装甲兵たちの、地球への帰還を懸けた果てしない戦いの幕が、今静かに切って落とされた。




