第78話:三つの道、それぞれの決断
エルドラのくすんだ赤い空の中空に、ぽっかりと浮かぶ青白い円環。
狂気の科学者、東郷創一が最後に遺した真実の数式によって開かれたそのゲートは、先ほどまでの次元崩壊の嵐が嘘であったかのように、静かに、そして穏やかな光を放っていた。
特異点のような周囲を吸い込む暴力的な引力はない。ただ、空間の座標を極限の調和をもって繋ぎ合わせた、平和のための架け橋。
青白い光の向こう側からは、エルドラの硝煙と血の匂いを洗い流すように、地球の都市部に降る冷たい雨の匂いが、ひんやりとした風と共に流れ込んできていた。
コンクリートとアスファルトが濡れる、懐かしい故郷の匂いだった。
クレーターの底、融解したゼロギアの残骸の傍らで、泥と血にまみれた三人の戦士が、その光を見上げていた。
「……信じられねえな。本当に、地球に繋がってやがる」
ヴォルフ・シュナイダーが、大破したPM-ギアの装甲の残骸を引きずりながら、ゲートから吹き込む風を顔に受けて呟いた。
「ええ。東郷博士が、最後に私たちのために残してくれた、奇跡の扉……」
シオン・ミカゲもまた、折れた槍を杖代わりにして立ち、その青白い光の美しさに目を奪われていた。
ジン・クロサワは、インナースーツ一枚の姿で、無言のままゲートを見つめていた。
九十日間。
この地獄のような異世界で、怪物の返り血を浴び、絶望に心を削られながらも、ただひたすらに求め続けた帰還の道が、今、彼の手の届く場所にある。
この光の向こう側に行けば、サエがいる。リクがいる。
「絶対、生きて帰ってきてね」と泣いて笑った妻と、「ずっと待ってるからね」と抱きついてきた息子の温もりが、すぐそこにあるのだ。
ジンの胸の奥で、泥に汚れた家族の写真が、早く帰ってこいと呼んでいるように熱を放っていた。
だが、ジンはすぐにゲートへと飛び込むことはしなかった。
彼はゆっくりと振り返り、共にこの絶望的な死線を潜り抜けた二人の仲間、ヴォルフとシオンに向き直った。
東郷が最後に遺したこのゲートが、いつまで空間の調和を保ち、開かれ続けているかは誰にもわからない。数時間後か、数分後か、あるいは数秒後に閉じてしまうかもしれない。
だからこそ、今この瞬間が、彼らに残された最後の決断の時であった。
「……さて。時間がねえ。最後の確認をするぞ、お前ら」
ジンの声は、かつて地球の防衛軍で部隊を率いていた時のように、冷静で、しかしどこまでも深い信頼と情愛に満ちた響きを持っていた。
「地球への道は開かれた。俺は、俺の家族が待つあの世界へ帰る。……お前たちは、どうする。共に帰還するか、それとも、このエルドラに残るか」
その問いかけに対し、クレーターの底には、しばらくの間、風の音だけが静かに流れた。
かつて地球にいた頃の彼らであれば、一秒の躊躇いもなく帰還を選んだだろう。
防衛軍の副隊長と、次世代のエース。彼らの居場所は地球にしかなく、この見知らぬ異世界は、ただ生き残るために戦うだけの地獄でしかなかったはずだ。
だが、この九十日間という時間は、彼らの魂の形を根本から作り変えてしまっていた。
最初に口を開いたのは、ヴォルフであった。
「……悪いな、隊長。俺は、ここでお別れだ」
ヴォルフは、ゆっくりと首を横に振り、不敵な笑みを浮かべた。
彼の視線の先には、ゲートではなく、はるか後方のクレーターの縁、ガルディア帝国の本陣跡地があった。
そこには今、黄金の光の結晶に包まれ、極限の仮死状態で眠りについた皇帝ルーファスと宰相レオンがいるはずだった。
「地球にいた頃の俺は、ただの嫉妬深い負け犬だった。お前の背中ばかりを追いかけて、どうしても追いつけなくて、自分の弱さを認めるのが怖くて吠え散らかしているだけの、ただの馬鹿犬だったよ」
ヴォルフは、自らの血に染まった手をじっと見つめた。
「だが、このエルドラに来て、帝国という国に出会った。あいつらは、こんなひねくれた俺を『黒騎士』として迎え入れてくれた。ルーファスもレオンも、地球の軍の偉い奴らみたいに、安全な場所から理屈をこねるだけの連中じゃなかった。力こそがすべてだと笑い、自分の力で這い上がろうとする奴には、身分も種族も関係なく酒を酌み交わしてくれた」
ヴォルフの脳裏に、帝国の酒場でレオンと肩を組み、馬鹿話で笑い合った夜の記憶が蘇る。そして、己の信念を貫き、常に最前線で圧倒的な覇道を示し続けた若き皇帝の誇り高き背中が。
「あいつらは、俺たち地球人のために、自分の命を限界まで削って炎の道を切り開いてくれた。自分たちの国の未来を、この俺に完全に託して、笑って倒れやがったんだ。……あんなものを見せられて、俺だけ尻尾を巻いて地球に逃げ帰れるわけがねえだろうが」
ヴォルフは、大地に突き立てたファフニールの残骸を力強く握り締め、ジンを真っ直ぐに見据えた。
「俺の居場所は、もう地球にはねえ。俺の帰る場所は、あの馬鹿二人が眠っているガルディア帝国だ。あいつらが目を覚ました時、俺がいなかったら誰が帝国を立て直すんだ。俺は、あいつらと一緒に、誰も見下されない、本当の意味で強い国を創り上げてやる。それが、俺に強さの本当の意味を教えてくれたあいつらへの、俺なりの落とし前だ」
ヴォルフの言葉には、かつてジンに抱いていた劣等感や焦燥感は微塵もなかった。
そこにいるのは、己の意志で自らの覇道を見出し、友のために命を懸けることを決意した、真の強者としての威厳に満ちた男の顔であった。
ジンは、そのヴォルフの顔を見て、短く鼻で笑った。
「……そうか。生意気な口を叩くようになったじゃねえか、万年二番手のくせに」
「ハッ、俺はもう誰の二番手でもねえよ。俺は、帝国の黒騎士、ヴォルフ・シュナイダーだからな」
二人の間に交わされたのは、言葉の応酬という名の、究極の信頼の証であった。
ジンは深く頷き、次にもう一人の部下へと視線を移した。
シオン・ミカゲは、ヴォルフの決意の言葉を静かに聞いていた。彼女の瞳からは大粒の涙が溢れ出していたが、その表情は驚くほど晴れやかで、そして美しかった。
「隊長。……私も、この世界に残ります」
シオンの視線の先には、ルミナス王国の本陣跡地で、同じように黄金のクリスタルとなって眠りについたルカとエリアーナの姿があった。
「地球にいた頃の私は、ルールとマニュアルに縛られた、ただの操り人形でした。完璧な優等生であることを求められ、自分の本当の心に蓋をして、与えられた正義の枠の中でしか生きることができなかった。……でも、この世界が、私に本当の自由を教えてくれたんです」
シオンは、両手で自分の胸をぎゅっと握りしめた。そこには、ルカから与えられた温かい愛情と、エリアーナから託された気高き祈りが、今も確かに息づいている。
「ルカ様は、平民も貴族も関係なく、誰もが自分の意志で笑い合える国を創りたいと、私に夢を語ってくれました。エリアーナ殿下は、ご自身の命を削ってまで、私たちが未来を生きるための光の盾となってくださいました。彼らが愛し、彼らが命を懸けて守ろうとしたこの世界を、私は決して見捨てることはできません」
シオンの脳裏に、下層区の子供たちと笑い合うルカの優しい横顔が浮かぶ。そして、見えない鎖に縛られながらも、決して民への愛を忘れなかったエリアーナの悲しくも美しい微笑みが。
「私は、地球の防衛軍のエースでもなければ、王国の賢者たちに操られる偽りの聖騎士でもありません。私は、ルカ様と共に歩み、殿下の祈りを受け継ぐ、一人の人間です。……ルカ様が目を覚ました時、彼が愛したこの世界が絶望に包まれていたら、彼はきっとまた一人で泣いてしまう。だから、私がこの手で、彼が安心して笑える世界を創っておきたいんです」
シオンは、涙を拭うこともせず、誇り高く胸を張り、ジンに深く頭を下げた。
「隊長とヴォルフ副隊長には、本当にたくさんのことを教えていただきました。泥水の中で立ち上がる強さも、仲間の背中を信じる心も。あなたたちがいなければ、私はきっと、自分自身の心と向き合うことすらできなかった。……今まで本当に、ありがとうございました。私は、私の信じる愛と正義のために、このエルドラで生きていきます」
彼女の決断は、かつての迷い多き少女のものではなかった。
自らの足で立ち、自らの意志で愛するものを守り抜くと誓った、ルミナス王国における真の聖騎士としての、絶対的な誓いの言葉であった。
ジンは、二人の部下たちの言葉を、ただ静かに、すべてを受け止めるように聞いていた。
防衛軍の隊長として、部下たちを地球へ無事に連れ帰るのが自分の責任だと思っていた。彼らをこの危険な異世界に置き去りにするなど、本来であれば絶対に許されないことだ。
だが、彼らの顔を見た時、ジンは悟ったのだ。
彼らはもう、自分が守ってやらなければならない未熟な部下ではない。
彼らはこの過酷な異世界で、自分自身の魂と向き合い、血を流し、そして、自分たちが本当に命を懸けて守りたいと思える「大切なもの」を、見つけ出したのだ。
それは、ジンにとってのサエとリクと同じように、彼らにとっての絶対的な世界の中心。
その想いを否定し、無理やり地球へ連れ帰ることなど、誰にもできはしない。
ジンは、ゆっくりと歩み寄り、ヴォルフの肩を力強く殴るように叩いた。
「……立派な国を創れよ、ヴォルフ。お前が皇帝になってもいいんだぞ」
「冗談じゃねえ。俺は柄じゃねえよ。俺はあのルーファスって馬鹿な王様を、隣でどつき回しながら支えるのが性に合ってるんだ」
ヴォルフは、痛む肩を押さえながら、最高に嬉しそうな、そして少しだけ寂しそうな笑顔を見せた。
ジンは次に、シオンの頭にポンと無骨な手を置いた。
「幸せになれよ、シオン。お前はもう、誰よりも立派な戦士だ。胸を張って、その男の隣を歩いていけ」
「……はいっ。隊長も、どうか奥様とリク君に、よろしくお伝えください。あなたが、世界で一番かっこいいお父さんだったと、私が保証しますから」
シオンは、子供のようにしゃくりあげながら、ジンの手に自分の手を重ねた。
冷たい風が吹き抜けるクレーターの底。
地球の軍の階級も、異世界の称号も、もう彼らの間には存在しない。
ただ、同じ死線を潜り抜け、互いの魂を深く理解し合った三人の人間としての、絶対的な絆だけがそこにあった。
青白く輝くゲートが、少しだけその光を瞬かせた。
東郷の残留思念が維持している空間の調和が、限界に近づきつつあることを示していた。
「……行くか」
ジンが、ゲートの方へと振り返る。
「ああ。とっとと帰りやがれ、隊長。家族をこれ以上待たせるもんじゃねえぞ」
ヴォルフが、背中越しに手を振る。
「どうか、お気をつけて。私たちの出会いは、絶対に無駄ではありませんでした」
シオンが、深く祈りを捧げるように両手を組む。
三つの道。
異世界エルドラに飲み込まれた三人の戦士たちは、それぞれの絶望を乗り越え、それぞれの愛と誇りを見出し、ついに別々の未来へと歩み出そうとしていた。
帝国を再建し、真の強さを探求する覇道。
王国を浄化し、誰もが自由に笑える世界を創る慈愛の道。
そして、愛する家族の待つ故郷へと帰還する、父親としての道。
どれが正解というわけではない。
彼らが自分自身の意志で選び取ったその道こそが、彼らにとっての唯一の真理であった。




