第77話:閉ざされた扉と神の残響
狂気の残滓が、風に吹かれて消えていく。
エルドラの大戦場を吹き荒れていた次元崩壊の嵐が嘘のように凪ぎ、世界を削り取っていた凄まじい轟音は、不気味なほどの静寂へと変わっていった。
真っ二つに両断された全高十メートルの巨大な魔王、PM-ゼロギアの残骸は、内部で暴走したエネルギーによって完全に融解し、赤茶けたクレーターの底で黒いガラス質の染みとなって固まりつつある。
ジン・クロサワは、泥にまみれたインナースーツのまま、ゆっくりと空を見上げた。
上空を覆い尽くし、すべてを吸い込んでいた漆黒の特異点。地球とエルドラの二つの世界を繋ぎ、同時に滅ぼそうとしていたブラックホールは、そのエネルギー供給源であったゼロギアの破壊により、急速に収縮を始めていた。
事象の地平が渦を巻きながら小さくなり、光を歪めていた重力場が解けていく。
数分前まで、世界の終わりを告げる絶望の象徴であったそれは、見る見るうちにただの黒い点へと縮み、やがて、シュンッという微かな音と共に、空間から完全に消滅した。
後に残されたのは、エルドラ特有の、どこかくすんだような赤い空と、ゆっくりと流れる灰色の雲だけであった。
世界は、崩壊の危機から救われた。
ガルディア帝国の兵士たちも、ルミナス王国の民たちも、これ以上あの暗黒に吸い込まれることはない。大地はこれ以上の崩壊を免れ、星は確かな命脈を保ったのだ。
だが。
「……あ、あぁ……」
ジンの口から、言葉にならない、掠れた音が漏れた。
彼の視線は、ブラックホールが消滅した虚空の一点に、完全に釘付けになっていた。
ブラックホールが消滅したということは。
特異点という、次元の壁を無理やりこじ開けていた巨大な『穴』が塞がったということは。
「嘘だろ……。おい、嘘だって言ってくれよ……」
後方で、血だらけになって立ち尽くしていたヴォルフ・シュナイダーが、絶望に満ちた声を絞り出した。
「そんな……ゲートが……地球への道が……」
シオン・ミカゲが、折れた槍を取り落とし、両手で口を覆った。
地球へと通じる唯一の扉が、完全に閉ざされてしまったのだ。
ジンの足から、唐突にすべての力が抜け落ちた。
ドサリと、彼は泥だらけの大地へと膝をついた。
全身の骨が砕け、筋肉が千切れるような激痛が彼を襲っていたはずだが、今のジンには、そんな肉体的な苦痛など全く感じられなかった。
それよりも遥かに冷たく、重く、真っ暗な虚無感が、彼の心臓を鷲掴みにし、魂の奥底までを凍りつかせていた。
「サエ……リク……」
泥に汚れた手で、胸の奥にしまい込んでいた一枚の写真を取り出す。
血と泥にまみれ、折り目がつき、ボロボロになった家族の写真。
この九十日間、彼が地獄のような異世界を生き抜くための、たった一つの命綱だった。
地球に帰る。
家族の元へ帰る。
ただそれだけのために、彼は己の人間性を擦り減らし、怪物の返り血を浴び、孤独な戦いを続けてきた。
眠れない夜、痛みに意識が飛びそうになる時、彼を現実に繋ぎ止めていたのは、写真の中で笑う妻と息子の姿だけだった。
「絶対、生きて帰ってきてね」
「パパ、ずっと待ってるからね」
あの日の朝に交わした約束。それが、彼にとっての世界のすべてだった。
そのすべてを懸けて、狂気の魔王に立ち向かった。
己のエゴが世界を滅ぼす引き金になったという絶望を乗り越え、仲間の命を背負い、最後の一撃を振り抜いた。
勝った。世界を救った。
だが、その代償として、彼が最も欲しかった「帰還」という報酬は、永遠に失われてしまった。
こんな結末があるか。
俺は、何のために戦ってきた。
何のために、あんなにも多くの血を流してきた。
世界を救うため? エルドラの平和のため?
違う。俺はそんな立派な人間じゃない。ただの、一人の父親だ。家族の元へ帰りたいと願うだけの、ちっぽけな男だ。
ジンの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。
それは、どれほどの激痛にも、どれほどの絶望にも決して涙を見せなかった鋼の戦士が流した、初めての慟哭だった。
泥水の中に顔を伏せ、肩を震わせるジン。
彼の周囲には、もはや何の希望も残されていなかった。
仲間たちは生き残った。世界も存続した。だが、ジン・クロサワという人間の魂は、この瞬間、完全に死を迎えてしまったのだ。
どんな強靭な意志も、目的を失えばただの空虚な抜け殻に過ぎない。
冷たいエルドラの風が、絶望に沈む彼の背中を無慈悲に撫でていく。
もはや、立ち上がる理由はどこにもなかった。
その時だった。
『……泣くな、ジン君』
風の音に混じって。
いや、風の音ではなく、ジンの脳裏に直接響き渡るように。
静かで、穏やかで、どこか懐かしさすら感じさせる声が、クレーターの底に響いた。
ジンはハッと顔を上げた。
ヴォルフも、シオンも、驚愕に目を見開いて周囲を見渡している。
幻聴ではない。三人の意識の底に、その声は確かに届いていた。
『君に、君たちにそんな顔をされてしまっては……私が最後に下した決断が、ひどく惨めなものになってしまうじゃないか』
それは、東郷創一の声だった。
だが、あの狂気に満ちた次元の魔王の声ではない。他者を見下し、怨念に塗れた傲慢な響きは微塵もなかった。
それはかつて、地球の防衛軍の指令室で、彼らに的確なアドバイスを送り、頼れるオペレーターとしてジンたちを支えてくれていた、あの『東郷博士』の、知的で穏やかな声そのものであった。
「東郷……。お前、死んだはずじゃ……」
ジンが、掠れた声で虚空に向かって問いかける。
『ええ。私の肉体も、ゼロギアというシステムも、君の刃によって完全に消滅しました。今君たちに聞こえているのは、大地の魔力脈に溶け込む直前の、私の意識のほんの僅かな残響に過ぎません』
クレーターの中心、ゼロギアが融解した黒いガラス質の染みの上空に、淡く、儚い光の粒子が一つ、ホタルように浮かび上がっていた。
それは、エルドラの魔力とは違う、東郷創一という人間の魂の最後の輝きだった。
『君のムラサメが、私の心臓であるクリスタルを両断したあの刹那。君たちの放つ圧倒的な意志の光が、私の脳髄を焼き尽くし……そして、ずっと昔に忘れていた一つの記憶を、私に思い出させてくれたのです』
光の粒子が、明滅しながらゆっくりと言葉を紡ぐ。
『私は、学会から追放され、家族から拒絶されたことで、世界を恨みました。私を理解しない人間どもなど、すべて消えてしまえばいいと。次元を崩壊させる数式を組み上げ、このエルドラの大地と兵士たちの命を養分にして、神になろうとした』
東郷の声には、深い後悔と、静かな自嘲が含まれていた。
『でも、違ったのです。私が若き日に、次元干渉理論を提唱した本当の理由。それは、世界を壊すためなんかじゃなかった。私はただ、世界を繋ぎたかった。エネルギーの枯渇で争い合う地球の人々を救い、誰もが豊かに、笑い合える未来を創りたかった。私は、人間を愛していた。人間が持つ、温かい繋がりというものを、誰よりも信じたかったのです』
光の粒子が、ジンの目の前へと静かに降りてきた。
『君たちは、私に見せてくれましたね。絶望の泥水の中で這いつくばりながらも、決して互いの手を離さず、背中を預け合うその強さを。私が最も欲しくて、どうしても手に入れられなかった、人間と人間との絶対的な繋がりを。……ジン君。君の家族への愛がブラックホールを育てたのだと、私は君を呪いました。だが、それは私の計算の最大の誤りだった』
東郷の残響が、優しく、包み込むようにジンに語りかける。
『誰かを愛し、誰かのために帰りたいと願うその想いこそが、世界を崩壊させるのではなく、世界を繋ぎ止めるための、最も強靭な引力だったのです。君の……いや、君たちの想いは、確かに私に届きました』
ジンは、目の前で揺らめく光の粒子を、ただ黙って見つめていた。
狂気に囚われ、世界を滅ぼそうとした大罪人。
だが、その狂気の根源にあったのは、誰よりも世界を救いたかったという純粋な願いと、ただ誰かに理解してほしかったという、あまりにも人間らしい孤独だったのだ。
『私の罪は、決して許されるものではないでしょう。帝国と王国の多くの命を奪い、この世界を修復不可能なまでに傷つけた。……ですが、最後に一つだけ。私が本当に辿り着きたかった、真理の数式を、君たちに贈りましょう』
淡い光の粒子が、スッと上空へと昇っていった。
そして、ブラックホールが消滅した、まさにその空間の座標の中心へと溶け込んでいく。
『これは、次元を強引に破壊する暴力ではありません。二つの異なる空間を、極限の調和をもって結びつける、平和のための架け橋。私が、君たちのような強くて優しい人間たちのために、本当に創りたかったもの』
空間に溶け込んだ光の粒子が、波紋のように広がっていく。
東郷創一が、その生涯のすべてを懸け、狂気の果てにようやく取り戻した、真実の答え。
『帰りなさい、ジン君。君の帰りを、ずっと待っている人たちの元へ』
シュウゥゥゥゥゥン……。
静かな、本当に静かな風切り音と共に。
エルドラのくすんだ赤い空の真ん中に、一つの小さな点が生まれた。
それは、周囲の物質を吸い込むような暴力的な特異点ではない。空間そのものが、まるで静かな水面に一滴の雫が落ちたように、柔らかく、優しく開いていく。
黒でもなく、赤でもない。
それは、澄み切った、青白い光であった。
地球の、夏の終わりの高い空を思わせる、美しく透き通った青と白のグラデーション。
直径数メートルほどのその円形のゲートは、周囲の物理法則を一切乱すことなく、大戦場の空に静かに、そして確かな存在感を持って開かれていた。
ゲートの向こう側から、微かに、冷たい雨の匂いがした。
硝煙でもなく、魔獣の血の匂いでもない。
コンクリートのアスファルトを濡らす、地球の、都市部の雨の匂い。
「ゲート……」
ヴォルフが、信じられないものを見るように目を見開いた。
「真実の、扉……東郷博士が、最後に……」
シオンが、胸の前で手を組み、祈るようにその青白い光を見上げた。
ジンは、泥だらけの顔を上げ、空に開かれたその青白い扉を真っ直ぐに見つめていた。
彼の目から、再び涙が溢れ出した。
だが、それは先ほどの絶望の涙ではない。
失われたはずの希望が、最も思いがけない形で、最も憎んだはずの敵の手によってもたらされたことへの、言葉にならない感情の奔流であった。
「……ああ。確かに受け取ったぜ、東郷」
ジンは、ゆっくりと、己の両足に力を込めた。
全身の骨が軋み、激痛が走るが、もはやそれは彼を地に縛り付ける鎖ではなかった。
インナースーツの胸の奥で、家族の写真が、再び確かな温もりを取り戻している。
狂気の科学者が最後に遺した、真の救済。
それは、世界を滅ぼすための悪魔の数式ではなく、一人の父親を家族の元へ帰すための、ただの優しい魔法だった。
ジン・クロサワは、大地の泥を振り払い、力強く立ち上がった。
振り返れば、傷だらけのヴォルフとシオンが、彼と同じように青白いゲートを見上げている。
絶望のどん底から、奇跡の光によって再び繋がれた未来への道。
残された時間は、多くはないだろう。
次元の調和を保ったまま開かれたこの真のゲートが、いつまで維持されるかは誰にもわからない。
エルドラと地球。二つの世界を隔てる境界線を前にして、彼らは今、最後の決断の時を迎えようとしていた。




