第76話:一撃で終わらせる
エルドラの大地を深く抉り取ったすり鉢状のクレーターの底。上空に口を開けた漆黒の特異点が、物理法則を根底から狂わせ、砕け散った数千トンもの岩盤や泥水が、無重力空間のように宙をゆっくりと漂っていた。
光すらも真っ直ぐに進むことを許されない、すべてが歪み、すべてが崩壊していく絶対的な終焉の空間。
その絶望の混沌の中心に、たった一本の、真っ直ぐで汚れのない道が開かれていた。
それは、ガルディア帝国を統べる皇帝と宰相が命を削って創り出した炎の軌跡であり、ルミナス王国の聖王女と賢者が祈りを込めて展開した黄金の防壁の残滓であり、そして何より、地球防衛軍の戦友であるヴォルフ・シュナイダーとシオン・ミカゲが、己の装甲と生命力をすべて犠牲にして切り開いた、希望への道であった。
狂気の科学者、東郷創一が操る全高十メートルの魔王、PM-ゼロギア。その強固な次元防御はヴォルフの極大プラズマによって叩き割られ、空間制御のスタビライザーはシオンの光の槍によって破壊された。
大きく右側へと体勢を崩し、決定的な急所である胸部の巨大な赤いクリスタルを完全に無防備に晒した巨神。
その神の心臓へと向けて、一本の道を通って飛翔する一筋の純白の閃光があった。
ジン・クロサワ。
彼の纏う天使の光輪と悪魔の漆黒が融合した異形の装甲は、防御システムである第一から第五までの防壁を完全にパージし、機体を覆っていたすべての粒子エネルギーを右手に握られた一本の太刀へと収束させていた。
純白の光を放つ巨大な日本刀、ムラサメ。
それはもはや物理的な金属の刃ではなかった。ジンという一人の人間の帰還への執念と、彼を信じ、命を預けてくれたすべての仲間たちの熱き想いが、極限まで圧縮された魂の結晶であった。
「リミッター解除。……顕現せよ、ムラサメ」
ジンの静かで、しかし絶対的な決意を込めた起動コマンドが、空間の歪みを切り裂いて響き渡る。
虚空を強く踏み砕き、ジンは音速を遥かに超える速度でゼロギアの懐深くへと潜り込んだ。
彼の視界は極限まで研ぎ澄まされ、周囲で荒れ狂う次元崩壊の嵐も、空に浮かぶ岩盤も、すべてが完全に静止したかのように感じられていた。
ただ一つ、彼が捉えているのは、目の前に迫る巨大な赤いクリスタルの中心点のみ。
「やめろ、やめろおおおおおおおおっ」
ゼロギアの内部、生体ケーブルを通じて機体と完全に融合している東郷の脳髄に、かつて経験したことのない根源的な恐怖が突き刺さった。
私は神だ。この忌まわしい世界を、私を拒絶した人間たちを、すべて無に還して新たな真理を創造する絶対者だ。それがなぜ、たかが一人の人間に、ただの羽虫に過ぎない存在に、ここまで追い詰められなければならないのだ。
東郷の狂気が、ゼロギアの残されたすべての次元エネルギーを胸部のクリスタルへと強引に集束させる。
迎撃など間に合わない。回避も不可能。ならば、相打ち覚悟でこの空間そのものを爆発させ、ジン・クロサワを原子のレベルまで消し去るしかない。
「私を否定するな。私を置いていくな。私ごと、すべて永遠の暗黒へ沈めええええええええっ」
赤いクリスタルの内側で、無数の怨霊が渦を巻くように赤黒い瘴気が沸騰し、ジンを飲み込もうと極大の破壊光線として噴出しかけた。
だが、遅かった。
東郷の狂気よりも、次元の崩壊よりも、ジン・クロサワの振り抜く刃の方が、ほんの刹那、速かったのである。
「一撃で……終わらせるっ」
ジンの烈帛の気合と共に、純白のムラサメが、ゼロギアの胸部に輝く赤いクリスタルへと真っ向から振り下ろされた。
ズバァァァァァァァァァァァァァァァンッ。
接触した瞬間、世界からすべての音が消失した。
ムラサメの純白の刃が、いかなる物理干渉をも受け付けないはずのエルドラの魔力結晶の表面に触れ、何の抵抗もなく、まるで水面を滑るように滑らかに沈み込んでいく。
刃が放つ極限の高熱と青白いプラズマが、クリスタル内部で沸騰していた赤黒い瘴気を瞬時に浄化し、蒸発させていく。
絶対的な魔力と科学の融合の結晶であった神の心臓が、ただの人間の執念によって構成された一本の太刀の前に、音もなく両断されていく。
「ア……アアアアア……」
クリスタルが真っ二つに切り裂かれていくそのコンマ一秒の永遠の中で、機体と同化していた東郷の精神に、凄まじい光の奔流が流れ込んだ。
それは、ジンのムラサメが放つ物理的な光ではない。ジンの刃に込められていた、無数の命の熱量。
ヴォルフの泥臭い誇り、シオンの真っ直ぐな祈り、ルーファスとレオンの覇道、エリアーナとルカの自己犠牲、そして、ジンが何よりも愛し、必ず帰ると誓った家族の温もり。
圧倒的なまでの「人間の絆」の熱が、冷え切っていた東郷の狂気を内側から溶かしていく。
その絶対的な光の中で、東郷の脳裏に、かつての自分が忘れ去ろうとしていた、ある記憶がフラッシュバックした。
若き日。彼が純粋に、次元干渉による無限エネルギー理論を提唱したあの頃。
なぜ、彼はあんなにも必死になって研究に没頭していたのか。
自分を認めさせるためだろうか。名声を得るためだろうか。
違う。
化石燃料が枯渇し、争いが絶えない地球で、苦しむ人々を救いたかったのだ。貧困をなくし、誰もが豊かに笑い合える世界を創りたかったのだ。
彼が一番信じたかったのは、その数式がもたらすであろう「人間の幸せな未来」だったはずだ。
だが、彼は学会で拒絶され、家族に見捨てられたことで、その一番信じたかったものを自らの手で握り潰してしまった。
人間は醜い。人間は愚かだ。誰も私を理解しない。だから、世界ごと壊してしまえばいい。
そうやって絶望の殻に閉じこもり、他者を見下すことでしか自らの自我を保てなくなっていた。
けれど、今、目の前で私の心臓を切り裂いているこの男たちはどうだ。
泥水をすすり、傷つき、すべてを失いかけても、決して他者を拒絶しなかった。互いの背中を信じ、命を預け合い、自分たちの手で未来を切り開こうと足掻き続けた。
彼らもまた、私と同じように過酷な運命に翻弄され、絶望の淵に立たされていたはずだ。それなのに、彼らは決して人間であることを、絆という不確定で脆いものを、捨てることはなかった。
「……そうか。私は……」
純白の刃が、クリスタルを完全に両断し、ゼロギアの漆黒の背部装甲までをも貫いていく。
東郷の視界が、眩い白に染め上げられていく。
「私はただ……誰かに、わかってほしかっただけだったのだな」
私を否定しないでほしかった。私の夢を、誰かと一緒に語り合いたかった。
人間を憎んでいたのではない。孤独であることが、たまらなく恐ろしかったのだ。
そして、自分が一番欲しかったその「絆」を、この過酷な異世界で泥だらけになりながら証明してみせた彼らの姿が、どうしようもなく眩しく、そして美しかった。
「完敗だよ、ジン君。……君たちのその泥臭い強靭さは、私のどんな完璧な数式でも、決して弾き出すことはできなかった」
ゼロギアの巨体が、頭頂部から股下にかけて、完璧な直線を描いて左右に真っ二つに分かたれた。
ゴォォォォォォォォォォォォンッ。
遅れてやってきた凄まじい轟音と共に、両断された巨大な赤いクリスタルが粉々に砕け散り、エルドラの大地から吸い上げていた莫大な魔力が、行き場を失って爆発的に膨張した。
「アァァァァァァァァァァァッ」
東郷の断末魔の叫びが、崩壊する空間に響き渡る。
しかし、その声に、先ほどまでの狂気や怨念は含まれていなかった。
あるのは、自らの犯した罪への深い無念と、自分が信じたかった人間の可能性を彼らが見せてくれたことへの、わずかな安堵だけであった。
「君たちの想いは、確かに……」
最期の言葉は、魔力の爆発音にかき消されて途切れた。
真っ二つに割れたゼロギアの残骸が、内側から噴き出す赤黒い瘴気と青白いプラズマの渦に飲み込まれ、ドロドロに融解していく。
そして、クリスタルから解放された膨大な次元エネルギーが、中心に向かって極限まで収縮し、次の瞬間、クレーター全体を包み込むほどの超巨大な光の渦となって弾け飛んだ。
すべてを白く染め上げる、圧倒的な魔力の渦。
ジンは、その光の渦の中心で、振り抜いたムラサメを構えたまま、全身の力を抜いた。
悪魔と天使の装甲が限界を迎え、粒子となってパラパラと空気中に散っていく。インナースーツ一枚の姿となった彼は、荒い息を吐きながら、光の粒子となって消えていく東郷の残滓を静かに見つめていた。
「……馬鹿な男だ。お前ほどの頭があれば、もっと別の未来がいくらでも作れただろうに」
ジンの言葉は、誰に聞かせるでもない、ただの独り言だった。
だが、その言葉には、確かに東郷創一という一人の孤独な人間に対する、彼なりの哀悼の意が込められていた。
光の渦が、ゆっくりと収束していく。
東郷創一という存在は、彼が創り出した魔王の機体と共に、このエルドラの世界から完全に消滅した。
後に残されたのは、魔力の嵐が過ぎ去った後の、不気味なほどの静寂と、破壊の爪痕だけだった。
ジンは、焼け焦げた大地の破片の上に静かに着地した。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、立っているのが不思議なほどの激痛が襲ってくる。だが、彼は決して倒れなかった。
「隊長おおおおおおおっ」
「ジン隊長っ」
背後から、装甲を完全に失い、血だらけになったヴォルフとシオンが、互いに肩を貸し合いながら足を引きずって駆け寄ってくるのが見えた。
彼らの顔は泥と血で汚れていたが、その瞳には、これまでにないほどの晴れやかな達成感と、絶対的な死線を共に乗り越えた友への信頼が輝いていた。
「……遅えぞ、お前ら。俺が斬り損ねてたらどうするつもりだった」
ジンは、振り返って二人に向かって、いつものように短く鼻で笑った。
「ハッ、てめえが外すわけねえだろうが。一番いいところを譲ってやったんだ、少しは感謝しやがれ」
ヴォルフが、痛む腹を押さえながら凶悪に笑う。
「ええ。私たちは、隊長の後ろ姿だけを信じていましたから」
シオンが、涙で泥を流しながら、清らかな笑顔を向けた。
三人は、瓦礫の山の中で、無言のまま互いの拳を軽く打ち合わせた。
言葉は必要なかった。彼らは、すべてを終わらせたのだ。
だが、彼らが勝利の余韻に浸ることができたのは、ほんのわずかな時間だけであった。
上空を覆い尽くしていた巨大な漆黒の特異点。ブラックホールが、ゼロギアの破壊によってエネルギー供給を絶たれ、急速にその口を閉じ始めていたのだ。
エルドラの大地を飲み込もうとしていた引力は失われ、空には元の異世界のくすんだ赤い空が戻りつつあった。
しかし、それは同時に、ある致命的な事実を意味していた。
「……おい。ゲートが……」
ヴォルフが、上空を見上げて顔を青ざめさせた。
ブラックホールの中心にあった、地球へと通じる次元の穴。
東郷が巨大化させたそのゲートが、ブラックホールの縮小と共に、急速に閉じていく。
魔力を失い、特異点が消滅したことで、二つの世界を繋いでいた扉が、完全に塞がれようとしていたのだ。
「そんな……嘘でしょう。これでは、私たちは……」
シオンが、絶望に声を震わせた。
ジンは、空を見上げたまま、動くことができなかった。
閉じゆく次元の扉。
その向こう側には、サエがいる。リクがいる。
這いつくばってでも生きて帰ると誓った、彼のすべてがある。
だが、扉は無情にも、シュンッという微かな音と共に完全に消滅し、エルドラの空には、何事もなかったかのように平穏な雲が流れ始めた。
帰れない。
九十日間の地獄を生き抜き、狂気の魔王を打ち倒し、世界を救ったというのに。
彼のたった一つの願いだけが、無残にも打ち砕かれた。
「あ……ああ……」
ジンの膝から力が抜け、彼は泥だらけの大地へと崩れ落ちた。
インナースーツの胸の奥で、家族の写真が冷たく冷えていくのを感じた。
すべてを終わらせた彼を待っていたのは、完全なる孤立という、新たなる絶望の始まりだった。




