第79話:ただ一人の帰還者
エルドラのくすんだ赤い空に、ぽっかりと浮かぶ青白い光の円環。
狂気の果てに東郷創一が遺した、空間の調和と平和のための架け橋。そのゲートは、微かな明滅を繰り返しながら、今か今かとただ一人の帰還者を待ち受けていた。
ゲートの向こう側から吹き込んでくる、雨に濡れたアスファルトと排気ガスの入り混じった冷たい風。それは、ジン・クロサワにとって、どんな極上の香水よりも甘美で、心を強く揺さぶる故郷の匂いだった。
ジンは、その青白い光を背にして立ち、二人の部下たち――いや、もはや部下ではなく、互いの魂を預け合ったかけがえのない戦友たちへと向き直った。
ガルディア帝国を立て直すという覇道を選んだヴォルフ・シュナイダー。
ルミナス王国で真の平和を築くという慈愛の道を選んだシオン・ミカゲ。
彼らの顔に迷いはなかった。九十日間の地獄を生き抜き、自らの意志で未来を掴み取った戦士の、どこまでも澄み切った誇り高き顔であった。
「……時間が来たようだな」
ジンは、短くそう告げると、泥と血にまみれた右手をゆっくりと前に差し出した。
防衛軍の敬礼ではない。ただの一人の男としての、別れの握手だった。
ヴォルフが、鼻でふっと笑い、ボロボロになった装甲の腕でその手を力強く握り返した。
ガシッ、という骨の軋むような力強い感触。
「とっとと行け、隊長。お前がいつまでもウジウジしてると、こっちまで決心が揺らいじまうからな」
憎まれ口を叩くヴォルフの声は、少しだけ震えていた。
「……ああ。お前も、ルーファスやレオンに愛想尽かされないように気をつけろ。お前のその短気な性格は、皇帝の補佐には向いてないからな」
「余計なお世話だ。あいつらの手綱を握れるのは、世界中探してもこの俺だけだよ」
ヴォルフは、ニヤリと凶悪な笑みを浮かべ、最後に一度だけ、ジンの手をさらに強く握りしめてから、パッと手を離した。それが、彼なりの最大限の敬意と、永遠の友情の証だった。
ジンは次に、シオンへと向き直った。
シオンは、両手でジンの右手を包み込むようにして握った。彼女の手は小さく、そしてこの九十日間の激戦を物語るように無数の傷とマメに覆われていた。
「隊長……。本当に、ありがとうございました。あなたが前を歩いてくれたから、私は今日まで生き延びることができました。あなたに教えていただいた本当の強さを、私はこの世界で必ず受け継いでいきます」
大粒の涙をこぼしながら、それでも決して笑顔を崩さずに語るシオン。
ジンは、空いている左手で、彼女の泥だらけの頭をポンと優しく撫でた。
「泣くな、シオン。お前はもう立派な聖騎士だ。ルカを支え、このエルドラの民を導いてやれ。お前なら、絶対にできる」
「……はいっ。必ず」
シオンは、深く、深く頭を下げた。
冷たい風が、三人の間を吹き抜けていく。
もう、語るべき言葉はすべて尽きていた。
ジンは、二人の顔をその目にしっかりと焼き付けると、ゆっくりと背を向けた。
青白く輝くゲート。
その光は、まるでジンを迎え入れるように、優しく波打っている。
「……達者でな、ヴォルフ、シオン」
振り返ることなく、ジンはただ一言だけそう残し、ゲートの中へと足を踏み入れた。
「隊長も! 絶対に、家族を幸せにしてやれよ!」
「ジン隊長、さようなら! 私たちの、最高のヒーロー!」
背後から投げかけられた二人の声援が、光の中に吸い込まれていくジンの背中を、力強く押してくれた。
青白い光のトンネルの中は、驚くほど静かで、穏やかな空間だった。
次元を強引に引き裂くような暴力的な重力や、空間の歪みは一切ない。東郷が最後に辿り着いた真理の数式は、まるでゆりかごのようにジンの体を包み込み、ゆっくりと、しかし確実に彼を地球という座標へと運んでいく。
トンネルを抜けるそのわずかな時間の中で、ジンの脳裏に、このエルドラで過ごした九十日間の記憶が走馬灯のように駆け巡った。
未知の森でのサバイバル。巨大な魔獣との死闘。
帝国の実力主義の洗礼。王国の歪んだ正義との衝突。
傷つき、血を流し、時には仲間同士で刃を交え、孤独に心をすり減らした夜。
愛する家族を自らの手で殺しかけたという絶望。
そして、すべてを乗り越え、魔王を打ち倒した最後の光。
それらの過酷な記憶が、青白い光のトンネルを通過するごとに、少しずつ浄化され、遠い夢の出来事のように薄れていくのを感じた。
エルドラでの彼は、百戦錬磨の戦士であり、孤独な帰還者であり、世界を救う隊長でなければならなかった。
だが、この光を抜ければ、もう戦う必要はない。
誰かの命を背負って前衛に立つ必要も、ムラサメを抜いてすべてを両断する必要もないのだ。
スゥゥゥゥゥン……。
光が弾け、ジンの足の裏に、硬く、そして冷たい感触が伝わった。
バチャッ。
水たまりを踏みしめる音。
ジンは、ゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、赤茶けた荒野でも、魔力に満ちた異世界の空でもなかった。
街灯のオレンジ色の光が、水たまりに反射してキラキラと光っている。
見上げる空は、分厚い灰色の雲に覆われた、地球の夜空。
遠くで、車のタイヤが濡れた路面を走るシャーッという音が聞こえる。
鼻腔をくすぐるのは、間違いなく、雨上がりのアスファルトと、微かな排気ガスの匂い。
「……あ、あぁ……」
ジンの口から、震えるような吐息が漏れた。
振り返ると、彼をここまで運んできた青白いゲートは、空中に小さな光の点を残して、シュンッという音と共に完全に消滅した。
次元の扉は閉じられた。
もう二度と、あの過酷なエルドラの世界へ行くことはできないし、ヴォルフやシオンと会うこともできない。
だが、その事実に悲しみはなかった。彼らは自分たちの意志でそれぞれの世界を生きると決めたのだ。
ジンは、自らの両手を見つめた。
そこにあるのは、間違いなく、彼が生まれ育ち、そして愛する家族が待つ地球の風景だった。
2039年の地球。未確認生命体との戦闘によって一部のビルは崩壊した痕跡を残しているが、それでも、この街には人々の営みがあり、静かな日常の呼吸があった。
「帰って、きたんだ……。本当に……」
ジンの目から、熱いものが込み上げてきた。
世界を救った達成感ではない。ただ、家に帰ることができたという、一人の人間としての根源的な安堵感。
だが、彼はすぐに歩き出すことはしなかった。
彼の体は、まだエルドラの泥と血にまみれ、大破したPM-ギアの残骸を纏ったままであった。
天使の光輪も悪魔の漆黒も失われ、ただの重たい金属の拘束具と化した装甲。それは、彼が地獄を生き抜いた証であると同時に、これからの日常には決して持ち込んではならない、戦争の遺物であった。
ジンは、大きく息を吸い込み、雨上がりの冷たい空気を肺いっぱいに満たした。
「システム、マニュアル起動。……全装甲、パージ」
ジンの低く、静かな声に反応し、完全に沈黙していたはずのPM-ギアのインナーシステムが、最後のわずかな電力を振り絞って駆動した。
ガチャン。プシュウゥゥゥ。
圧縮されていた空気が抜け、機体の各所を固定していたロックが次々と外れていく。
右腕を覆っていた巨大なガントレットが、滑り落ちるようにして濡れたアスファルトの上に転がった。
ガラン、と鈍い金属音が夜の街に響く。
続いて、胸部を守っていたメイン装甲、脚部を覆っていたブースターユニット、そして、背部に接続されていたジェネレーターの残骸。
エルドラの魔獣の爪痕が深く刻まれ、東郷の狂気の魔法によって黒く焼け焦げたそれらの金属部品が、ジンの体から一つ、また一つと剥がれ落ちていく。
それは、ただ物理的な重さを脱ぎ捨てるだけの行為ではなかった。
装甲が一つ落ちるごとに、ジンの心にへばりついていた「戦士としての使命」や「死と隣り合わせの恐怖」が、一緒に洗い流されていくような感覚があった。
地球の防衛軍隊長としての重圧。異世界で仲間を率いた責任。
それらすべてを、この冷たいアスファルトの上に置いていく。
最後に、頭部を覆っていたバイザーを自らの手で外し、地面へと落とした。
ガシャッ、とバイザーが割れる音がした。
残されたのは、黒いインナースーツ一枚の姿となったジン・クロサワの体だけだった。
泥と汗にまみれ、無数の傷跡に覆われた肉体。
だが、夜風が直接肌を撫でるその感覚は、これまで装甲越しに感じていたどんな風よりも、冷たく、そして優しかった。
ジンは、足元に散らばったPM-ギアの残骸を一度だけ見下ろした。
九十日間、自分の命を守り抜き、共に戦ってくれた相棒。
「……お疲れ様。今まで、ありがとうな」
短く感謝の言葉を呟くと、ジンは踵を返し、その場所から歩き始めた。
もう、振り返ることはない。彼は戦士としての自分に、完全なる別れを告げたのだ。
インナースーツの胸ポケットに手を入れる。
そこには、エルドラの血と泥で汚れながらも、決して手放さなかった一枚の写真がある。
指先から伝わるその感触だけが、今の彼を突き動かす唯一の動力源だった。
歩き出したジンの足取りは、ひどく重かった。
アドレナリンが切れ、全身の筋肉が断裂の悲鳴を上げ、極度の疲労が波のように押し寄せてくる。普通なら一歩も動けずに気絶していてもおかしくない状態だった。
だが、彼の足は決して止まることはなかった。
見慣れた街並みが、次々とジンの視界を通り過ぎていく。
黄色く点滅する深夜の信号機。
静かに低音を響かせて走り去る夜間便のトラック。
煌々と白い明かりを灯し、自動ドアが開く音を響かせるコンビニエンスストア。
路地裏で雨露を凌ぎ、ジンの足音に警戒して逃げていく野良猫。
なんてことのない、ただの退屈な地球の夜の風景。
魔法もなければ、空に特異点もない。
だが、ジンにとって、その退屈で平凡な風景のすべてが、神が起こした奇跡よりも尊く、美しく見えた。
この何気ない日常の中に、サエがいて、リクがいる。
彼らが普通に息をして、普通に笑い、普通に明日を迎えることができる世界。
それを守るために、自分はあの地獄を駆け抜けたのだという実感が、歩みを進めるごとにジンの胸を熱く満たしていった。
足を引きずりながら、ジンは住宅街へと入っていく。
見覚えのある公園。リクに自転車の乗り方を教え、転んで泣く息子を励ましたあの小さな公園だ。雨に濡れたブランコが、街灯の光を反射して静かに揺れている。
その公園の角を曲がると、彼が九十日間、夢にまで見た場所が目の前に現れた。
中層のありふれたマンション。
その三階の角部屋。
部屋の窓には、暖色の温かい明かりが灯っていた。
深夜だというのに、明かりがついている。
それは、いつ帰ってくるかもわからない夫を、父親を、決して諦めることなく待ち続けている家族の祈りの光であった。
「……あぁ……」
ジンの目から、再び涙が止めどなく溢れ出した。
足の痛みが消え、胸の鼓動が、これまでのどんな激戦の時よりも激しく、狂おしいほどに早鐘を打っている。
早く。一秒でも早く。
ジンは、泥だらけのインナースーツのまま、マンションのエントランスを抜け、階段を一段飛ばしで駆け上がった。
息が乱れ、視界が涙で滲む。
三階の廊下。一番奥の扉。
表札には、『クロサワ』という文字が刻まれている。
間違いない。ここが、俺の帰る場所だ。俺の世界だ。
ジンは、扉の前に立ち止まった。
震える右手を持ち上げ、ドアノブに手を伸ばす。
泥と血にまみれた手で、この綺麗な日常の扉を開けていいのだろうかという、一瞬の躊躇い。
だが、胸のポケットにある写真の温もりが、彼の背中を優しく押した。
ジンは、ゆっくりと、ドアノブを回した。
カチャリ、と、日常へと繋がる音が、静かな夜のマンションに響いた。




