第70話:前衛の重圧と帰還への執念
世界が完全に終わりを迎える、その最後の境界線。
漆黒の特異点が空を削り取り、狂気の科学者が操るPM-ゼロギアが絶望の鉄槌を振り下ろした、まさにその直下。
ギギギギギギギギギッ。
鼓膜を破るような金属の悲鳴が、クレーターの底に響き渡っていた。
ジン・クロサワの左腕、悪魔の漆黒と天使の光が融合した異形のガントレットが、全高十メートルを超えるゼロギアの巨大な足の裏を、真正面から受け止めていたのだ。
数千トンの物理的な質量と、周囲の空間そのものを無へと変換しようとする絶対的な次元の重圧。そのすべてが、ジンの左腕一本に集中している。足元の岩盤はすり鉢状に陥没し、ジンの膝は今にも砕け散りそうに軋み、インナースーツの下で全身の筋肉が断裂の悲鳴を上げていた。
東郷の言葉の通り、ジンのPM-ギアは完全に沈黙していた。
エルドラの大地から汲み上げられた莫大な環境魔力は、すべてゼロギアの胸部に輝く赤いクリスタルによって支配され、吸い尽くされている。外部からのエネルギー供給を絶たれたジンの装甲は、ただの重たい金属の棺桶でしかない。システムのエラー画面は真っ暗に落ち、生体センサーすら機能していなかった。
それでも、ジンは片膝をつくことすら拒絶し、その足を支え続けていた。
理屈ではない。ただ、彼の中にあるジン・クロサワという人間の、どうしようもなく泥臭く、そして強靭すぎる魂の重さだけで、神の如き魔王の暴力を押し留めているのだ。
「なぜだ……なぜ動く。魔力は私が完全に支配しているはずだ」
頭上から、東郷の驚愕と焦燥の混じった声が降ってくる。
なぜ動くのか。
ジン自身にも、その明確な答えはわからなかった。
ただ、彼の脳裏には、先ほど血溜まりの中から拾い上げ、胸の奥深くにしまい込んだ一枚の写真の感触が、確かな熱を伴って焼き付いていたのだ。
意識が、痛みを通り越して異様に研ぎ澄まされていく。
ゼロギアの足を受け止める永遠にも似た一秒の中で、ジンの精神は、彼がこのエルドラという地獄を生き抜くための唯一の原動力であった、あの日の記憶へと回帰していた。
地球、東京。
都市部に初めて未確認生命体が大規模な襲撃を仕掛けてきた、あの雨の日の朝。
サイレンが街中を劈き、遠くでビルが崩壊する地響きが轟いていた。防衛軍からの緊急出動要請を受け、ジンは急いで軍服に袖を通した。
玄関先で、妻のサエが震える手で彼の背嚢を差し出した。彼女の目は真っ赤に腫れ上がっていたが、決して泣き顔を見せまいと、必死に唇を噛み締めて微笑みを作っていた。
「気をつけてね。……絶対、生きて帰ってきてね」
その足元で、まだ幼いリクが、ジンの軍服のズボンを小さな両手でぎゅっと握りしめていた。
「パパ、いかないで。おばけ、こわいよ。パパがいなくなっちゃうの、やだよ」
泣きじゃくる息子の頭を、ジンはしゃがみ込んで力強く撫でた。そして、妻と息子の小さな体を、壊れないように、しかし絶対に離さないという強い意志を込めて抱きしめた。
「大丈夫だ。パパは一番強いからな。何があっても、絶対にパパが怪物をやっつけて、お前たちのところに帰ってくる。……約束だ。這いつくばってでも、絶対に生きて帰る」
二人の温もり。涙の匂い。
その時交わした絶対の誓いが、ジン・クロサワという男の心に、決して抜けることのない楔を打ち込んだのだ。
東郷は言った。その家族への愛と執着こそが、大地の魔力脈から限界を超える次元エネルギーを汲み上げる引き金となり、結果としてこの世界と地球を滅ぼすブラックホールを生み出したのだと。
お前が戦えば戦うほど、愛する家族を殺すための爆弾を育てていたのだと。
その呪いのような真実は、一度はジンの心を完全にへし折った。
自分のエゴが、家族の頭上に死を呼び寄せてしまったという絶望。
だが、その絶望の底の底で、ジンは気づいたのだ。
もし俺のエゴが、俺の家族を愛する心が、この世界を滅ぼす原因を作ってしまったというのなら。
俺は、その罪から逃げて死ぬことなんて許されない。
俺が巻き込んだのなら、俺がこの手でこの狂った科学者をぶち殺し、あの空に開いた真っ黒な穴を塞ぎ、世界を元に戻す。
そして、すべての責任を背負い込んだ上で、泥にまみれた顔でサエとリクの元へ帰る。
それが、父親としての、俺の落とし前だ。
その強烈な責任感とエゴイズムが、ジンの胸の中で激しい炎となって燃え上がった時。
さらに別の記憶が、その炎に油を注ぐように鮮明に蘇ってきた。
俺は、本当に一人で戦ってきたのだろうか。
家族の元へ帰る。その一つの目的のために、俺はこのエルドラで、心を鬼にして孤軍奮闘してきたつもりだった。
防衛軍の部下であったヴォルフを叩き落とし、シオンを泣かせ、孤独な帰還者としてただ一人で刃を振るってきた。
だが、それは間違っていた。
地球の防衛軍時代。
特殊PM-ギア部隊の隊長として、ジンは常に最前線、すなわち「前衛」に立っていた。
未確認生命体との戦闘において、前衛とは最も死亡率が高く、最も重いプレッシャーがかかるポジションである。圧倒的な暴力を持つ怪物の牙や爪を一番最初に受け止め、部隊全体の防衛ラインを維持しなければならない。
ジンが自らの装甲を全パージして放つ必殺のムラサメは、一撃必殺の威力を誇る反面、防御力が皆無となるため、たった一度のミスが即座に死に直結する。
なぜ、ジンはそんな死と隣り合わせの戦いを続けることができたのか。
彼が超人だったからではない。死が怖くなかったわけでもない。
「隊長、前を空けすぎだ。死にてえのか。……チッ、仕方ねえな。俺が全部吹き飛ばしてやるから、てめえは前のデカブツだけに集中しろ」
背後から聞こえる、悪態をつきながらも圧倒的な火力を放ち、ジンの死角を完全にカバーしてくれるヴォルフ・シュナイダーの重魔導砲の轟音。
「ジン隊長、右翼から敵増援。ですがご安心を。ここは私が、一歩も通しませんから」
どんなに絶望的な状況でも、決して乱れることなく完璧な防衛陣形を構築し、部隊の瓦解を防いでくれるシオン・ミカゲの白銀の盾と光の槍。
そうだった。
俺が前衛という最も重い場所で、恐怖に飲まれずにムラサメを振るい続けることができたのは。
俺の背中を、俺の死角を、あいつらが絶対に守ってくれると信じ切っていたからだ。
あいつらがいたから、俺は生きて家族の元へ帰るという約束を守り続けることができたのだ。
俺は、一人で戦っていたわけではなかった。
孤独な帰還者などではない。俺は、地球防衛軍・特殊PM-ギア部隊の「隊長」なのだ。
「俺は……」
ジンの口から、血の混じった低い声が漏れた。
ゼロギアの足を受け止めている左腕の筋肉が、限界を超えて膨張し、毛細血管が次々と破裂して血が滲み出す。
「俺は、俺のエゴで家族に帰ると誓った。……だが同時に、俺は隊長として、あいつらを絶対に生かして地球へ連れて帰るという責任がある」
東郷の狂気が生み出したこの絶望的な地獄に、あいつらを置いて自分だけが死ぬことなど、あるいは自分だけが助かることなど、絶対に許されない。
共に戦い、共に背中を預け合い、この異世界で道を違えながらも、それでも心の奥底では互いを認め合っていた仲間たち。
俺の家族を救うのと同じように、俺はあいつらの未来も救わなければならない。
前衛の重圧。
それは、死の恐怖ではない。自分の背後にいるすべての者の命を背負い、絶対に崩れてはならないという、強靭な覚悟の重さだ。
今の俺の背後には、ヴォルフがいる。シオンがいる。
そしてあの空の向こうには、サエとリクがいる。
ならば、俺がこんなところで、この足を押し潰されるわけにはいかないのだ。
ドクン。
完全に沈黙していたジンのPM-ギアの胸部コアが、突如として激しい脈動を打った。
それは、エルドラの大地から魔力を吸収して再起動したわけではなかった。
東郷が仕組んだ、魔力結晶を成長させるためのシステムなど関係ない。PM-ギアの原点、装着者の生命力と闘争心にダイレクトに呼応して粒子金属を変化させるという、地球の科学が本来目指していた純粋な機能。
ジン・クロサワという人間の、極限まで高められた「生きて帰る」という執念と、「仲間を守る」という覚悟。
その純度百パーセントの魂の熱量が、枯渇していたコアに強制的に火をつけ、機械の限界を超越した次元の摩擦熱を生み出したのだ。
「おおおおおおおおおおおっ」
ジンの口から、獣のような、しかしどこまでも真っ直ぐな咆哮が迸った。
装甲の隙間から、エルドラの黒魔法でも白魔法でもない、地球の科学と人間の意志が融合した純粋な青白いプラズマの光が、爆発的な勢いで噴き出し始めた。
天使の光輪でもなく、悪魔の漆黒でもない。
ただ、すべてを守り抜き、すべてを切り裂くための、純白の粒子エネルギー。
それは、ジンの全身を包み込み、装甲の表面に刻まれた無数の傷跡を青白く発光させていく。
『なっ……馬鹿な。あり得ない。魔力供給のないオリジナルのギアが、これほどの出力を出せるはずがない。お前のそのエネルギーは、一体どこから……』
東郷の狂気に、明確な亀裂が走った。
彼の構築した完全な次元崩壊システム。すべてを計算し尽くしたはずの絶望の箱庭の中で、たった一つの計算外のバグ。
人間の心の持つ、底知れない熱量を、孤独な天才科学者は理解できていなかったのだ。
「お前は、確かに天才かもしれないな、東郷」
ジンは、ゼロギアの巨大な足を左腕で支えながら、ゆっくりと顔を上げた。
バイザーの奥の瞳は、東郷の狂気など全く意に介していない、絶対的な強者の静けさを湛えていた。
「次元の扉を開き、世界を滅ぼすほどのシステムを作り上げた。……だが、お前は根本的なところで勘違いをしている」
「勘違いだと……」
「ああ。お前は、自分を拒絶した人間を恨み、孤独を選んだ。だから、一人で世界を壊そうとしている。……だがな、人間ってのは、一人じゃ何も背負えないし、何も守れないんだよ」
ジンの左腕に、さらに一段と強烈な青白いプラズマが収束していく。
ミシミシ、とゼロギアの巨大な足が、逆に上へと持ち上げられ始めた。
「俺が今日まで生き残ってこられたのは、俺が強いからじゃない。俺の背中を守ってくれる、最強の馬鹿野郎どもがいたからだ。お前が電池扱いした俺の部下たちは、お前の薄っぺらい絶望なんかじゃ、絶対に折れやしない」
その瞬間であった。
ジンの言葉を証明するかのように。
「隊長にばっかり、良い格好させてたまるかよォォォッ」
「ジン隊長。遅くなりました。私たちの前衛は、あなたにしか務まりません」
ブラックホールの轟音を切り裂いて、クレーターの斜面から二つの怒号が響き渡った。
自らの命を燃やして強制起動し、青白いプラズマを噴き出しながら猛進してくる、泥だらけの防衛軍装甲を纏ったヴォルフ・シュナイダー。
折れた黄金の槍を握りしめ、限界を超えた生命力のバイパス駆動で光速の跳躍を見せるシオン・ミカゲ。
二人とも、王国の魔法も帝国の魔法も失い、装甲はボロボロで、立つことすら奇跡のような状態だった。
だが、その目に宿る闘志は、かつて地球の防衛軍で共に死線を潜り抜けたあの日のように、強烈で、絶対的な信頼に満ち溢れていた。
「……遅えぞ、お前ら」
ジンの口元に、このエルドラに来て初めて、微かな、しかし確かな笑みが浮かんだ。
そして彼は、全身のバネを解放し、左腕に込めた魂のエネルギーのすべてを一気に爆発させた。
「退けえええええええっ、東郷ォォォォッ」
ズガァァァァァァァァァァァァンッ!!!!
クレーターの底を揺るがす大爆発と共に、全高十メートルの巨大な魔王、PM-ゼロギアの巨体が、ジンのたった一本の腕の振り上げによって、完全にバランスを崩し、大きく後方へと弾き飛ばされた。
『ガァァァァッ!? ば、馬鹿な、この神の機体が、ただの人間風情に……』
東郷の驚愕の絶叫が響く中、ゼロギアは地響きを立ててたたらを踏んだ。
その隙を逃す彼らではない。
押し返したジンの両サイドに、青白い火花を散らすヴォルフとシオンが、寸分の狂いもなく同時に着地した。
大破した三機のPM-ギア。魔法の力は失われ、装甲は泥と血にまみれている。
だが、彼らが横一列に並び立ったその瞬間、三機のギアのオリジナルコアが互いの生体波長に呼応し、共鳴音を響かせ始めた。
それは、失われた機能の不足を補い合い、一つの巨大なシステムとして完全にリンクした証であった。
「配置につけ、お前ら。……俺たちの世界を壊したこのクソ野郎を、ぶちのめすぞ」
ジンの短い命令に、ヴォルフは残骸となったファフニールを構え、シオンは折れたロンギヌスを突き出した。
「了解だ、隊長。俺の火力で、あのデカブツの装甲を引っぺがしてやる」
「背後と死角は、私がすべてカバーします。隊長は、前だけを見てください」
絶望の底で、異世界で道を違えた三人の戦士が、今、地球防衛軍の最強のチームとして完全に再集結を果たした。
反逆の残り火は、決して消えることのない紅蓮の炎となって、魔王東郷の前に立ちはだかる。
真の決戦の幕が、今、切って落とされた。




