第69話:聖騎士の誓いと受け継がれた正義
意識が、深い水底へと沈んでいく。
東郷創一が操るPM-ゼロギアの圧倒的な一撃を受け、私の体は宙を舞い、冷たい岩盤に叩きつけられた。全身の骨が悲鳴を上げ、ルミナス王国の白魔法と同調して白銀に輝いていたPM-ギアの装甲は無残に砕け散り、本来の鈍い鉛色を剥き出しにしている。
黄金の閃光騎槍ロンギヌスは半ばからへし折れ、私の手から遠く離れた場所へと転がっていった。
痛みが遠のいていく。それは死が近づいている証拠だった。
閉じかけた視界の端で、ルカ様が血の海に倒れているのが見えた。私に真実の愛を教えてくれ、共にこの腐敗した王国を変えようと誓い合った、私の大切な人。彼を助けに行かなければならないのに、指一本動かすことができない。
私は、また失敗したのだ。
地球にいた時も、そしてこのエルドラの世界に来てからも。私はいつも、自分の信じる正義を掲げながら、結局は誰かに守られ、誰かを傷つけ、何も成し遂げることができないまま終わっていく。
暗闇に沈みゆく精神世界の中で、私は自分自身の過去の幻影と向き合っていた。
地球での私の生い立ちは、厳格という言葉の標本のようなものだった。
代々警察の幹部を務める厳格な家系に生まれ、父からは常に「正しき者であれ」と教え込まれて育った。白と黒。善と悪。世界はその二つに明確に分かれており、法と秩序を守ることこそが人間としての絶対的な価値であると信じていた。
道を踏み外すことなど許されない。私は父の期待に応えるため、感情を殺し、規律を絶対として生きた。
未確認生命体が都市部に出現し始めた時、私が防衛軍に志願したのは当然の帰結だった。
人々を脅かす怪物を倒し、平和を守る。それこそが私の求める絶対的な正義の体現だったからだ。
訓練校での私の成績は常にトップだった。教官たちの教えを完璧に暗記し、マニュアル通りの無駄のない動きで標的を仕留める。私は「完璧な優等生」であり、次世代のエースとして期待を一身に背負っていた。
私の支給されたPM-ギアは常に塵一つなく磨き上げられ、私の思い描く正義の象徴のように白銀に輝いていた。
だが、実戦は、訓練校のシミュレーターのような綺麗なものではなかった。
初めて最前線に投入された日のことを、今でも鮮明に覚えている。
降りしきる冷たい雨。廃墟と化したビル群。大気に充満する硝煙と、怪物の体液の悪臭、そして、人間の血の匂い。
私たちが護衛すべき避難民の集団に、想定外のルートから巨大な未確認生命体が奇襲をかけてきたのだ。
「対象の進行ルート、予測と異なります。マニュアル第四項に従い、後退しつつ迎撃陣形を再構築します」
私は通信機で冷静に指示を出した。だが、怪物の動きは私の計算を遥かに超えていた。後退する防衛ラインを容易く突破し、逃げ遅れた一人の子供の頭上に、その巨大な爪が振り下ろされようとしていた。
助けなければ。
そう思ったのに、私の体は硬直して動かなかった。
マニュアルにはない事態。自分が飛び出せば、陣形が崩れ、部隊全体が危険に晒される。だが、このままでは子供が死ぬ。相反する思考が脳内でショートし、私はただ、泥水の中に立ち尽くすことしかできなかった。
私の信じていた綺麗で完璧な正義が、現実の理不尽な暴力の前に、何の役にも立たない無力な絵空事であることを突きつけられた瞬間だった。
その時だった。
「陣形などどうでもいい。ガキを死なせるな」
低い、無機質な声と共に、私を追い抜いて一陣の風が吹き抜けた。
ジン・クロサワ隊長だった。
隊長はマニュアルの規則など完全に無視し、単機で怪物の懐へと飛び込んだ。装甲の防御力を限界まで下げ、その粒子を刃へと変換する極端な武装、ムラサメ。
泥水と怪物の返り血を全身に浴びながら、隊長は一切の躊躇なく、怪物の腕を根本から両断した。
「チッ、隊長の無茶苦茶な尻拭いをさせられる身にもなれってんだ」
悪態をつきながら、副隊長であるヴォルフ・シュナイダーがそれに続いた。
彼は周囲の被害状況など一切顧みず、自らのPM-ギアをオーバーヒート寸前まで稼働させ、重魔導砲ファフニールによる圧倒的な火力で、怪物の胴体を丸ごと吹き飛ばした。
二人の姿は、私の思い描いていた「正義のヒーロー」とは程遠いものだった。
マニュアルを無視し、装甲を泥と血で汚し、ただ力任せに敵を粉砕する。それはまるで、怪物と同じくらい恐ろしく、荒々しい暴力の具現化であった。
だが、その泥臭い暴力によって、子供の命は確実に救われたのだ。
戦闘終了後の野営キャンプで、私は雨に打たれながら一人、泣いていた。
完璧であるはずの自分が、いざという時に足がすくんでしまったことへの恥悪感。そして、自分の信じていた正義の脆さに対する絶望。
そこへ、泥だらけのPM-ギアを半分脱ぎかけたジン隊長が近づいてきて、無言で温かいコーヒーの入った紙コップを差し出した。
「申し訳ありません、隊長。私は、マニュアル通りに動けず、民間人を危険に晒しました。私には、正義を名乗る資格はありません」
私は震える声で謝罪した。厳格な処分を覚悟していた。
だが、ジン隊長は、氷のように冷たい顔のまま、しかしどこか不器用な優しさを滲ませてこう言ったのだ。
「正義なんて言葉は、教科書の中にしか存在しない。俺たちの仕事は、手を汚してでも、目の前の命を明日に繋ぐことだ。綺麗に立ち回れなくていい。恐怖で足がすくんだのなら、次は無理やりにでも一歩前に踏み出せ。それができるなら、お前は立派な防衛軍の兵士だ」
その傍らで、ファフニールの銃身を雑に布で拭いていたヴォルフ副隊長が、鼻で笑いながら口を挟んできた。
「おいおい、優等生を泣かすなよ隊長。いいか、シオン。泥水すするような汚い仕事は、俺たちみたいな粗暴な連中が引き受けてやる。お前はそのまま、綺麗な理想を掲げて真っ直ぐ立ってりゃいいんだよ。お前みたいな迷いのない綺麗な奴がいるから、下っ端の連中も希望を持てるんだからな」
乱暴で、口の悪い副隊長。無口で、冷徹に見える隊長。
でも、その時の二人の言葉は、冷え切っていた私の心を、何よりも温かく包み込んでくれた。
私は悟ったのだ。正義とは、白か黒かという単純なルールではない。誰かを守るために、時には自分の手を泥で汚す覚悟。あるいは、誰かの理想を守るために、自分が汚れ役を引き受けるという自己犠牲。
彼らの不器用な戦い方こそが、私にとっての本当の正義の形だった。
私は、あの二人の背中を見て育った。あの二人がいたからこそ、私は防衛軍のエースとして、誰かのために戦う覚悟を持つことができたのだ。
それなのに。
私はこのエルドラの世界に転移してから、何をしてきたのだろう。
ルミナス王国の賢者たちから「聖騎士」という綺麗な称号を与えられ、絶対的な白魔法の力と、聖典というマニュアルに再び依存してしまった。
防衛軍時代に学んだはずの、泥臭くても自分の足で立つという覚悟を忘れ、誰かに与えられた綺麗で偽りの正義に酔いしれていたのだ。
その結果が、これだ。
私の信じた王国は、東郷という狂気を育て、世界を滅ぼすための手駒として利用されていただけだった。私の祈りは、この空に開いたブラックホールを巨大化させるための養分でしかなかった。
意識の底で、深く、静かに絶望が渦巻く。
でも、本当にすべてが偽りだったのだろうか。
「違う」
暗闇の中で、私は自らの声を聞いた。
王国の賢者たちが掲げた正義は偽りだったかもしれない。東郷に利用されていたのは事実かもしれない。
だが、私がこの異世界で感じたことのすべてが嘘だったわけではない。
ルカ様と出会い、彼が平民たちのために涙を流す姿を見た。
彼と共に、本当に誰もが笑い合える国を作りたいと願ったあの夜の誓い。
そして何より、地球の防衛軍で、ジン隊長やヴォルフ副隊長と共に泥水の中で培った、決して折れない仲間との絆。
それらは、誰かに与えられたプログラムなどではない。
私自身が、シオン・ミカゲという一人の人間として、痛みと涙の中で手に入れた、私だけの真実だ。
「こんなところで、終わるわけにはいかない。私は、まだ何も恩返しをしていない」
閉じていたまぶたが、ピクリと動いた。
感覚が戻ってくる。全身を貫く激痛。口の中に広がる血の鉄の味。そして、上空から吹き荒れる、すべてを飲み込もうとするブラックホールの凄まじい引力波と轟音。
現実の世界の地獄が、再び私を包み込んだ。
「う、あ……」
私は、砕け散った白銀の装甲の残骸を押し除け、ゆっくりと身を起こした。
王国の白魔法との同調は完全に切れている。PM-ギアのシステムは悲鳴を上げ、モニターには赤い警告の文字が無数に並んでいた。
視線を巡らせる。
少し離れた場所で、ルカ様が、エリアーナ殿下を庇うようにして倒れている。彼らの微かな呼吸が、かろうじて命の灯火が消えていないことを教えてくれた。
そして、クレーターの中央。
全高十メートルの巨大な悪魔、PM-ゼロギアが、その禍々しい足を振り下ろそうとしている。
その足の下で、たった一人で、あの日と同じように泥と血にまみれながら、決して諦めずに立ち向かっている男の背中があった。
ジン隊長。
あなたが背負っている絶望の重さは、私には計り知れない。愛する家族のために戦ったことが、家族を滅ぼす引き金だったと知らされたあなたの心は、どれほど引き裂かれていることだろう。
それでもあなたは、また一人で、誰かを守るために傷つこうとしているのですね。
そして、その隊長に向かって、もう一人の男が足を引きずりながら歩いていくのが見えた。
黒騎士の虚飾の鎧を捨て去り、ボロボロになったオリジナルの防衛軍装甲を剥き出しにした、ヴォルフ副隊長。
彼もまた、すべてを失った絶望の中から、ただ隊長の背中を守るためだけに、再び立ち上がったのだ。
二人の不器用で、泥臭くて、決して折れない背中。
あの日、地球の雨の中で私を救ってくれた、私の本当のヒーローたち。
「……待ってください」
私は、自分の足元に転がっていた、へし折れた黄金の槍、ロンギヌスに手を伸ばした。
聖なる力はもう宿っていない。ただの重たい金属の棒切れだ。
だが、これでいい。誰かに与えられた綺麗な武器など、今の私には必要ない。
私は折れたロンギヌスを杖代わりにして、震える両足で大地を踏み締めた。
痛みが視界を明滅させるが、奥歯を噛み砕くほどの力で食いしばり、痛覚を強制的にねじ伏せる。
「システム、マニュアル起動。外部魔力回路、全切断。生命維持装置のエネルギーを、駆動系へ強制バイパス」
私は、防衛軍時代に叩き込まれた、緊急時の非常用コマンドを声に出した。
魔法という概念を捨て去り、私の肉体の生命力そのものを燃料にしてPM-ギアを動かす、自爆に等しい強硬手段。
装甲の隙間から、白魔法の黄金の光ではなく、私の命を削って生み出された青白いプラズマの火花が散り始めた。
私は、ルカ様の方を一度だけ振り返った。
ルカ様、どうか生きてください。あなたが愛したこの世界は、私が必ず守ってみせます。
だから、少しだけ待っていてください。
私は今から、王国の聖騎士としてではなく、一人の不器用な戦士として、私の大切な仲間たちの背中を守りに行ってきます。
私は前を向いた。
クレーターの中心で、ジン隊長の左腕が、ゼロギアの巨大な足を弾き飛ばすのが見えた。
ヴォルフ副隊長が、ファフニールの銃口からプラズマの火花を散らしながら、咆哮を上げて突進していくのが見えた。
私は、折れたロンギヌスを真っ直ぐに構え直し、ブラックホールの超重力に逆らうようにして、大地を蹴った。
綺麗な正義など、もういらない。
私は私の意志で、泥にまみれ、血を流し、愛する人たちを理不尽な暴力から守り抜く。
それこそが、シオン・ミカゲという人間が、あの日あの二人の背中から受け継いだ、本当の誓いなのだから。
「行きます、隊長、副隊長。……私も、一緒に戦わせてください」
崩壊する世界の中心へと、私は全速力で駆け出した。
絶望の底から這い上がった三つの軌跡が、今、再び一つの場所へと交わろうとしていた。




