第68話:黒騎士の誇りと泥塗れの記憶
深い、どこまでも深い暗闇の中を、俺はただ落ちていた。
全身の骨が粉々に砕け散り、筋肉は千切れ、内臓が破裂するような凄まじい激痛。しかし、それすらも遠い対岸の出来事のように、感覚がひどく鈍く、現実味を帯びていなかった。
圧倒的だった。俺がこのエルドラの世界で、自らの魂と引き換えにしてまで手に入れた絶対的な「力」。ガルディア帝国の黒魔法と融合し、伝説の黒騎士として君臨するための力。それが、あの東郷という狂った科学者が操るPM-ゼロギアの前に、文字通り赤子のように叩き潰されたのだ。
「俺は……電池だった……」
暗闇の中で、自嘲の笑みが漏れた。
誰よりも強くなりたかった。誰にも見下されない、絶対的な頂点に立ちたかった。そのために、俺は故郷である地球への帰還すらも捨て、帝国の実力主義に身を投じた。ルーファスやレオンといった強者たちと肩を並べ、数え切れないほどの血を流して強さを証明してきたはずだった。
だが、そのすべてが嘘だった。俺が振るっていた力は、俺自身のものではなく、あの東郷という男が次元の扉を開くために仕組んだ、ただのエネルギー回収システムの一部に過ぎなかった。
俺は強かったわけではない。ただ、与えられた水槽の中で、自分が一番大きな魚だと思い込んで威張っていただけの、滑稽なピエロだったのだ。
プライドも、存在意義も、すべてが根底から打ち砕かれた。
もう、立ち上がる理由なんてどこにもない。このまま意識を手放し、あのブラックホールに飲み込まれて消え去ってしまえば、このみじめな敗北感からも解放される。
泥のような疲労と絶望に身を委ね、目を閉じようとした、その時だった。
「お前の火力が頼りだ、副隊長。俺の背中は任せたぞ」
不意に、真っ暗な精神世界の中に、ひどく懐かしく、そして俺が最も聞きたくなかったはずの声が響いた。
ジン・クロサワの声だった。
なぜ今になって、あいつの声が聞こえる。
俺が一番憎み、一番殺したかった男。どんなに努力しても、どんなに血を吐くような訓練を重ねても、決して手の届かなかった壁。
記憶の底に分厚い蓋をして閉じ込めていた、地球の防衛軍時代の風景が、濁流のように脳裏に溢れ出してきた。
いつだって、雨が降っていた。
防衛軍の第十三訓練場。コンクリートがひび割れ、泥水が溜まったその場所で、俺は毎日限界まで体を痛めつけていた。PM-ギアの出力を最大まで引き上げ、模擬戦用の標的を次々と粉砕していく。息は上がり、全身から汗と血が噴き出しても、俺は決して止まらなかった。
誰よりも強い火力を。誰よりも速い殲滅を。
記録を更新し、教官たちが驚嘆の声を上げる。俺は自分が部隊で一番の最強だと信じて疑わなかった。
だが、ジン・クロサワは、いつも俺のさらにその先を行っていた。
あいつは、俺のように力任せに武器を振り回すようなことはしなかった。ただ静かに、息を吸うように自然な動作で、最小限のエネルギーと最短の軌道で標的を両断していく。
汗一つかかず、感情すら表に出さず、ただ淡々と、俺の出した記録を塗り替えていくのだ。
「ジンは天才だ。ヴォルフの粗削りなパワーじゃ、あの精密な剣術には勝てない」
周囲の隊員たちが囁くその言葉が、俺の心に呪いのように突き刺さっていた。
俺はあいつが憎かった。涼しい顔をして常に俺の前に立ち、俺を「永遠の二番手」へと追いやるあの背中が、どうしようもなく疎ましかった。俺はあいつを引きずり下ろすためだけに、強さを求めた。
しかし、本当に俺は、ジンを憎んでいたのだろうか。
意識の深淵で、もう一つの記憶が鮮明に蘇る。
あれは、地球の都市部で未確認生命体、今のエルドラで言う魔獣の大群と遭遇した日のことだ。
土砂降りの雨の中、俺たちは廃墟と化したビル群の中で完全に孤立していた。通信は途絶え、援軍の望みもない。四方八方から湧き出してくる怪物の群れを前に、俺のPM-ギアはオーバーヒートを起こし、ファフニールの銃身は熱でひしゃげかけていた。
「クソッ。動け。動けよ。こんなところで、俺が死んでたまるか」
弾切れを起こし、巨大な怪物の爪が俺の頭上に振り下ろされようとした、まさにその瞬間だった。
泥と血にまみれた白刃が、怪物の腕を瞬時に切り飛ばした。
ジンだった。
あいつの装甲もまた、無数の傷に覆われ、バッテリーは限界寸前だったはずだ。それなのに、あいつは俺の前に立ち塞がり、ただ一言、息を乱すことなくこう言ったのだ。
「立て、ヴォルフ。俺が前を斬る。お前は後ろを吹き飛ばせ。お前の火力が頼りだ、副隊長。俺の背中は任せたぞ」
その時の、あいつの背中の熱さを、俺は今でもはっきりと覚えている。
ジンは、俺を哀れんで助けたわけではなかった。俺を見下していたわけでもなかった。あいつは、生き残るために、俺の力を心底から必要としていたのだ。
泥に塗れ、血を吐きながら、俺たちは背中合わせで戦った。俺が後方の怪物をファフニールで粉砕し、ジンが前方の怪物をムラサメで両断する。言葉など一言も交わさなくても、互いの呼吸だけで死角を完全にカバーし合う、究極の連携。
あの極限の泥塗れの戦いの中で、俺の心を満たしていたのは、嫉妬や憎悪ではなかった。
ただ純粋な、あいつと共に戦えるという高揚感と、背中を預けられる絶対的な信頼感だったのだ。
「……そうか。俺は、あいつを憎んでいたんじゃない」
暗闇の中で、俺は自らの魂の最も奥底にあった、本当の感情にようやく気がついた。
俺はただ、ジン・クロサワという男に、誰よりも認められたかったのだ。
お前が一番強いと。お前がいなければ俺は生き残れなかったと、あの無表情な男の口から言わせてやりたかっただけだったのだ。
帝国で黒魔法という未知の力にすがり、あいつを圧倒しようとしたのは、ただの逃げだった。
泥塗れになって這い上がり、あいつと正面から並び立つための努力を放棄して、異世界の力という安易な近道を選んだだけだった。
俺が本当に手に入れたかった強さは、魔法なんかじゃない。
あの雨の降る廃墟で、弾切れになり、泥水をすすりながらも、決して折れることなく仲間のために立ち上がった、あの不屈の闘志こそが、俺がジンから学び、俺自身が証明したかった「本当の強さ」だったのではないか。
暗黒の精神世界に、一筋の光が差し込んだ。
その光は、帝国の赤黒い瘴気ではない。俺の魂そのものが放つ、純粋な闘争の熱であった。
「……こんなところで、寝ている場合じゃねえだろうが」
現実世界。
ブラックホールの超重力が吹き荒れ、PM-ゼロギアの放つ瘴気がすべてを融解させている中立地帯のクレーターの底。
ひび割れ、装甲のほとんどが剥がれ落ちた岩の陰で、巨大な鋼鉄の塊が、ミシミシと悲鳴を上げながらゆっくりと動いた。
「ガァ……アァァァァァッ」
全身の骨が擦れ合い、千切れた筋肉が悲鳴を上げる。痛覚が脳を焼き切るほどの激痛。
帝国の黒魔法と同調していた魔力回路は完全にショートし、PM-ギアはただの重たい金属の拘束具と化している。
だが、ヴォルフ・シュナイダーは、自らの血を噛み締めながら、砕けたファフニールの砲身を杖代わりにして、ゆっくりと、しかし確実に立ち上がった。
黒騎士としての威容を保っていた漆黒の追加装甲はボロボロに崩れ落ちている。その下から姿を現したのは、無数の傷が刻み込まれ、塗装が剥げ落ちた、地球の防衛軍に支給されたオリジナルの粒子金属装甲であった。
それは、彼が帝国で手に入れた虚飾の力ではない。地球で泥に塗れ、幾度となく死線を潜り抜けてきた、彼自身の本質の姿であった。
「……動け。動け、俺の体。魔力がねえなら、気合で動かせ」
ヴォルフはシステムのエラー画面が真っ赤に点滅するバイザーの奥で、ギラギラと燃える獣の瞳を見開いた。
彼は見た。
クレーターの中心で、悪魔のようなPM-ゼロギアが、その巨大な足を振り下ろそうとしているのを。
そして、その足の下で、たった一本の腕でそれを押し返している、見慣れた男の姿を。
ジン・クロサワ。
かつて共に背中を預け合い、そして異世界で道を違え、殺し合った男。
あいつは今、世界を滅ぼす狂気の魔王を前にして、たった一人で、あの時のように泥だらけになって立ち向かっている。
誰の力も借りず、ただ自分の意志だけで、世界の終焉という絶対的な絶望に反逆しているのだ。
「……相変わらず、一人で全部背負い込みやがって。そういうところが、昔っから気に食わねえんだよ、隊長」
ヴォルフの口元に、凶悪な、だがどこか吹っ切れたような笑みが浮かんだ。
もう、黒騎士の肩書きなどどうでもいい。東郷に電池扱いされた過去も、帝国での栄光も、今はどうでもよかった。
俺はただ、あいつの隣に立ちたい。
あいつが前を向くなら、俺はその後ろを吹き飛ばす。それが、俺たち防衛軍の流儀だったはずだ。
「システム、強制起動。魔力回路切断。……動力源、俺の命全部だ」
ヴォルフは、ファフニールの安全装置を物理的に引きちぎった。
魔力に頼るのではない。装甲内に残されたわずかな粒子エネルギーと、彼自身の生命力を直接火薬として点火させる、完全な自爆覚悟の強制駆動。
残骸となったファフニールの銃口から、赤黒い瘴気ではなく、青白いプラズマの火花が激しく散り始める。
ヴォルフは、砕けた足を引きずりながら、ブラックホールの引力に耐え、クレーターの底へと向かって一歩を踏み出した。
「待っていろよ、ジン。お前をぶち殺すのは、この俺だ。あんな狂ったジジイに、お前の首を横取りされてたまるかよ」
エルドラのすべてが崩壊していく大戦場の底で、一人の男が蘇った。
虚飾の力を捨て去り、泥塗れの記憶の中から真の誇りを取り戻した戦士。
ガルディア帝国の黒騎士としてではなく、地球防衛軍・特殊PM-ギア部隊副隊長、ヴォルフ・シュナイダーとして。
彼は今、かつての仲間の背中を守るため、絶対的な絶望へと向かってその銃口を向けた。




