第67話:断絶の記憶と絶対的破壊
振り下ろされるPM-ゼロギアの巨大な足。
数千トンの質量と、高密度に圧縮された次元エネルギーの奔流が、ジンの頭上へと迫る。その圧倒的な物理的暴力の奥底で、生体ケーブルを通じて機体の中枢と同化している東郷創一の脳内には、自らの魂を地獄へと決定づけた、最後にして最大の絶望の記憶が鮮明にフラッシュバックしていた。
学会から追放され、研究室を奪われ、社会的な地位のすべてを失った東郷。
それでも彼は、自宅の薄暗く埃っぽいガレージに引きこもり、たった一人で狂ったように研究を続けていた。
人類を救うという大義名分は、いつしか自分を否定した世界に対する自己証明の執念へとすり替わっていた。窓には新聞紙が貼られ、外の光を完全に遮断した空間の中、彼は白板を数式で埋め尽くし、時には奇声を上げながら金属部品を削り出した。
資金はとうの昔に底をついていた。研究機材を買い足すために家財を売り払い、親戚中から借金を重ね、ついには闇金にまで手を出した。
毎日のように鳴り響く取り立ての電話。ドアを乱暴に叩く音。
だが、東郷の耳にはそれらの騒音は一切届いていなかった。彼の意識は常に、次元の壁の向こう側にある無限のエネルギーの海にだけ向けられていた。
あと少しだ。あと少しで私の理論が実証される。この扉さえ開けば、すべての借金などゴミ屑同然になる。世界中が私に土下座して教えを乞い、私は人類の救世主として歴史に永遠にその名を刻むのだ。
その妄執だけが、栄養失調で骨と皮だけになった東郷の体を無理やり動かしていた。
そんなある、冷たい雨の降る夜のことだった。
ガレージの重たいシャッターが開き、冷たい隙間風と共に、二つの人影が入ってきた。
妻と、まだ幼い娘だった。
東郷は充血した目をぎらつかせ、油にまみれた手で妻に向かって笑いかけた。
「ああ、ちょうどいいところに来た。見てくれ、次元干渉波の位相を逆転させる数式がついに解けたんだ。これで私たちは……」
だが、妻の顔に笑顔はなかった。
かつて東郷の夢を誰よりも応援し、彼の才能を愛してくれていた彼女の瞳には、深い疲労と、そして得体の知れない恐怖が張り付いていた。
彼女の背後に隠れるようにして立っている娘もまた、東郷を直視しようとしない。怯えきった目で、ガレージの隅の影を見つめて震えている。
まるで、言葉の通じない恐ろしい怪物でも見るかのような目だった。
妻は無言のまま、油にまみれた作業台の上に、一枚の紙を置いた。
緑色のインクで書かれた、離婚届だった。
「……なんだ、これは。冗談だろう。私は今、歴史的な大発見の最終段階に……」
「もう、終わりにしてください」
妻の声は、完全に枯れ果てていた。感情の起伏すら喪失した、虚ろな声だった。
「あなたはもう、科学者ではありません。ただの、狂人です。私たちには、あなたが何を言っているのか、何を見ているのか、もう何もわからない」
東郷は必死に弁解した。人類の未来のためだ、君たちに最高の暮らしをさせるためだ、あと少しだけ待ってくれれば、世界が変わるのだと。
だが、妻は首を横に振った。
「私たちは、世界が変わることなんて望んでいなかった。ただ、普通に一緒にご飯を食べて、普通に笑い合えるお父さんがいてほしかっただけ。借金取りに怯えながら、暗い部屋で一人でブツブツと呪文のように数式を唱え続けるあなたと一緒にいるのは、もう限界なんです」
妻は、娘の手を強く握りしめた。
「この子は、夜も眠れなくなりました。あなたのことが、怖くてたまらないんです。お願いです、もう私たちに関わらないでください。私たちを、解放してください」
東郷は、娘の顔を見た。
一番愛していたはずの、そして一番自分のことを誇りに思ってくれていると信じていた娘。
彼女は、東郷と目が合った瞬間、ビクッと肩を震わせ、母親のコートの裾をきつく握りしめて、泣き出しそうな顔で顔を背けた。
その拒絶の仕草が、東郷の胸を鋭利な刃物で真っ二つに切り裂いた。
学会の重鎮たちに笑われた時よりも、何千倍も痛かった。
世界中の誰に否定されても、この家族だけは自分の理解者だと信じていた。自分の狂気じみた研究も、すべてはこの家族を幸せにするためという根源的な愛情から出発していたはずだった。
だが、その家族から「狂人」と断定され、明確な恐怖と嫌悪をもって切り捨てられたのだ。
彼らが求めていたのは、世界を救う偉大な科学者などではなく、ただの平凡な父親だった。東郷の見ていた壮大なビジョンは、家族にとってはただの悪夢でしかなかったのだ。
妻と娘は、振り返ることなくガレージを出て行った。
冷たい雨の音と、遠ざかっていく車のエンジン音だけが、ガレージに取り残された東郷の耳に響いていた。
完全なる断絶。
東郷は、油にまみれた床に膝をつき、声を上げて笑い始めた。
アハハハ。アハハハハハハハ。
狂ったような笑い声が、誰にも届くことなくガレージに反響する。
私を理解できない世界が悪いのだとずっと思っていた。だが、私の血を分けた家族すらも私を拒絶するというのなら、答えは一つしかない。
この世界そのものが、根本的に間違っているのだ。
平凡な幸せなどというちっぽけな幻想にすがり、真理から目を背ける愚かな人間ども。そんな無価値な生き物が這い回るこの世界など、存在し続ける意味がない。
その瞬間、東郷の精神は完全に人間としての境界線を越え、次元の魔王へと変質した。
私を拒絶した地球も、そのエネルギー源となる異世界も、すべてを衝突させて完全なる無へと還す。私からすべてを奪った宇宙の法則そのものを、私がこの手で終わらせてやる。
それが、狂気の科学者が到達した、究極の絶望の結論であった。
現在。エルドラの崩壊する大戦場。
PM-ゼロギアの内部で、過去の断絶の記憶を反芻した東郷の魂から、底知れぬ憎悪と悲しみの波動が爆発した。
生体ケーブルを通じて直結された巨大な赤いクリスタルが、かつてないほどの凶悪な明滅を繰り返し、限界を超えた出力を叩き出す。
「アァァァァァァァァァッ。消えろ。消え失せろ。私を一人にしたこの忌まわしい世界ごと、すべて永遠の暗黒に沈めええええええええっ」
東郷の絶叫が、ゼロギアの外部スピーカーから重低音の衝撃波となって戦場全土に放たれた。
ゼロギアの機体全体から噴き出していた赤黒い瘴気が、物理的な質量を持った破壊の津波となって全方位へと広がる。
ブラックホールの引力すらも局地的にねじ伏せるほどの圧倒的な次元エネルギーの奔流。
その津波が最初に直撃したのは、クレーターの周囲にわずかに残存していたガルディア帝国とルミナス王国の陣地の残骸であった。
皇帝ルーファスと宰相レオンが倒れ伏していた帝国の本陣。
そこにはまだ、数十台の重装甲魔導戦車と、数百人の近衛兵たちが固まって恐怖に震えていた。
だが、赤い瘴気の津波が到達した瞬間、鋼鉄の戦車は飴細工のようにドロドロに溶け落ち、兵士たちの肉体は一瞬で炭化して灰へと変わった。彼らの断末魔すら、瘴気の轟音にかき消されて誰の耳にも届かない。帝国の象徴であった黒い軍旗も、誇り高き実力主義の軍隊も、文字通り塵一つ残さずに空間から完全に削除された。
反対側のルミナス王国の本陣も同様であった。
聖王女エリアーナと賢者ルカの周囲に倒れていた聖騎士たち。彼らは最期の祈りを捧げようと手を組んでいたが、瘴気の波に飲まれた瞬間、その祈りの言葉ごと光の粒子へと分解され、無残に消滅した。神聖なる大理石の神輿の残骸も、治癒の魔法陣が刻まれた陣幕も、赤い波動によって原子のレベルまで引き裂かれ、虚無へと還元された。
二大国家がその存亡を懸けて激突した大戦場の痕跡は、東郷の狂気の記憶が引き起こした絶対的な破壊の波動によって、今、完全にこの世界から消し去られたのである。
破壊は陣地だけにとどまらなかった。
ゼロギアから放たれる次元の断層波と、上空で荒れ狂うブラックホールの超重力が最悪の相乗効果を生み出し、エルドラの大地そのものを物理的に崩壊させ始めたのだ。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴォォォォォォォッ。
地殻の底から、星そのものが断末魔の悲鳴を上げているかのような凄まじい地鳴りが響き渡る。
クレーターを中心に、大地に数キロメートルに及ぶ巨大な亀裂が縦横無尽に走る。何万年もの間、この世界を支えてきた強固な岩盤が、クッキーのように呆気なく砕け散り、巨大な地割れが周囲の山々を次々と飲み込んでいく。
地底深くから、数万度の超高熱を持ったマグマが間欠泉のように噴き出し、空へと向かって逆流していく。
ブラックホールの事象の地平はさらにその口を広げ、噴き出したマグマも、砕け散った山脈も、大気中の雲も、すべてを渦巻き状に飲み込み続けている。
光が歪み、空間がねじ曲がり、上下左右という方向の概念すらも消失しつつある終末の世界。
もはやそこには、魔法も科学も存在しない。
ただ、すべてを無に還そうとする狂気の魔王と、すべてを飲み込む漆黒の特異点だけが、この世界の絶対的な支配者として君臨していた。
そして、その絶対的な崩壊の中心で。
東郷の怨念と悲しみのすべてが込められたPM-ゼロギアの巨大な足が、這いつくばるジン・クロサワの小さな体を完全に押し潰そうと、音速を超える速度で振り下ろされようとしていた。
世界が完全に終わる、最後の一秒。
絶望の底の底で、次元の魔王の鉄槌が、今まさに帰還者の魂を完全に打ち砕こうとしていた。




