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第65話:崩れゆく希望と反逆の残り火

空という概念は、すでにエルドラの世界から失われていた。

頭上を覆い尽くすのは、すべてを飲み込み、押し潰す漆黒の特異点。光すらも逃れられぬその事象の地平は、巨大な渦を巻きながら大気を吸い上げ、大地をメリメリと剥がし続けている。

中立地帯のクレーター周辺は、もはや戦場と呼べるような場所ではなかった。

ガルディア帝国の十万の軍勢も、ルミナス王国の十万の兵士も、大半が宙へ巻き上げられ、ブラックホールの超重力によって赤い霧となって消滅した。辛うじて生き残っている者たちも、岩の裂け目や巨大な魔獣の死骸の陰に身を潜め、ただ終わりの時を待つことしかできない。

二大国家の頂点に立つ皇帝ルーファスや聖王女エリアーナたちですら、神を冒涜する次元の魔王、東郷創一が起動させた『PM-ゼロギア』の圧倒的な暴力の前に沈黙し、血の海に倒れ伏していた。

希望など、どこにもない。

エルドラという世界と、その向こう側にある地球という世界。二つの次元が物理的に衝突し、完全なる無へと帰ろうとしているのだ。

『ハァーッハッハッハッハ。心地よい。実に心地よい光景だ。愚かなる命が散り、その悲鳴が次元の果てへと消えていく。私の復讐を彩るには、最高の終幕だよ』

クレーターの底、融解してマグマの沼と化した赤茶けた荒野の中央で、全高十メートルの巨大な異形、PM-ゼロギアが漆黒の翼を広げて狂笑を響かせていた。

胸部に埋め込まれた赤いクリスタルが、周囲の絶望と死のエネルギーを貪欲に吸い上げ、機体の各所から噴き出す瘴気がさらに色濃くなっていく。

「ふざけ、るな……」

ブラックホールの引力が局地的に凪いでいるゼロギアの足元。砕け散った岩の陰から、ひしゃげた装甲を軋ませながら、一人の男が立ち上がった。

黒騎士、ヴォルフ・シュナイダー。

彼の纏うPM-ギアは、東郷の言葉によって「単なる魔力回収のための電池」と定義され、そのアイデンティティを完全に否定されていた。右腕の巨大な砲身ファフニールはひび割れ、装甲の隙間から火花が散っている。

「俺が……この俺が、お前みたいな狂ったジジイの掌の上で、踊らされていただと……。力こそがすべてだと信じて、這い上がってきた俺の人生が、ただの実験の過程だったと言うのか」

ヴォルフの口から、血の混じった唾液が吐き出される。

彼は地球の防衛軍時代、常に二番手として甘んじてきた。自分より強いジン・クロサワという存在を越えるため、エルドラで悪魔の力に手を染めてまで最強の力を手に入れた。その誇りが、彼をギリギリのところで支えていた。

「俺の力は、俺のものだ。誰にも奪わせねえ。誰の道具にもならねえ。俺は、俺の意志で、お前をぶち殺す」

ヴォルフはシステムのエラー音を完全に無視し、自らの肉体の生命力そのものを、無理やりファフニールの残骸へと直結させた。

機体の赤い魔力回路が、危険な臨界光を放つ。

『まだ動くか、黒騎士君。私の創り出したシステムの中で、随分と元気がいい。だが、所詮は私の設計した箱庭の中での力だ。私に届くはずがないだろう』

東郷の冷酷な嘲笑の中、ヴォルフは残されたすべての力を振り絞り、大空へ向けて咆哮した。

「消し飛べェェェッ」

ヴォルフの右腕から、かつてないほど巨大な赤黒い熱線が放たれた。それは、彼自身の命を燃やして放つ、文字通りの最後の一撃であった。

だが。

魔王は動かない。ゼロギアはただ、胸部の赤いクリスタルを鈍く光らせただけだった。

極大の熱線がゼロギアに激突する寸前、赤いクリスタルから放たれた瘴気の波動が、熱線をまるで風前の灯火を吹き消すように、音もなく霧散させてしまった。

「なっ……」

ヴォルフの瞳が、絶望に大きく見開かれる。

『言っただろう。お前たちのギアは、私のゼロギアにエネルギーを供給するための端末に過ぎない。端末が、ホストである神に牙を剥くことなど不可能なのだよ』

ゼロギアの巨大な裏拳が、無造作に振り抜かれた。

ドゴォォォォォォォォン。

物理的な質量と次元エネルギーが乗ったその一撃は、ヴォルフの巨体をいとも容易く捉え、クレーターの斜面へと文字通り叩きつけた。

「ガァァァァァァッ」

ヴォルフのPM-ギアは原型を留めないほどに完全に大破し、彼は吐血しながら岩盤にめり込み、そのまま意識を深い闇へと落としていった。

「ヴォルフ副隊長」

その凄惨な光景を見て、もう一人の戦士が立ち上がった。

白銀の装甲を纏う聖騎士、シオン・ミカゲである。

彼女の背後にあった天使の羽衣のような光のスタビライザーは失われ、装甲は泥と血にまみれていた。彼女が信じたルカの正義も、民を守るための祈りも、すべてがこの世界を滅ぼすための鍵として利用されていたという事実が、彼女の心をズタズタに引き裂いていた。

だが、それでも彼女の瞳から、完全に光が消えたわけではなかった。

「私の祈りが……この世界を滅ぼすためのものだったとしても。私が、ルカ様と出会い、彼を愛したこの気持ちだけは、絶対に偽りなんかじゃない」

シオンは、弾き飛ばされていた黄金の閃光騎槍ロンギヌスを拾い上げ、震える足で立ち上がった。

彼女の視線の先には、血の海に倒れ伏すルカとエリアーナの姿がある。

「これ以上、私の愛する世界を、人を、勝手な復讐で壊させはしない。私は、私の意志で、あなたを貫く」

シオンはロンギヌスを真っ直ぐに構え、限界を超えた推力を叩き出した。

超音速の突撃。いや、それは彼女の命を代償にした、光速の跳躍であった。

彼女の体が白銀の流星となり、ゼロギアの胸部にある赤いクリスタルへと真っ直ぐに突き進む。

『愚かな。まだ理解できないのか、お嬢さん。愛だの正義だの、そんな不確定な感情が、この絶対的なシステムを覆せるはずがないのだよ』

ゼロギアの四対の漆黒の翼から、赤いプラズマの刃が網の目のように放たれた。

シオンは空中でそのプラズマの弾幕を掻い潜り、ロンギヌスの穂先をクリスタルへと突き立てようとする。

だが、その切っ先がクリスタルに触れるコンマ一秒前。

ゼロギアの周囲に展開されていた次元の断層シールドが、ロンギヌスを完全に弾き返した。

ガキィィィィン。

黄金の槍が、根本から無残にへし折られる。

「ああっ……」

武器を失い、完全に無防備となったシオンの腹部を、ゼロギアの巨大な蹴りが容赦なく捉えた。

「ガハッ……」

シオンは肺から空気をすべて吐き出し、血の尾を引いて宙を舞い、ヴォルフの倒れる岩場の近くへと激突して転がった。

白銀の装甲は砕け散り、彼女もまた、ピクリとも動かなくなってしまった。

最強を誇った二人の戦士の、最後の足掻き。

それは、魔王と化した東郷の前に、あまりにも無力で、悲惨な幕切れであった。

『ハハハハ。見事な絶望だ。自分が信じていたものが、すべて無に帰す。その無力感こそが、私への最高の供物だよ』

東郷の狂笑が、ブラックホールの轟音と混ざり合い、この世の終わりの賛美歌のように響く。

その笑い声の下。

クレーターの斜面に這いつくばったまま、ピクリとも動かない男がいた。

天使の光輪と悪魔の漆黒が融合した異形の装甲、ジン・クロサワである。

彼は、立ち上がる気力すら完全に失っていた。

ヴォルフが叩き潰され、シオンが吹き飛ばされる光景を、ただ虚ろな目で見つめているだけであった。

彼の心は、東郷の告白によってすでに完全に破壊されていたのだ。

自分がこの九十日間、血を吐きながら守り抜いてきたもの。

妻のサエと、息子のリクの元へ帰る。その一つの目的のためだけに、彼は己の人間性を捨て、怪物を斬り伏せ、時には仲間にすら刃を向けてきた。

だが、その行動のすべてが、結果的に地球とエルドラを滅ぼすためのブラックホールを巨大化させるための「エネルギー充填」であったという事実。

自分が家族を愛し、家族のために戦ったからこそ、家族の頭上に死の暗黒を呼び寄せてしまった。

俺が、サエを。

俺が、リクを。

俺が、殺したんだ。

その絶対的な自己嫌悪と絶望が、ジンの思考を完全に白く塗り潰していた。

自分が生きている意味が、愛する者を殺す意味と同義であるならば、もう息をしていることすら許されない。

肉体の痛みなど、もはや何も感じない。ただ、心が、魂が、冷たく暗い深淵へと沈んでいくのを感じていた。

ジンのインナースーツの胸ポケットから、泥と血にまみれた一枚の写真が滑り落ちた。

かつて防衛軍の官舎の庭先で撮った、家族の写真。

それは、重力に従って地面へと落ち、ジンの目の前にある血溜まりの中へと、ポチャリと音を立てて沈んだ。

ジンの虚ろな視界の中で、サエとリクの優しい笑顔が、戦場の血によって赤く、不気味に染まっていく。

その光景は、彼自身の罪を鏡のように映し出しているようだった。

ああ、もう帰れない。帰る資格なんて、最初からなかったんだ。

ジンは目を閉じ、すべてを諦めようとした。

ズシン、ズシン。

地響きを立てて、巨大な魔王がジンの目の前へと歩み寄ってきた。

ゼロギアの巨大な影が、ジンの体をすっぽりと覆い隠す。

『どうした、ジン君。先ほどの元気はどこへ行った。二十万の軍勢を一人で足止めした、あの見事な執念は。君には本当に期待していたんだよ。私の計画をここまで完璧に遂行してくれた、最高の実験動物としてね』

東郷の嘲笑を含んだ声が、頭上から降り注ぐ。

ジンは目を開けることもなく、ただ沈黙していた。

『だが、もういい。君の役割は十分に果たされた。このブラックホールはもう誰にも止められない。あとは、この世界と一緒に、仲良く無に還るだけだ』

ゼロギアの巨大な右足が、ゆっくりと、無慈悲に高く振り上げられた。

『よくやったよ、ジン君。もう休め。すべては私の腹の中で、永遠に終わるのだから』

振り下ろされる、数千トンの質量と次元エネルギーを持った処刑の足。

それがジンの体を踏み潰せば、彼は一瞬の苦痛すら感じる暇もなく、肉片となって消え去るだろう。

ジンの心は、完全に死を受け入れていた。

もう、これでいい。自分の罪ごと、ここで終わらせてくれ。

血溜まりに沈む家族の写真を、最後にもう一度だけ見つめた。

血に染まり、歪んで見えるサエとリクの笑顔。

だが。

ジンの脳裏に、ふと、地球を出発する朝の記憶がフラッシュバックした。

『絶対、生きて帰ってきてね』

そう言って、泣きそうな顔で笑ってくれたサエ。

『パパ、お仕事がんばって。ずっと待ってるからね』

小さな手で、力強く抱きついてきたリク。

彼らは、待っている。

どんな姿になっても、どんなに血に汚れても、パパが帰ってくるのを、今もあの空の向こう側で信じて待っているのだ。

そうだ。

東郷の言う通り、俺が戦ったせいで、あのブラックホールが生まれたのかもしれない。

俺のエゴが、世界を滅ぼす引き金になったのかもしれない。

だとしたら。

だから死んで贖うのか。

だから諦めて、ここで押し潰されるのか。

違う。

そんなものは、ただの逃げだ。

俺のせいで世界が滅ぶというのなら。俺のエゴで家族に死の危機が迫っているというのなら。

俺が、この手で、お前を殺して。

あの空に開いた真っ黒な穴を塞いで。

這いつくばってでも、泥を啜ってでも、俺が責任を取って、サエとリクの元へ帰る。

それは、正義でもなんでもない。

極限まで煮詰まった、ジン・クロサワという人間の、どうしようもなく利己的で、強靭すぎる「生への執着」であった。

ドックン。

ジンの胸の奥で、完全に停止していた天使と悪魔の装甲のコアが、微かに、だが確かな脈動を打った。

それは、周囲の魔力素子に依存するものではない。ジン・クロサワという人間の、決して消えることのない意志の残り火が、魔力結晶に直接火をつけたのだ。

振り下ろされるゼロギアの巨大な足。

それがジンの体を粉砕する、まさにコンマ一秒前。

「……ふざけ、るな」

ガシィィィィィィィンッ!!!!

世界が、凍りついた。

東郷の目が見開かれる。

ゼロギアの数千トンの踏みつけが、空中で完全に停止していた。

ジンの左腕が、頭上に突き出されていた。

天使の光輪と悪魔の漆黒が融合したガントレット。そのたった一本の腕が、ゼロギアの巨大な足を、正面からガッチリと受け止めていたのだ。

『なっ……!? なぜだ、魔力は私が完全に支配しているはずだ! なぜお前の装甲が動く!』

東郷が驚愕の叫びを上げる。

ジンの足元の岩盤が、凄まじい圧力によってドーム状に陥没していく。

だが、ジンの左腕は一ミリも沈み込んでいなかった。

彼は、血溜まりの中に落ちていた家族の写真を、右手でそっと拾い上げた。泥と血を自らの胸にこすりつけて落とし、再びインナースーツの最も心臓に近い場所へと大切にしまい込む。

そして、ゆっくりと、頭を上げた。

バイザーの奥で、死んでいたはずのジンの瞳に、再び強烈な光が灯っていた。

それは、狂気じみた、しかしどこまでも澄み切った、帰還への絶対的な執念。

装甲の各所から、白青い次元エネルギーが、これまでとは全く異なる、純粋な意志の光となって噴き出し始める。

「お前の理屈など、知るか」

ジンの低く、地鳴りのような声が、ブラックホールの轟音を切り裂いて響いた。

「俺が世界を滅ぼす原因だというなら。俺が、俺自身でこの尻拭いをして、帰る。……お前をぶち殺してな」

ジンの左腕から爆発的なエネルギーが放たれ、ゼロギアの巨大な足が弾き飛ばされた。

東郷の狂気が、初めて恐怖という感情に触れた瞬間。

絶望の底で完全に消えかけたはずの反逆の残り火が、今、世界を焦がすほどの紅蓮の炎となって、再び燃え上がろうとしていた。

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