第64話:蹂躙される戦場
中立地帯の上空に開いた漆黒の特異点、ブラックホールがすべてを吸い込み、世界が絶叫を上げる中。
その絶対的な崩壊の中心であるクレーターの底に顕現した、全高十メートルを超える漆黒の威容。すべてのPM-ギアの原点にして究極のプロトタイプ、PM-ゼロギア。
胸部に埋め込まれた巨大な赤いクリスタルから放たれる圧倒的な次元エネルギーは、周囲の空間の物理法則を強引に上書きし、ブラックホールの超重力すらもゼロギアの周囲数十メートルにおいては完全に沈黙させていた。
『さあ、脆弱なる者どもよ。私の復讐の供物となれ。そして、この次元ごと、永遠の無へと帰るがいい』
東郷創一の、いや、人間を辞め次元の魔王と化した存在の重低音の声が、ゼロギアの外部スピーカーから戦場全体に轟き渡った。
振り上げられたゼロギアの巨大な右腕の掌に、極大の赤黒い瘴気が渦を巻いて収束していく。それは、魔法でもなく、物理的なエネルギーでもない。空間そのものを削り取り、無へと変換する純粋な破壊の概念の塊であった。
『まずは、目障りな塵芥から掃除してやろう』
魔王の腕が、無造作に、まるで羽虫を払うかのような軽い動作で横に振るわれた。
ズガァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!
掌から放たれた赤黒い瘴気の波動が、クレーターの斜面を駆け上がり、ブラックホールの引力に耐えかねて地面に這いつくばっていた両軍の残存兵力へと殺到した。
ガルディア帝国の重装歩兵たち、ルミナス王国の聖騎士たち。彼らは悲鳴を上げる間もなかった。
波動が通過した瞬間、分厚い鋼鉄の鎧も、魔法によって強化された肉体も、飛竜の巨体も、すべてが紙細工のように無抵抗に引き裂かれ、原子のレベルまで分解されてしまったのだ。
波動の軌道上にいた数千の命が、一滴の血を残すこともなく、文字通り空間ごとこの世界から完全に消滅した。後に残されたのは、ガラスのように滑らかに抉り取られた大地の巨大な爪痕だけである。
「な、なんだと……。ただ腕を振っただけで、我が軍の精鋭が……」
皇帝ルーファス・ヴァン・ガルディアは、そのあまりにも理不尽な破壊の光景を前に、自身の目を疑った。
彼が信奉してきた実力主義。力こそが絶対であり、強者が世界を統べるという帝国の真理。だが、目の前にある黒き魔王の力は、ルーファスが知るいかなる「力」の枠組みにも収まらない、神の領域の暴力であった。
「ルーファス! 見惚れている場合ではないぞ! あれは、この世界の魔力脈そのものを食い破って動く化物だ! 放置すれば、帝国どころか世界が完全に終わる!」
宰相レオン・バルバトスが、炎の楔で体を岩盤に固定しながら、血を吐くような声で叫んだ。彼の纏う真紅のローブは狂風に引き裂かれ、端正な顔立ちにはかつてない焦燥と恐怖が張り付いている。
「言われるまでもない……! 我がガルディアの誇り、異界の神もろとも打ち砕いてくれる!」
ルーファスは、持てるすべての魔力を解放した。
最強の黒魔術師である彼の足元から、底知れぬ漆黒の闇が間欠泉のように噴き出す。周囲の岩盤がドロドロに腐敗して沈み込み、ルーファスの手元に圧縮されていく。
「レオン! 合わせろ! 帝国のすべてをこの一撃に懸ける!」
「応ッ!」
レオンもまた、自身の生命力を削って極大の圧縮火炎を創り出した。空気をプラズマ化させる数万度の紅蓮の炎が、ルーファスの創り出した絶対的な腐敗の闇と融合していく。
光と熱、そして絶対の死。相反するはずの二つの極大魔法が、帝国を統べる二人の絆と威信によって奇跡的な融合を果たし、巨大な黒炎の竜となって顕現した。
「灰燼と化せ、異界の化物ォォォッ!」
ルーファスとレオンの咆哮と共に、黒炎の竜がクレーターの底に立つPM-ゼロギアへと向かって猛然と襲い掛かった。
それは、かつて彼らが旧貴族の城塞を消し飛ばした一撃すらも遥かに凌駕する、帝国史上最大の破壊魔法であった。黒炎の竜が通る軌跡は、大気が完全に消滅し、真空の裂け目が生まれるほどの威力。
だが。
『ふむ。少しはマシな花火を上げるではないか、現地の王よ』
魔王と化した東郷は、迫り来る帝国最強の魔法を前に、一歩も退くことなく、防御の姿勢すらとらなかった。
ただ、ゼロギアの胸部に輝く巨大な赤いクリスタルを、黒炎の竜に向かって無防備に晒しただけであった。
ズドォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
黒炎の竜がゼロギアの巨体に激突し、中立地帯全土を揺るがす大爆発が巻き起こった。
凄まじい熱量と腐敗の魔力がクレーターの底を包み込み、視界が完全に漆黒の炎によって遮られる。
「やったか……!」
レオンが荒い息を吐きながら、爆心地を凝視した。
いかなる装甲であろうと、今の魔法を正面から受ければ、分子レベルで崩壊を免れないはずだ。
しかし、その希望的観測は、次の瞬間に無残に打ち砕かれた。
『言ったはずだ。この機体は、お前たちのその魔力を直接喰らって動く神の器であると』
黒炎の渦の中から、ゆらりと、傷一つない漆黒の巨神が姿を現した。
ゼロギアの装甲には焦げ跡一つなく、それどころか、ルーファスとレオンが放った極大の魔力エネルギーが、胸部の赤いクリスタルへと滝のように吸い込まれていく光景があった。
彼らの放った必殺の魔法は、ゼロギアを破壊するどころか、逆にその稼働エネルギーとして完全に吸収され、魔王の力をさらに増幅させる結果にしかならなかったのだ。
「ば、馬鹿な……。我々の渾身の魔法が、完全に吸収されただと……!?」
ルーファスが絶望に顔を歪めた。
『さあ、お返しだ。お前たちのちっぽけな力を、次元の重圧で何万倍にも圧縮して返してやろう』
ゼロギアの胸部の赤いクリスタルが、不吉な明滅を繰り返した。
次の瞬間、クリスタルから放たれたのは、細い、しかし絶対的な密度を持った一筋の赤い閃光であった。
それは、魔法のような派手な爆発を伴わない。ただ純粋に、空間の座標を直線状に「削除」するだけの光。
「陛下ぁぁぁッ!」
レオンがルーファスを庇おうと、とっさに炎の盾を展開して飛び込んだ。
シュッ……。
音もなく、赤い閃光が二人を貫いた。
レオンの展開した炎の盾は、展開されたことすら認識できない速度と威力で貫通され、閃光はレオンの右半身と、ルーファスの左腕を、空間ごと完全に削り取った。
「ガ、アァァァァァァァッ!?」
「グァァァッ……!」
血しぶきが舞い、帝国を統べる若き皇帝と炎の宰相が、凄まじい衝撃波によって吹き飛ばされた。
彼らはクレーターの縁に激突し、そのままピクリとも動かなくなった。
あれほどまでに絶対的な力で君臨していたガルディア帝国の最高戦力が、魔王の放ったただの「一撃」の前に、赤子のように為す術もなく粉砕されたのである。
『ククッ……脆い。あまりにも脆い。これがこの世界を支配する力だというのか。呆れて反吐が出るな』
東郷の嘲笑が、ゼロギアの重低音と共に響き渡る。
その絶望的な光景を、反対側の陣地で見ていたルミナス王国のトップたちもまた、恐怖に震え上がっていた。
「なんという悪魔……。ルーファス皇帝たちの魔法を吸収し、あのような一撃で……。ルカ、私たちは、どうすれば……」
聖王女エリアーナが、崩れかけた神輿の上で膝をつき、祈りの手を震わせていた。
「諦めるな、エリアーナ殿下! 私たちがここで折れれば、民は本当に終わる!」
ルカ・エヴァンズが、血だらけになりながらも杖を握り直し、前に進み出た。
「あのゼロギアとやらが魔力を吸収するというのなら、吸収しきれないほどの絶対的な『拒絶』の概念をぶつけるまでだ! 殿下、私にあなたのすべての祈りを預けてください!」
エリアーナはハッと顔を上げ、強く頷いた。
「大いなる光よ……。どうか、この世界を滅ぼさんとする悪しき魂を、私たちの命に代えても封じ込めたまえ!」
エリアーナが自らの生命力を削り、純白のドレスを血に染めながら、かつてないほど純度の高い祈りを天へと捧げる。
ルカはその祈りを自らの魔力演算回路に直結させ、王国最高の神聖結界の構築を開始した。
「顕現せよ、真なる神の盾! 『アイギス・ルミナ・オメガ』!」
ルカの叫びと共に、ルミナス王国の陣地から、太陽の表面温度にも匹敵するような眩い黄金の結界が展開された。
それは防御のための盾ではない。ゼロギアという存在そのものを異物として認識し、空間ごと切り取って封印するための、絶対的な結界魔法。
黄金の光の立方体が、クレーターの底に立つゼロギアを包み込むようにして急速に収縮していく。
『ほう。今度は封印術か。私のシステムを物理的に隔離しようという魂胆か。小賢しい真似を』
ゼロギアの赤い眼光が、冷酷に光った。
結界の光がゼロギアの装甲に触れ、ジジジジッと激しい摩擦音を立てる。ルカとエリアーナの命を懸けた祈りが、魔王の瘴気を僅かに押し留めているように見えた。
「いける! このまま異空間の狭間へと隔離する!」
ルカが限界を超えた魔力を注ぎ込み、目や鼻から血を流しながら絶叫する。
しかし。
『無駄だと言っているのが、まだ理解できないのか。お前たちの神など、私の前ではただの幻影に過ぎない』
ゼロギアの背部に折り畳まれていた四対の悪魔の翼が、ゆっくりと展開された。
その漆黒の翼から、赤い瘴気と共に、次元の壁を削り取る特異な波動が放たれる。
『破れ』
東郷の短い命令。
ゼロギアが、包み込まれそうになっていた黄金の結界の内側から、巨大な拳を軽く振り上げた。
そして、その拳で、結界の壁面を「コン」とノックするように叩いた。
パァァァァァァンッ!!!!
ガラスが砕け散るような甲高い音と共に、王国最高の神聖結界が、文字通り木端微塵に粉砕された。
ルカの緻密な数式も、エリアーナの純粋な祈りも、ゼロギアの放つ圧倒的な次元エネルギーの質量差の前には、ただの薄氷でしかなかったのだ。
「あ、あぁ……私たちの、光が……」
結界が破壊された反動が、ルカとエリアーナに直接跳ね返る。
『目障りだ。消えろ』
ゼロギアの四対の翼から、赤いプラズマの刃が無数に放たれた。
それは雨のようにルミナス王国の陣地へと降り注ぐ。
「殿下ぁぁッ!」
ルカが身を挺してエリアーナを庇うが、無数のプラズマ刃は王国の神輿を粉々に粉砕し、二人を凄まじい爆発と共に吹き飛ばした。
神々しい黄金の輝きを放っていた王国の象徴は、無残な残骸となって荒野を転がり、ルカとエリアーナもまた、生死の境を彷徨いながら倒れ伏した。
沈黙。
圧倒的な暴力の前に、大戦場にいた二十万の軍勢の頂点に立つ者たちが、ものの数分で完全に沈黙させられた。
魔法というエルドラの絶対的な法則が、異次元の科学と魔力の悪魔的融合の前に、完全に敗北した瞬間であった。
クレーターの斜面。
その絶望的な蹂躙劇を、ブラックホールの引力に耐えながら這いつくばって見ていた三人のPM-ギア装着者たち。
ヴォルフは、自らが到底及ばない絶対的な「力」の顕現に、プライドを完全にへし折られ、ただ呆然と口を開けていた。
シオンは、信じていた光と祈りが無残に砕け散る様を目の当たりにし、光を失った瞳から止めどなく涙を流し続けている。
そして、ジン。
かつて、天使と悪魔の力を融合させ、二十万の軍勢を一人で足止めするという神話のような無双を見せた彼でさえも、今やその力は完全に失われていた。
彼が進化したのは、エルドラの魔力と同調したからだ。しかし、ゼロギアは周囲のすべての魔力を己の支配下に置いている。ジンの装甲のシステムは沈黙し、単なる重たい鉄の拘束具と化していた。
何よりも、愛する家族を自らの手で滅ぼす引き金を引いてしまったという真実が、彼の精神を完全に破壊し尽くしていた。
『アァーッハッハッハッハ! どうした、ジン君! 先ほどの勢いはどうした! 二十万の軍勢を前にしても一歩も退かなかった君の意志は、そんなものだったのか!』
ゼロギアが、ゆっくりとジンたちの方へと歩みを進めてくる。
ズシン、ズシンというその足音が、死のカウントダウンのように響く。
『魔法も通じない。お前たちのギアは私のシステムの劣化コピー。そして、何よりもお前たちの心は完全に折れている。……この世界にはもう、私を止める力など存在しないのだ!』
東郷の狂った笑い声が、崩壊する世界に轟き渡る。
二大国家の最高戦力を赤子のようにあしらい、上空のブラックホールを従える次元の魔王。
その圧倒的で絶望的な強さの前に、エルドラの歴史は今、完全なる終止符を打たれようとしていた。




