第62話:原初の鍵と暴かれた真実
ブラックホールの事象の地平が、エルドラの空を無慈悲に削り取っていく。
光すら逃れられぬ漆黒の特異点から放たれる超重力は、大地を巨大なすり鉢状に歪ませ、二十万の軍勢を蟻のように空へと吸い上げていた。
かつて中立地帯と呼ばれていた広大な荒野は、今や巨大なミキサーの中に入れられたかのように粉砕され、巻き上がる土砂と兵士たちの血肉が、禍々しい赤い星雲のような帯を作ってブラックホールの中心へと吸い込まれている。
ガルディア帝国の誇る飛竜も、ルミナス王国の神聖なる天馬も、物理法則が完全に崩壊したこの空間ではただの肉片に過ぎない。悲鳴を上げる間もなく圧縮され、次元の彼方へと消滅していく。
その地獄の底、クレーターの縁にへばりつくようにして、三人のPM-ギア装着者が必死に引力に耐えていた。
ジン・クロサワ、ヴォルフ・シュナイダー、シオン・ミカゲ。
互いの命を奪い合うために死力を尽くした三人は、今、共通の絶対的な絶望を前にして、武器を振るうことすらできず、岩盤に装甲を食い込ませてただ這いつくばることしかできないでいる。
「ハハハハ。素晴らしい、本当に素晴らしい。すべてが私の計算通りに圧縮され、特異点の質量は指数関数的に増大していく」
狂気の発信源である簡易要塞の残骸から、東郷創一の歓喜に満ちた声がスピーカーを通じて戦場に響き渡った。重力制御フィールドに守られた彼は、崩壊していく世界を特等席で見物する神のような優越感に浸り、血走った目をさらに見開いている。
「さて、死にゆく君たちに、せめてもの手向けとして真実を教えてあげよう。君たちが命を懸けて信じ、纏い、共に戦ってきたその兵器、PM-ギアの本当の姿をね」
東郷は、クレーターの斜面で身動きが取れない三人を見下ろしながら、ゆっくりと口を開いた。
「地球の防衛軍は、PM-ギアを未知の敵から人類を守るための最終兵器だと信じていた。装着者の思考波に呼応し、粒子金属が自在に形状を変化させる夢の装甲。だが、そんなものは表向きの口実に過ぎない。あれは兵器などではない。君たちが身に纏っているのは、次元の扉を開き、このブラックホールを産み出すために私が設計した、ただの『鍵』なのだよ」
「鍵、だと……」
ジンの掠れた声が、通信機を通して漏れた。
「そうだ。考えてもみたまえ。地球の科学技術だけで、装着者の生命力や精神とダイレクトにリンクし、この異世界で魔法という未知のエネルギーと融合して自己進化を遂げるような、オカルトじみた機械が作れるはずがないだろう」
東郷は自らの才能を誇示するように、両手を広げた。
「PM-ギアの動力源であるコア・ユニット。君たちはそれを、高効率の小型ジェネレーターだと教えられてきたはずだ。だが、その中身は機械ではない。私が何年も前に偶然観測した極小の次元の裂け目から、このエルドラの大地を構成する『魔力結晶』を削り出し、加工したものだ」
その言葉に、ヴォルフが息を呑み、シオンが絶句した。
「そう、最初から地球とエルドラは繋がっていたのだよ。私はその結晶をコアに組み込み、装着者の生体エネルギーと闘争心を餌にして、魔力結晶を成長させるシステムを構築した。それがPM-ギアの正体だ。君たちは兵器を着て戦っていたのではない。次元の扉を開くためのエネルギーを蓄積する、歩く培養炉として利用されていたのだ」
東郷の告白は、あまりにも残酷で、三人が信じてきたすべての前提を根底から覆すものであった。
「特に君たち三人は、私の実験において最高の被検体だった。地球からこの異世界へ転移したことで、ギアのコアは本来の環境である大地の魔力脈と直接リンクした。そして、君たちがそれぞれの信念に従って激しい戦いを繰り広げたことで、ギアは私の想像を超える完璧な鍵へと成長してくれた」
東郷は、這いつくばるヴォルフへと視線を向けた。
「黒騎士君。君は力こそがすべてだと信じ、ガルディア帝国の黒魔法をギアに取り込んだ。君の破壊衝動と他者を支配しようとする傲慢さは、ブラックホールの重力を形成するための最高の負のエネルギーとなった。君が強さを求めて暴れ回るほど、この特異点の質量は重く、凶悪に育っていったのだ。君の求めた絶対的な力は、最初から君のものではなく、私のシステムを回すための歯車でしかなかったというわけだ」
「ふ、ふざけるな……。俺の力が、偽りだっただと……。俺が積み上げてきたすべてが、お前の掌の上で踊らされていただけだとでも言うのか」
ヴォルフは、砕け散りそうなファフニールの残骸を抱えながら、ギリッと歯を食いしばった。
彼にとって、自らの実力で這い上がり、強者として君臨することこそが唯一の存在意義であった。地球の防衛軍時代に抱えていた劣等感を拭い去り、帝国で伝説の黒騎士として手に入れた無敵の力。ジン・クロサワを力で捻じ伏せるという悲願。
それらがすべて、狂気の科学者によって仕組まれたプログラムの一部であり、自らの闘争心すらも計算されたエネルギーの養分に過ぎなかった。
「俺は……俺はただの電池だったというのか。俺のプライドも、この痛みも、すべてお前の実験のためだったと言うのかァァァッ」
ヴォルフの咆哮は、重力に押し潰されて空虚に響き、彼の目からは屈辱と怒りに満ちた血の涙が流れ落ちた。彼が信じた力は、彼自身を最も惨めなピエロに仕立て上げるためのものでしかなかったのだ。
東郷の嘲笑の矛先は、次にシオンへと向けられた。
「そして、聖騎士のシオン君。君の役割もまた見事だった。ルミナス王国の白魔法と正義の祈りを取り込んだ君のギアは、この次元崩壊システムにおいて、崩壊の波長を安定させるための正のエネルギーとして機能した。君が誰かを守りたいと願い、愛する者のために祈りを捧げるたびに、ギアのコアは純度の高いエネルギーを吸収し、このブラックホールを開くための扉の枠組みを強固にしていったのだよ」
「そんな……私の祈りが……私がルカ様と共に信じた正義が、この世界を滅ぼす力になっていたというのですか」
シオンはロンギヌスの柄を握る手を震わせ、泣き崩れた。
彼女は、自らの剣が誰かを救うと信じていた。賢者たちに押し付けられた偽りの正義を打ち破り、真実の愛と平和のために戦った。その崇高な決意と祈りのすべてが、エルドラと地球の二つの世界を消滅させる特異点を完成させるための、欠かせない部品として利用されていた。
「私は、ルカ様を……王国の民を救いたかっただけなのに。私のせいで、みんなが……」
シオンの視界の端で、ルミナス王国の兵士たちが、彼女の守りたかった民たちが、悲鳴を上げながら次々と暗黒の空へ吸い込まれていく。彼女の祈りが純粋であればあるほど、世界を滅ぼすシステムは完璧に仕上がっていった。自分の存在そのものが世界への裏切りであったという事実が、彼女の精神を八つ裂きにし、立ち上がる気力すらも完全に奪い去った。
そして、東郷は最後に、最も深い絶望を押し付けるために、ジン・クロサワを凝視した。
「そして、ジン君。君こそが、この次元崩壊における最大の功労者にして、メインキーだ。帝国にも王国にも属さず、ただ家族の待つ地球へ帰るという異常なまでの執念。それは、二つの次元を強引に結びつけるための、最も強力なベクトルとなった。君のその天使と悪魔が融合したような装甲は、相反する力を無理やり一つにまとめ上げる君の精神の具現化だ。君がサエとリクのために血を流し、怪物を斬り伏せ、己の人間性を捨ててまで生き抜こうとしたその意志の強さが、この特異点を完成させる最後の引き金となったのだ」
ジンのインナースーツの中で、心臓が凍りつくような感覚が広がった。
息ができない。思考が完全に停止し、視界が明滅する。
「わかるか、ジン君。君が家族を愛し、家族のために戦えば戦うほど、地球を滅ぼすための爆弾に火薬を詰め込んでいたということだ。君が生き延びてしまったせいで、君の愛する妻子は、このブラックホールに飲み込まれて死ぬのだ。お前が、お前の家族を殺したのだよ」
「あ、ああ……」
ジンの口から、言葉にならない掠れた音が漏れた。
九十日間の地獄。
睡眠もとらず、泥水を啜り、自分の肉が削れる痛みにも耐えてきた。かつての部下であるヴォルフを叩き落とし、シオンを泣かせ、数え切れないほどの命を奪ってきた。
そのすべては、ただ一つ。妻のサエと、息子のリクの笑顔をもう一度見るためだった。自分が地球へ帰り、彼らを抱きしめるためだった。
だが、真実はあまりにも残酷だった。
自分の戦いのすべてが、家族の頭上に死の暗黒を呼び寄せるための儀式だったのだ。自分が強くなればなるほど、愛する家族の命の砂時計を早めていた。
自分が生きるために振るった刃は、結果的に家族の喉笛を掻き切るためのものだった。
「俺が……サエを、リクを……」
ジンの瞳から、絶望の色に染まった大粒の涙がぼろぼろと溢れ落ち、バイザーの内側を濡らした。
装甲を握る右手の力が抜け、身の丈を超える白青い光の太刀がカランと音を立てて岩盤に転がった。
彼の精神の支柱であった家族への愛が、そのまま家族への殺意へと反転させられた。人間の心が耐えられる限界を遥かに超えた精神的負荷が、ジンの自我を完全に崩壊させようとしていた。
胸の奥にしまっていた家族の写真を取り出すことすらできない。今の自分には、あの笑顔を見る資格すらないのだと、深く真っ暗な自己嫌悪の淵へと沈んでいく。
「アハハハハハ。素晴らしい。力に溺れた者の絶望。正義を信じた者の絶望。そして、愛に生きた者の絶望。君たちのその無様な顔こそが、私にとって最高の報酬だ」
東郷は、三人の完全に破壊された心を見下ろし、狂喜の笑い声を上げ続けた。
「君たちがどれほど足掻こうと、この特異点の崩壊はもう止められない。だが、ただ座して世界の終わりを待つのは退屈だろう。私から君たちへ、最後の余興をプレゼントしよう」
東郷は、コンソールの奥にある隠しパネルを操作した。
「君たちが育て上げたこのエネルギーのすべてを取り込み、私自身が次元を統べる神となる。地球では莫大なエネルギーを要求しすぎて起動すら叶わなかった、PM-ギアの真の原点。今ここに、目覚めの時だ」
地下要塞の床が重々しい駆動音と共に開き、そこから底知れぬ瘴気と赤黒い光が噴出し始めた。
それは、絶望に打ちひしがれる三人にとって、さらなる地獄の釜の蓋が開いたことを意味していた。
ブラックホールの超重力が吹き荒れる中、血を流す戦いのすべてを無意味に変えられた帰還者たちは、ただ迫り来る絶対的な終焉を前に、虫の息で這いつくばることしかできなかった。




