第61話:漆黒の絶望と狂気の告白
空を貫いていた純白の光の柱が、中心から染み出したインクのように一瞬にして絶対的な漆黒へと反転した。
それは単なる光の不在ではない。光という概念すらも逃れることのできない、高質量の牢獄。次元の崩壊点に生じた特異点、ブラックホールであった。
ズゴォォォォォォォォォォォォォォッという、大気が悲鳴を上げるような轟音が世界を支配する。
数秒前まで、二十万の軍勢は空に映し出された未知の平和な世界の風景に見惚れ、剣を下げていた。魔法という概念を超えた神聖な奇跡の光に、すべての者が争いを忘れ、静寂の只中にあった。
しかし、その静寂は文字通り根こそぎ吸い上げられた。
クレーターの縁に堆く積まれていた数万の魔獣の死骸が、重力の枷を外されたかのように空へ向かって巻き上げられていく。体長数十メートルの巨大な岩の竜の死骸でさえ、漆黒の渦の引力に抗うことはできず、空中で無残に引き裂かれながら事象の地平へと飲み込まれていった。渦に触れた瞬間、あらゆる物質は原子レベルで粉砕され、赤い霧となって消滅していく。
「な、なんだこれは。体が浮く。助けてくれ、誰か助けてくれえええっ」
最前線にいたガルディア帝国の重装歩兵が、巨大な戦斧を取り落とし、空を掻き毟りながら悲鳴を上げた。だが、その悲鳴すらも上空の渦に吸い込まれ、誰の耳にも届かない。鋼鉄の重鎧を着こんでいるにもかかわらず、彼の体はふわりと宙に浮き、次の瞬間には凄まじい速度で上空の暗黒へと吸い込まれていった。
彼だけではない。王国の聖騎士たちも、帝国の獣人兵たちも、為す術もなく次々と空へ舞い上がっていく。彼らは互いに手を伸ばし合い、あるいは地面の岩にしがみつこうとするが、岩盤そのものが引力によってメリメリと剥がれ落ち、兵士たちごと空へ吸い込まれていくのだ。
「隊列を維持しろ。防壁魔法を展開しろ。上空の魔力異常を相殺するのだ」
ルミナス王国の若き賢者ルカが、聖王女エリアーナを守るために必死に声を張り上げ、杖から黄金の結界魔法を展開する。しかし、展開された傍から結界の光の粒子が上空へと吸い取られ、防壁は紙のように薄く引き伸ばされて霧散してしまう。
「駄目です、ルカ。魔力そのものが、あの黒い穴に吸い込まれていきます。私たちの祈りが、届きません」
エリアーナが、純白のドレスの裾を激しい風に煽られながら、絶望に満ちた声で呟いた。彼女の乗る神輿すらも、ミシミシと不吉な音を立てて浮き上がろうとしている。
ガルディア帝国側も同様の地獄絵図であった。皇帝ルーファスは持てる最大の黒魔法を大地に打ち込み、自らの周囲の重力を強制的に操作してその場に留まっていたが、彼の背後に控えていた魔導砲兵団や巨大なゴーレムたちは、次々と空へと吸い上げられていった。
「おのれ、あれが異界の力だというのか。我が帝国の武すらも通じぬというのか」
ルーファスの顔には、かつてないほどの屈辱と焦燥が浮かんでいた。宰相レオンもまた、自らの体を地面に固定するために炎の楔を岩盤に打ち込み、必死に引力に耐えている。
戦場を飛び回っていた数千の軍用飛竜たちは、羽ばたきという物理法則を完全に無視され、鳴き声すら上げる間もなく巨大な漆黒の渦へと飲み込まれていった。
空が引き裂かれ、大地が砕け、二十万の命がゴミのように宙を舞う。
それはまさしく、世界の終焉という言葉に相応しい光景であった。
その圧倒的な崩壊の中心、クレーターの縁で、ジン・クロサワは天使と悪魔の装甲の推力を全開にして地面に張り付いていた。
彼の傍らでは、ヴォルフが進化したファフニールの重量を錨代わりにして地面に突き立て、シオンもまたロンギヌスを岩盤に深く突き刺してしがみついている。二人の最高戦力でさえ、この超重力の前では吹き飛ばされないようにするのが精一杯であった。
ジンの視界には、ほんの数十秒前まで、妻のサエと息子のリクが笑いかけている平和な地球の光景が広がっていた。
過酷なサバイバルを生き抜き、血を吐きながらも守り抜いた希望。その希望が、今、目の前で真っ黒な絶望の渦へと塗り潰されていく。
「東郷。どうなっている。地球への扉じゃなかったのか。なぜ空間が崩壊している。答えろ、東郷。今すぐシステムを停止しろ」
ジンは、轟音に負けじと通信機に向かって絶叫した。
インナースーツの下で心臓が早鐘のように打ち鳴らされている。あの光の向こうに家族がいる。今すぐあの黒い渦を消し去り、再び光の道を取り戻さなければならない。
しかし、要塞の奥から返ってきたのは、ジンの必死の叫びを嘲笑うかのような、異様な音声だった。
フ、フフッ。
ハ、ハハハハ。
アァーッハッハッハッハッハッハ。
スピーカーから漏れ出したのは、これまでの飄々とした理知的な天才科学者のものとは全く異なる、底知れぬ怨念と、狂気に満ちた高笑いであった。
その笑い声は、崩壊する戦場の地響きや兵士たちの悲鳴すらも超えて、ジンの耳に呪いのように突き刺さった。
「停止。なぜ停止しなければならない。教えてくれよ、ジン君。なぜ私が、この完璧な芸術作品を止めなければならないんだ。座標など狂っていない。エネルギーの奔流も、空間の崩壊も、すべては私の計算通りだ。寸分の狂いもなく、このシステムは完全に、美しく動作している」
クレーターの底、崩壊しかかった簡易要塞の防弾ガラスが内側から吹き飛び、東郷創一がその姿を現した。
白衣は乱れ、白髪交じりの髪は狂風に煽られて振り乱され、その目は血走って異常な光を放っている。彼は上空のすべてを飲み込むブラックホールを恍惚とした表情で見上げ、両手を広げて神の奇跡を讃えるように狂喜していた。周囲の岩石が吸い上げられていく中、東郷の立つ要塞の中心部分だけは、何らかの重力制御装置によって保護されているのか、無風状態のように保たれていた。
「東郷。貴様、最初から地球へ帰る気などなかったというのか」
ジンは戦慄と共に太刀を構え直した。先ほどまで家族の幻影を見て緩みかけていた心は急速に冷え込み、代わりに底知れぬ怒りと恐怖が湧き上がってくる。
「帰還。家族との再会。ククッ、傑作だね、ジン君。君は本当に、私の描いた劇の最高の道化だよ」
東郷は首を奇妙な角度に曲げ、クレーターの縁で這いつくばるジンを見上げて冷酷に笑った。その顔は、もはや人間のそれではなく、知性を備えた悪魔の顔であった。
「地球へ通じる扉など、最初から開くつもりはなかった。私の目的は、この忌まわしい異世界エルドラと、私を否定した地球の次元を物理的に衝突させ、すべてを無に還すことだ。両世界を対消滅させることこそが、私の究極の実験であり、復讐なんだよ」
東郷の口から飛び出したのは、帰還の希望を根底から打ち砕く、次元崩壊の真実であった。
彼は狂ったように笑い続け、その声は上空のブラックホールが放つ引力波に同調するように、ジンたちの精神を直接削り取っていく。
「復讐だと。地球とエルドラを滅ぼすことが、貴様の復讐だと言うのか。一体何のために」
ジンが怒号を飛ばす。
東郷は両手をだらりと下げ、その血走った目をカッと見開いて、過去の怨念を吐き出し始めた。
「私は天才だった。人類が到達できない次元の真理を、一人で解き明かしたのだ。地球の枯渇しゆくエネルギー問題を完全に解決できる、異空間からのエネルギー抽出理論。それを学会で発表した時、あの凡人どもは私をどう扱ったと思う。危険すぎる、実証不可能だ、オカルトだと嘲笑い、私を学会から永久追放したのだ。私の研究室を奪い、すべての名誉を剥奪した。人類の進化の扉を開こうとした私を、彼らは恐れ、疎外したのだ」
東郷の顔が、憎悪で醜く歪む。
「だが、それだけならまだ我慢できた。私が最も許せなかったのは、私の妻と娘だ。私が研究に没頭し、すべてを失った時、彼女たちは私を支えるどころか、私を精神異常者扱いした。あなたはおかしい、もうついていけないと、氷のような冷たい目で私を見下し、私を一人残して出て行った。私の人生を、私の存在そのものを、一番近くにいたはずの家族が否定したのだ」
東郷の言葉に、ジンは息を呑んだ。
「わかるか、ジン君。君がさっき、あの光の向こう側に家族の幻影を見て、涙を流していた姿が、私にとってどれほど滑稽で、どれほど腹立たしい喜劇に見えたか。君は家族のために命を懸けた。だが私は、家族に命を懸けた結果、捨てられたのだ。私からすべてを奪ったあの愚かな地球という世界に、帰る理由などあるものか。あの冷たい目をした家族のいる世界に、私が戻る場所など存在しないのだ」
ジンの胸の中にあった、サエとリクの笑顔が、東郷の呪詛のような言葉によって黒く塗り潰されていく感覚に襲われた。
生きて帰る。その強靭な意志だけで、この地獄のようなエルドラを生き抜いてきた。どんなに傷ついても、どんなに手を血で染めても、帰りを待つ家族がいると信じていたからこそ、ジンは悪魔の装甲を纏うことができたのだ。
だが、東郷は全く逆だった。家族に拒絶されたという絶望が、彼を狂気に駆り立て、世界を滅ぼす悪魔へと変貌させた。
ジンの希望と、東郷の絶望。それは完全に裏返しの鏡であった。
「だから私は、復讐することにしたのだ。私を否定した地球の人間どもすべてに、私が正しかったことを、彼らが理解できなかった力の恐ろしさを、その身に刻み込ませてやる。そして、その原因となったこのエルドラという忌まわしい異空間のエネルギー源もろとも、すべてを消し去る。私のこの手で、二つの世界に完全なる死を与えてやるのだ」
「ふざけるな。お前一人の身勝手な逆恨みで、関係のない人間たちを、俺の家族を巻き込むな。今すぐブラックホールを閉じろ、東郷ォォォォッ」
ジンは太刀を振りかざし、クレーターの斜面を駆け下りようとした。だが、上空からの圧倒的な引力がそれを許さない。一歩踏み出せば、彼自身がそのまま空へと吸い上げられてしまうほどの重力異常が、周囲の空間を完全に支配していた。
「関係のない人間だと。ハハハハ。この世界に無関係な人間など一人もいない。お前たち防衛軍の連中も同じだ。私が基地ごとこの世界へ転移させたのは事故ではない。すべては私の計画通りだったのだからな」
東郷は、残酷な真実をさらに突きつける。
「私が何故、君たちPM-ギアの部隊をこのエルドラに送り込んだか、わかるか。君たちがこの世界で戦い、生き残ろうと必死に足掻くこと自体が、私の計画には必要不可欠だったのだ。君のその家族への執着、絶対に諦めないという強靭なエゴがあったからこそ、このエルドラの大地から限界を超える次元エネルギーを汲み上げることができた。君は私にとって、このブラックホールを生み出すための、ただの生体バッテリーだったというわけだ」
その言葉は、ジンがこの九十日間、血を吐きながら守り抜いてきたすべての意味を、根底から否定するものであった。
愛する家族の元へ帰る。そのために、かつての仲間を傷つけ、悪魔の装甲を纏い、地獄を歩んできた。ジンは自分がこの世界で生き抜くために戦っていると信じていた。
だが、その希望は最初から存在しなかったのだ。
自分が戦えば戦うほど、エルドラの魔力を吸い上げ、二つの世界を滅ぼすための爆弾を巨大化させていただけだったというのか。自分の家族への愛が、家族のいる地球を滅ぼす引き金になっていたというのか。
「う、あ……あぁぁぁぁぁぁっ」
ジンは、頭を抱えて絶叫した。
天使と悪魔の装甲が、装着者の絶望と怒りに呼応して危険なノイズを上げ、白青い次元エネルギーが暴走を始める。装甲の表面に亀裂が走り、赤黒い血のような光が漏れ出す。
だが、もはやその力が向かうべき明確な敵は、目の前には存在しなかった。すべては巨大なブラックホールに吸い込まれ、世界が崩壊していくただ中にあった。
「アハハハハハ。泣け。絶望しろ。お前の愛する家族も、地球も、このエルドラの連中も、すべて等しく無に還るのだ。私が、新たな世界の創造主となるのだからな」
東郷の狂気の笑い声が、崩壊する大戦場に響き渡る。
上空のブラックホールはさらにその引力を増し、クレーターの周囲の岩山が根元からへし折られて次々と吸い込まれていく。
ガルディア帝国の十万の兵、ルミナス王国の十万の兵。彼らの誇りも、魔法も、信念も、すべてがこの超重力の前には無力であり、ただの塵として消滅していく。
大地が剥がれ落ち、空が引き裂かれ、光すらも失われた絶対の暗黒が世界を包み込もうとしていた。
ジンは、崩れゆく大地に這いつくばりながら、インナースーツの胸の奥にしまっていた家族の写真に手を伸ばした。
だが、その手は震え、力が入らない。
希望から絶望への、あまりにも残酷な反転。
世界を滅ぼそうとする狂気の科学者と、すべてを失い絶望に染まった帰還者。
開かれた漆黒の扉の下で、次元の終焉という絶対的な絶望が、エルドラの世界を完全に飲み込もうとしていた。
「俺は……俺はただ……帰りたかっただけなのに……」
ジンの掠れた声は、ブラックホールの轟音と東郷の狂笑にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。
ただ、絶望の暗闇だけが、彼を深く、どこまでも深く沈めていく。




