第60話:開かれる門、狂気の産声
それは、世界が最も美しい奇跡に包まれた、ほんの数秒間の出来事であった。
中立地帯のクレーターの底。堅牢な簡易要塞の最深部で、無数のモニターが放つ青白い光に照らされながら、天才科学者・東郷創一は、コンソールの中央に設置された最終起動スイッチの前に立っていた。
彼の指先は、極度の興奮と歓喜によって小刻みに震えている。
外の戦場では、天使と悪魔の装甲を纏ったジン・クロサワが、二十万の軍勢をたった一人で足止めするという神話のような偉業を成し遂げていた。
大戦場で流されたおびただしい血と、大気中に散乱する魔力の残滓、そしてエルドラの大地の奥底から汲み上げられた莫大な環境エネルギー。それらがすべて、このクレーターの中心に立つ次元観測機へと滝のように流れ込んでいる。
「システム、臨界点突破……。次元座標、固定。空間断層の突破シークエンス、開始」
東郷は、まるで愛する我が子を撫でるかのように、その赤いスイッチをゆっくりと押し込んだ。
ゴォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
鼓膜を突き破るような次元の鳴動と共に、観測機から立ち上っていた青白い光柱が、一瞬にして眩い純白の閃光へと変貌し、エルドラの天を覆う分厚い暗雲を強引にこじ開けた。
直径数十メートルに及ぶ巨大な光のトンネルが、遥か宇宙の果てまで届くほどの質量を伴って形成される。
その圧倒的な光の奔流は、戦場に満ちていた殺気や憎悪、そして死の臭いをすべて浄化するように中立地帯全土を照らし出した。
そして、その光の渦の向こう側に、確かに「景色」が現れた。
それは、魔法も魔獣も存在しない、ただの鉄とアスファルトで覆われた平和な世界。ジンの故郷である地球、日本の風景であった。
どこまでも続くコンクリートの道路、夕日に照らされた高層ビル群、見慣れた交通標識。
その景色の中に、幻影のように浮かび上がる二つの人影があった。
防衛軍の官舎の庭先で、こちらに向かって優しく微笑む妻のサエ。
そして、「パパ、早く帰ってきて」と無邪気な声を上げながら、小さな手を力いっぱい振っている息子、リクの姿。
クレーターの縁で、両軍の兵士たちの前に立ちはだかっていたジンは、その美しくも懐かしい光景を前に、ゆっくりと光の太刀を下げた。
極寒の氷のように張り詰めていた彼のバイザーの奥の瞳から、熱い涙が溢れ出す。
過酷なサバイバル、かつての部下たちとの殺し合い、血と泥にまみれた九十日間の地獄。自分が悪魔になってでも帰りたかった場所が、今、手を伸ばせば届くところにある。
「サエ……リク……!」
帰れる。ついに、自分の居場所へ。
ジンの胸を、狂おしいほどの希望と歓喜が満たした。
両軍の兵士たちもまた、武器を下ろして空を見上げていた。
魔法という概念が存在しない、未知の文明の風景。皇帝ルーファスも、聖王女エリアーナも、そして地に伏していたヴォルフやシオンでさえも、次元の扉が開かれたという神聖な奇跡を前に、言葉を失い、完全に戦意を喪失していた。
希望。
誰もが、新たな歴史の始まりと、争いの終わりをその光に幻視した。
だが、彼らは知らなかった。
その希望の光は、最も残酷な絶望を際立たせるための、悪趣味な舞台照明に過ぎなかったということを。
要塞の内部。
東郷創一は、モニターに映し出された地球の風景を見つめながら、口元を三日月のように吊り上げていた。
「ああ、美しい。本当に美しいよ、ジン。君のその家族への執着が、地球の次元座標をこれほどまでに鮮明に固定してくれた。……だが、開かれた扉は、くぐり抜けるためのものとは限らないのだよ」
東郷の狂気に満ちた囁きと共に、要塞のメインモニターに表示されていた「次元安定率」の数値が、突如として真っ赤な警告色に染まり、急速にゼロに向かってカウントダウンを始めた。
警告音が鳴り響く中、東郷はコンソールに隠されていたもう一つの黒いスイッチを、躊躇なく、そして歓喜の絶頂と共に叩き割るように押し込んだ。
「反転!!」
その瞬間であった。
ジンの視界に映っていた地球の景色、微笑む妻と息子の姿が、突如として砂嵐のようなノイズに塗れ、グニャリと不気味に歪んだ。
「……え?」
ジンが間抜けな声を漏らした直後。
純白に輝いていた光の渦の中心に、ぽっかりと「黒い染み」のようなものが生じた。
その黒い染みは、インクが水に溶けるように瞬く間に広がり、天を貫いていた神聖な光の柱を、一切の光を透過させない絶対的な漆黒へと塗り替えてしまった。
それは、光のトンネルではない。
周囲のあらゆる物質、光、音、そして空間そのものを貪欲に吸い込み、限界まで圧縮して圧壊させる超重力の特異点。
次元の崩壊によって生み出された、絶対的な死の天体、ブラックホールであった。
ズゴォォォォォォォォォォォォォォッ!!!!!
先ほどまでの静寂が嘘のように、世界が絶叫を上げた。
上空に発生した巨大なブラックホールから、規格外の引力波が放たれる。
クレーターの縁に積まれていた数万の魔獣の死骸が、重力を無視して空へと巻き上げられ、漆黒の渦の中へと吸い込まれていく。死骸が渦の事象の地平に触れた瞬間、ミキサーにかけられたように原子レベルで粉砕され、赤い霧となって消滅する。
「な、なんだこれは! 体が……浮く!」
「助けてくれぇぇぇッ!」
前線にいた帝国兵や王国兵たちが、為す術もなく空へと吸い上げられ始めた。重厚な鎧を着ていようが、飛竜に乗っていようが関係ない。圧倒的な引力の前に、二十万の軍勢の陣形は一瞬にして崩壊し、兵士たちはパニックに陥って逃げ惑うが、地面を這いつくばって岩にしがみつくのが精一杯であった。
重装甲のゴーレムが空を舞い、軍用飛竜が羽ばたきを無効化されて悲鳴を上げながら黒い穴へと飲み込まれていく。
王国の黄金の神輿も、帝国の魔導戦車も、引力によってひしゃげ、宙に浮き上がろうとしていた。
皇帝ルーファスが渾身の黒魔法で自らの足を大地に固定し、ルカがエリアーナを守るために必死に結界を張るが、それすらもブラックホールの圧倒的なエネルギーの前には紙切れのように脆かった。
「どうなっている……! 地球への扉じゃなかったのか! なぜ空間が崩壊している!」
ジンは、天使と悪魔の装甲の推力を全開にして地面に張り付きながら、背後の要塞へと向かって絶叫した。
「東郷! 何が起きた! ゲートの座標が狂っているぞ! 今すぐシステムを停止しろ!」
返答はない。
だが、要塞の分厚い防弾ガラスの奥で、モニターの青白い光に照らされた東郷のシルエットが、不自然なほど静かに、そしてゆっくりと揺れていた。
彼は、震えていた。
恐怖ではない。絶望でもない。
腹の底からこみ上げてくる、ドス黒い笑いを堪えきれずに、肩を激しく震わせていたのだ。
「……ハッ。フフッ……アハハハハハハ!」
スピーカーから漏れ出したのは、これまでの飄々とした理知的な天才科学者のそれとは全く異なる、底知れぬ怨念と、狂気に満ちた高笑いであった。
「アァーッハッハッハッハ! 停止? なぜ停止しなければならない! 座標など狂っていない。エネルギーの奔流も、空間の崩壊も、すべては完璧だ。私の計算した通り、寸分の狂いもなく、このシステムは完全に動作している!」
バァァァァァンッ!!
要塞の防弾ガラスが内側から吹き飛び、東郷創一がゆっくりと歩み出てきた。
白衣は乱れ、髪は振り乱され、その目は血走って異常な光を放っている。彼は上空のすべてを飲み込むブラックホールを恍惚とした表情で見上げ、両手を広げて神の奇跡を讃えるように狂喜していた。
「東郷……! 貴様、最初から地球へ帰る気など……!」
ジンが戦慄と共に太刀を構え直した。先ほどまで家族の幻影を見て緩みかけていた心は、急速に冷え込み、代わりに底知れぬ怒りと恐怖が湧き上がってくる。
「帰還? 家族との再会? ククッ……傑作だね、ジン君。君は本当に、私の描いた劇の最高の道化だよ!」
東郷は首を奇妙な角度に曲げ、ジンを見下ろして冷酷に笑った。その顔は、もはや人間のそれではなく、知性を備えた悪魔の顔であった。
「地球へ通じる扉など、最初から開くつもりはなかった。私の目的は、この忌まわしい異世界エルドラと、地球の次元を物理的に衝突させ、すべてを『無』に還すことだ!」
東郷の口から飛び出したのは、帰還の希望を根底から打ち砕く、次元崩壊の真実であった。
彼は狂ったように笑い続け、その声は崩壊する戦場の地響きをも超えて、ジンの耳に呪いのように突き刺さる。
「君のその家族への執着、絶対に諦めないという強靭なエゴがあったからこそ、このエルドラの大地から限界を超える次元エネルギーを汲み上げることができた。君は私にとって、このブラックホールを生み出すための、ただの『生体バッテリー』だったというわけだ!」
その言葉は、ジンがこの九十日間、血を吐きながら守り抜いてきたすべての意味を、根底から否定するものであった。
愛する家族の元へ帰る。そのために、かつての仲間を傷つけ、悪魔の装甲を纏い、地獄を歩んできた。
だが、その希望は最初から存在しなかったのだ。
自分が戦えば戦うほど、エルドラの魔力を吸い上げ、二つの世界を滅ぼすための爆弾を巨大化させていただけだったというのか。
「う、あ……あぁぁぁぁぁぁっ!」
ジンは、頭を抱えて絶叫した。
天使と悪魔の装甲が、装着者の絶望と怒りに呼応して危険なノイズを上げ、白青い次元エネルギーが暴走を始める。
だが、もはやその力が向かうべき敵は、帝国の軍勢でも王国の兵士でもなかった。
「アハハハハ! 泣け! 絶望しろ! 世界は私の手によって終わるのだ!」
東郷の狂気の笑い声が、崩壊する大戦場に響き渡る。
上空のブラックホールはさらにその引力を増し、クレーターの周囲の岩山が根元からへし折られて吸い込まれていく。
二十万の命がゴミのように宙を舞い、大地が剥がれ落ち、空が引き裂かれる。
希望から絶望への、あまりにも残酷な反転。
世界を滅ぼそうとする狂気の科学者と、すべてを失い絶望に染まった帰還者。
開かれた漆黒の扉の下で、次元の終焉という絶対的な絶望が、エルドラの世界を完全に飲み込もうとしていた。




