第59話:降臨する調停者
光の柱が天を貫くクレーターの縁。
血と泥に塗れ、数万の魔獣の死骸が堆く積まれたその絶望の頂で、天使と悪魔の力を融合させた異形の装甲兵、ジン・クロサワは静かに立っていた。
彼の纏う進化したPM-ギアから放たれる白青い次元エネルギーの波動は、周囲数十メートルの空間に存在するエルドラの魔力素子を、文字通り「完全に沈黙」させていた。
黒魔法を絶対とするガルディア帝国の十万の軍勢も、白魔法の奇跡を信じるルミナス王国の十万の軍勢も、その圧倒的な次元の重圧の前に、誰一人として動くことができない。魔法による肉体強化を強制的に解除された兵士たちは、重たい鎧の重量に耐えかねて次々と地面に膝をつき、恐怖に引き攣った顔で巨大な光の柱と、それを守護する悪魔のような帰還者を見上げていた。
「……ジン。貴様、その姿はなんだ。三ヶ月の間に、一体何を取り込みやがった」
沈黙を破ったのは、帝国の最前線で膝をつくのを必死に堪えていた黒騎士、ヴォルフ・シュナイダーであった。
彼の纏う漆黒と赤銅色のPM-ギアは、帝国の魔力脈と完全に同調し、かつてないほどの出力を誇っていたはずだった。しかし今、ジンの放つ白青い波動に触れた装甲は激しいノイズを上げ、赤黒い魔力回路が明滅を繰り返し、機能不全の悲鳴を上げている。
「ジン隊長……。あなたのその力は、もう人間の領域を超えてしまっている。これ以上、その次元の力に呑まれれば、あなたは本当に化け物になってしまう!」
王国の最前線で、黄金のロンギヌスを杖代わりにして立ち上がった聖騎士、シオン・ミカゲが悲痛な声で叫んだ。
彼女の背後に展開されていた天使の羽衣のような光のスタビライザーも、ジンの放つ波動の前にその輝きを著しく失っている。
「化け物で構わない」
ジンの声は、通信機を通しているにもかかわらず、極寒の氷の底から響いてくるような、絶対的な無機質さを帯びていた。
「俺はヒーローじゃない。お前たちの世界を救う気もなければ、帝国の野望を挫く気もない。ただ、あの光の向こう側にある俺の家に帰る。そのために必要なのが化け物の力なら、俺は喜んで悪魔にでもなってやる」
ジンは右手に握った身の丈を超える白青い光の太刀を、ゆっくりと肩に担ぎ上げた。
装甲の隙間から、次元の壁を削る際に生じる絶対零度の冷気が噴出し、周囲の血だまりを一瞬にして凍結させていく。
「東郷がゲートを完全に固定するまで、俺はここを動かない。……この線を越える者は、誰であろうと平等に斬る」
ジンの冷酷な宣告は、二十万の軍勢に対する明確な死の通告であった。
「舐めるなよ、ジン・クロサワァァァッ!」
ヴォルフが、恐怖と劣等感を怒りで塗りつぶし、大地を蹴り砕いて突進した。
ジンの波動によって魔力は阻害されているが、ヴォルフの進化した装甲そのものが持つ異常な機械的膂力は健在である。彼は距離を一気に詰め、右腕の巨大な竜の顎、ファフニールの砲身を直接ジンの顔面へと叩き込もうと振り被った。
重力魔法の補助がなくとも、数十トンの破壊力を生み出す純粋な質量の暴力。
「消し飛べ!」
ヴォルフの強烈な一撃が、ジンの頭部を捉えようとした瞬間。
ゴァッ!
鈍い衝撃音が響き、ヴォルフの巨体が空中で完全に静止した。
ジンが、左手のガントレットで、ヴォルフの渾身の振り下ろしを「正面から片手で」受け止めたのだ。
「なっ……!?」
ヴォルフの瞳が、信じられないものを見るように見開かれる。
激突の余波でジンの足元の岩盤が粉々に砕け散り、巨大なクレーターの縁がさらに陥没するほどの衝撃。しかし、それを受け止めたジンの左腕は、ただの一ミリも沈み込んでいなかった。
「お前の装甲はエルドラの魔力を食いすぎた。だから、魔力が消えればただの重たい鉄屑に成り下がる」
ジンが冷たく言い放つと同時に、彼の左手から爆発的な白青い光が噴出した。
「ガァァァァァッ!?」
次元エネルギーの衝撃波が、ヴォルフの巨体をいとも容易く吹き飛ばす。ヴォルフは何十メートルも地面を削りながら転がり、帝国の前衛部隊の中に激突してようやく停止した。
「ジン隊長! 私も行きます!」
ヴォルフが吹き飛ばされた隙を突き、死角からシオンが超音速の突撃を仕掛けた。
彼女は残されたすべての魔力をPM-ギアのスラスターに変換し、魔法の無効化領域を速度だけで強引に突破する。一切の空気抵抗を無視した、光の跳躍。
黄金のロンギヌスの切っ先が、ジンの心臓を寸分の狂いもなく捉える。
かつてのジンであれば、この速度を見てから躱すことは不可能であり、予測と経験による決死のカウンターで凌ぐしかなかった。
しかし。
「シオン。お前の剣は相変わらず綺麗すぎる。だから、軌道が読まれる」
シオンの放った絶死の閃光は、ジンの胸部装甲に届くコンマ一秒前で、完璧に停止させられた。
ジンが、右手に持った光の太刀の峰で、ロンギヌスの側面を信じられないほどの精密さで打ち据えたのだ。
ギィィィィンッ! という甲高い金属音が響き、シオンの手からロンギヌスが弾き飛ばされる。
「あっ……!」
武器を失い、完全に無防備となったシオンの懐に、ジンが音もなく踏み込んだ。
そして、左手の掌底をシオンの腹部装甲に軽く押し当てた。
「フッ」
短い呼気と共に放たれた浸透勁の衝撃が、装甲を透過してシオンの肉体を直接打ち据える。
「あぐっ……!」
シオンは肺の空気をすべて吐き出し、くの字に折れ曲がってクレーターの斜面を転げ落ちていった。
殺してはいない。ただ、完全に戦闘能力を奪うための冷徹な一撃。
両軍の最高戦力であり、圧倒的な進化を遂げていたはずのヴォルフとシオンの二人が、わずか数秒の間に、文字通り子供のようにあしらわれたのである。
大戦場に、絶望的な沈黙が落ちた。
西の帝国軍の旗艦である魔導戦車の上で、皇帝ルーファスが忌々しげに舌打ちをした。
「……あれが、異世界から来た兵器の真の姿だとでも言うのか。私の黒魔法すら、あの波動の前では展開する前に霧散させられる。あのような規格外の怪物がいては、我が帝国の軍勢十万をもってしても、あの光の柱に辿り着くことは不可能だ」
最強の黒魔術師である彼でさえ、ジンの放つ次元エネルギーの密度の前に、自らの無力さを悟らざるを得なかった。
東の王国軍の陣地でも、エリアーナとルカが青ざめた顔で戦場の中心を見つめていた。
「なんという悲しい力……。あれは、愛する家族の元へ帰りたいという一つの純粋な祈りが、あの人の心を完全に凍りつかせ、悪魔に変えてしまった姿なのですか……」
エリアーナが、胸の前で震える手を組みながら涙を流す。
ルカもまた、悔しげに杖を握りしめた。
「シオンですら手も足も出ない。あのジン・クロサワという男の執念は、この世界のどんな魔法よりも、どんな権力よりも重く、そして恐ろしい」
戦場にいる二十万の誰もが理解した。
ジン・クロサワという男は、今、この世界で最も強く、そして最も孤独な存在であると。
「……ハァッ……ハァッ……」
吹き飛ばされたヴォルフが、ひしゃげた装甲を軋ませながら、再び立ち上がった。
彼のプライドが、この圧倒的な敗北を許さなかった。
「ふざけ、るな……。俺が、あのジンの野郎に、手も足も出ないだと? そんなこと、あってたまるか! 俺はこの世界で、一番強くなったはずなんだ!」
ヴォルフはシステムのエラー音を無視し、右腕のファフニールに残されたすべての魔力を強制的に直結させた。装甲の各所から装甲板が吹き飛び、限界を超えた熱量が彼の肉体を直接焼き始める。
自爆すら厭わない、狂気のフルチャージ。
「死ねェェェッ! ジン・クロサワァァァッ!」
ヴォルフの右腕から、先ほどとは比べ物にならないほどの、空間を完全に消滅させるほどの巨大な赤黒い熱線が放たれた。
それは、魔法無効化の領域すらも強引に力で焼き尽くし、一直線にジンへと迫る。
だが、ジンの顔に焦りはなかった。
彼は巨大な白青い光の太刀を、静かに正眼に構えた。
背中の天使の光輪が極限まで発光し、悪魔の漆黒の装甲がその光を吸収して、刃へと全エネルギーを集中させる。
「俺は帰る。……そのためなら、世界ごと両断してやる」
ジンが、一歩前に踏み込み、太刀を真っ向から振り下ろした。
起動コマンドなど必要ない。
それは、かつて装甲をパージして放っていた必殺のムラサメを、次元のエネルギーによって常時展開可能にした、究極の次元断層刃であった。
パァァァァァンッ!!
ジンの振り下ろした刃が、ヴォルフの放った極大の熱線の「中央」を、文字通り真っ二つに切り裂いた。
プラズマの熱線はジンの刃に触れた瞬間、左右に綺麗に分断され、彼の背後にあるクレーターの両側の岩盤を吹き飛ばすのみで、ジン自身には熱一つ届かない。
「なっ……俺の最大出力のファフニールが、斬られた……!?」
ヴォルフが絶望の声を上げる。
ジンは熱線の奔流を切り裂きながら、一切の減速なしにヴォルフの目の前まで迫っていた。
そして、太刀の峰を、ヴォルフのPM-ギアの胸部、魔力のコアユニットがある部分に向かって、音速を超える速度で叩き込んだ。
ガゴォォォォォォォォンッ!!!!
「ガハァッ……!」
これまでの打撃とは次元の違う、機体の深部まで完全に破壊する決定的な衝撃。
ヴォルフの巨体はクレーターの底へと真っ逆さまに落下し、赤茶けた荒野に巨大なクレーターを穿って、ピクリとも動かなくなった。
PM-ギアの赤黒い魔力回路は完全に消灯し、システムは完全に沈黙した。
完全なる敗北。
帝国が誇る伝説の黒騎士は、そのすべての力とプライドを粉々に打ち砕かれ、地に伏したのである。
「ヴォルフ副隊長……!」
離れた場所で倒れていたシオンが、その光景を見て悲痛な声を上げた。
彼女もまた、もはや立ち上がることすらできない。
ジンは太刀を振り下ろした体勢のまま、ゆっくりと体を起こした。
帝国軍十万。王国軍十万。
そして、その頂点に立つ両軍の最高戦力である二人を、ただ一人で、一歩も退くことなく完全に無力化してのけたのだ。
大戦場は、もはや恐怖すら通り越し、絶対的な神の威光にひれ伏すような完全な静寂に包まれていた。
兵士たちの武器が手から滑り落ち、カラン、カランという虚しい音が荒野に響く。
もはや、誰もジンの前に進み出ようとする者はいなかった。
二十万の軍勢が、たった一人の男の圧倒的な暴力と執念の前に、完全に心を折られたのである。
「……終わったか」
ジンは白青い光の太刀を霧散させ、肩で大きく息をしながら、背後のクレーターの底、光の柱が立ち上る簡易要塞へと振り返った。
東郷が次元の最終シークエンスを進めているはずだ。
彼らに残された時間は、もうない。
二十万の軍勢の足止めという、不可能と思われた地獄のミッションは、ジンの超常的な力によって今、完全に完遂されたのである。
ジンは血に塗れたガントレットでバイザーの汚れを拭い、愛する家族の待つ地球の景色が映し出されているであろう、上空の巨大な光の渦へと視線を向けた。
だが、彼がそこで見たものは。
希望に満ちた故郷の景色ではなく。
純白の光の渦の中心で、墨汁を垂らしたように急速に広がり、すべてを吸い込み始めた、絶望的な漆黒の特異点。
ブラックホールの誕生であった。
「……な、なんだあれは……!」
ジンが驚愕で目を見開いたその時。
背後の要塞の中から、これまで聞いたこともないような、狂気に満ちた天才科学者の高笑いが戦場に響き渡った。
絶望への扉が、今、開かれようとしていた。




