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第56話:静寂の終わり

エルドラ大陸のへそとも呼ばれる巨大な中立地帯。その中心に穿たれた底無しのクレーターから天に向かって、次元の壁をこじ開けるための莫大な魔力の光柱が、静かに、だが圧倒的な質量を伴って立ち昇っていた。

周囲の空間は極度のエネルギー集中によって陽炎のように歪み、大気中の塵がプラズマ化してチリチリと青白い火花を散らしている。天には分厚い暗雲が渦を巻き、まるで世界そのものが、この異物の存在を拒絶して悲鳴を上げているかのようだった。

「素晴らしい……。聞こえるか、ジン。次元座標の固定、および環境魔力の充填率、九十九点九九パーセントを突破した。ゲートの最終チューニングが、ついに完了する」

クレーターの中心に構築された簡易要塞。その厚い防弾ガラスの奥で、無数のモニターの青白い光に照らされながら、東郷創一が震える声で歓喜の宣言を行った。

彼の白衣は三ヶ月間の不眠不休の作業で汚れきり、目の下には深いクマが刻まれていたが、その瞳孔は異常なほどに拡大し、狂気じみた達成感の光に満ち溢れていた。

地球とエルドラ。全く異なる二つの宇宙の法則を強引に結びつけ、空間に風穴を開けるという神をも恐れぬ大実験が、今まさに完成の時を迎えようとしていたのである。

「……ああっ、美しい。この数式の羅列、この魔力の奔流。人類が、いや、私が宇宙の真理に到達した瞬間だ。さあ、ジン。最終シークエンスの起動準備に入る。君はそこで、歴史の目撃者となるがいい」

東郷の熱狂的な声がスピーカーから響く中、要塞の外壁に背を預けて座り込んでいたジン・クロサワは、その言葉に歓喜するでもなく、ただ静かに息を吐いた。

周囲の赤茶けた荒野には、この三ヶ月間で彼がたった一人で屠り続けてきた、数千、数万に及ぶ超弩級の現地怪物の死骸が、巨大な山となって連なっている。風が吹くたびに、濃密な血の匂いと腐臭が鼻を突く。

それは、一人の人間が成し遂げたとは到底思えない、神話の殺戮者のような光景であった。

だが、ジンの心には達成感も、力に酔いしれる傲慢さも存在しなかった。ただ、鉛のように重い疲労と、研ぎ澄まされた極限の虚無感だけがある。

ジンは、自らの血と怪物の体液で黒く染まった左手のガントレットをゆっくりと外し、インナースーツの胸元から、一枚の古びた写真を取り出した。

防衛軍の官舎の庭で撮った、家族の写真。

妻のサエの優しい笑顔と、息子リクの無邪気な瞳。写真の端は擦り切れ、何度となく流した自らの血が滲んで赤黒い染みを作っている。

「……もうすぐだ」

ジンのひび割れた唇から、掠れた声が漏れた。

このエルドラの世界に転移してからの日々は、あまりにも長く、そして過酷だった。

未知の怪物たちとの生存競争。帝国と王国という二つの巨大な狂気との接触。そして、かつて背中を預け合った仲間たちとの、殺し合い。

地球の防衛軍で副隊長を務め、誰よりも強さを求めていたヴォルフ。彼は帝国の黒魔法と実力主義に魅入られ、最狂の修羅と化して立ち塞がった。

正義感に溢れ、真っ直ぐすぎた若きエース、シオン。彼女は王国の白魔法に縛られ、偽りの大義のために涙を流しながら槍を向けてきた。

ジンは、彼らを説得することも、救うこともしなかった。

自分はヒーローではない。世界を救う気もなければ、友の目を覚まさせるために立ち止まる気もない。

ただ、サエとリクの元に生きて帰る。その絶対的な一点の目的のために、彼らを斬り伏せ、大地の魔力を抉り出し、何百万の命が犠牲になるかもしれないこの次元崩壊の引き金を、自らの手で引こうとしているのだ。

ジンは視線を落とし、自らの纏う異形の装甲を見つめた。

天使の光輪と、悪魔の漆黒の外殻。三ヶ月間の死闘と魔力吸収の果てに、環境魔力と同調して極限の自己進化を遂げたPM-ギア。もはや地球の兵器の面影はなく、装着者であるジンの強烈なエゴと殺意を具現化した、災厄の象徴のような姿である。

自分が、すでに人間としての境界線を越え、怪物に成り果ててしまっていることはわかっていた。

地球に帰った時、サエとリクは、血に濡れた悪魔のようなこの姿を見て、微笑んでくれるだろうか。自分を、かつての夫として、父親として受け入れてくれるだろうか。

不意に胸を過ったその一抹の恐怖を、ジンは無意識のうちに奥歯を噛み締めて握り潰した。

「……どんな姿になろうと、俺は帰る。這いつくばってでも、泥を啜ってでも」

ジンは写真を再び胸の奥深くにしまい込み、冷たい装甲のヘルメットを被った。

システムが起動し、バイザーに無数の戦術データが青白く表示される。そして同時に、生体センサーが、クレーターの東西から迫り来る「規格外の絶望」を捉え、けたたましい警告音を鳴らし始めた。

「……来るか」

ジンが立ち上がったその時、クレーターの外縁を包んでいた分厚い静寂が、大地そのものを揺るがす地鳴りによって完全に打ち砕かれた。

西の空を、漆黒の絶望が覆い尽くしていた。

分厚い暗雲を引き裂いて姿を現したのは、数千匹に及ぶ巨大な軍用飛竜の群れである。その眼下、赤茶けた荒野を地平線の彼方まで埋め尽くしているのは、黒一色の軍服と重厚な鋼鉄の鎧を纏った、ガルディア帝国の十万の軍勢であった。

反逆の芽であった旧貴族たちを完全に粛清し、内部の腐敗を一掃した帝国軍は、もはや一切の迷いや足並みの乱れを持たない、一つの巨大な殺戮機械と化していた。

彼らの進軍の足音が響くたびに、大地が恐怖に震える。

陣形の先頭、巨大な漆黒の魔導戦車の甲板に立つのは、皇帝ルーファス・ヴァン・ガルディア。彼の放つ底知れぬ魔力のプレッシャーは、十万の軍勢全土に行き渡り、兵士たちの闘争心を異常なまでに沸騰させていた。

その傍らには、周囲の空気を歪めるほどの圧縮火炎を纏った炎の宰相レオン。

そして、前衛部隊の先陣を切って歩を進めるのは、禍々しい竜の顎のような巨大魔導砲を備え、赤黒い魔力回路を極限まで発光させている進化したPM-ギアの装着者、黒騎士ヴォルフ・シュナイダーであった。

「クハハッ……待たせたな、ジン!」

ヴォルフの歓喜と殺意に満ちた咆哮が、数キロの距離を隔ててクレーターの底まで響き渡る。

「大地の魔力は我が帝国のものだ! 貴様のその狂った野望もろとも、俺の新しいファフニールで、この世界から跡形もなく消し飛ばしてやる!」

一方、東の地平線からは、西の漆黒とは完全な対極をなす、神々しいまでの光の波が押し寄せてきていた。

眩い黄金の軍旗を翻し、純白の天馬に跨った騎士団を先頭に進軍してくるのは、ルミナス王国の十万の軍勢である。

腐敗した賢者たちによる洗脳支配から解放された王国軍の兵士たちの瞳に、かつての虚ろな光はない。彼らは自らの意志で剣を握り、愛する家族と故郷を守るため、そしてこの世界を滅ぼそうとする悪魔の扉を閉ざすために、死を恐れぬ覚悟で歩みを進めていた。

天高く響き渡るのは、数万の兵士たちが自発的に歌う、美しくも悲壮な聖なる賛美歌である。

陣形の中央、光の結界に守られた純白の神輿の上には、聖王女エリアーナが両手を胸に組んで祈りを捧げ、その傍らで若き賢者ルカが冷静に全軍の指揮を執っている。

そして、軍の最前線で黄金に輝く閃光騎槍ロンギヌスを構え、白銀の天使のような装甲を煌めかせているのは、シオン・ミカゲであった。

「ジン隊長……」

シオンのバイザーの奥の瞳は、悲しみを乗り越え、澄み切った決意に満ちていた。

「あなたの家族への想いは、誰よりも痛いほどわかります。でも……あなた一人のために、この世界の人々を犠牲にすることは、絶対に間違っている。私は私の信じる正義のために、あなたを止めます!」

大地の魔力脈を独占し、新たな次元の力を手に入れて覇権を握ろうとする実力主義のガルディア帝国。

世界を崩壊の危機から救い、真の平和と秩序を取り戻そうとするルミナス王国。

そして、その二十万の軍勢が交差する地獄の中心で、ただ一人、家族の待つ地球へ帰るための次元ゲートを開こうとする孤独な帰還者。

相容れない三つの強烈な意志が、中立地帯のクレーターに向けて猛然と収束していく。

東郷がゲートの最終シークエンスの起動スイッチに指をかけるのと同時に、帝国軍の放つ黒魔法の砲撃と、王国軍の放つ白魔法の光の矢が、空を二つに裂きながら激突した。

天地が反転するような爆音と閃光。

歴史上最大規模の全面戦争の火蓋が、ついに切って落とされたのである。

嵐の前の静寂は完全に破られた。

ジンは、東西から雪崩を打って迫り来る二十万の軍勢を見据え、悪魔と天使の力が融合した光の太刀を横に振り抜いた。

装甲の隙間から、次元の壁を削る極寒の冷気が噴出する。

「……来い。一人残らず、俺の帰還の礎にしてやる」

世界が終わりを迎える開戦の咆哮の中、狂気と信念が入り乱れる最後の地獄が、今、幕を開けた。

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