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第55話:天使と悪魔の装甲

世界を二分する二大国家、ガルディア帝国とルミナス王国がそれぞれ内部の膿を出し切り、来るべき全面戦争に向けてその狂気と結束を研ぎ澄ませていた三ヶ月間。

彼らの政治的暗闘や権力闘争など、この男にとっては全く無価値な出来事に過ぎなかった。

中立地帯、巨大クレーターの底。

かつてジン・クロサワとヴォルフ・シュナイダーが激突し、大地の魔力脈を物理的に抉り出したそのすり鉢状の荒野は、今やエルドラ大陸において最も呪われ、最も魔力密度の高い地獄の釜と化していた。

クレーターの中心では、天才科学者である東郷創一が構築した簡易要塞と巨大な次元観測機が、不気味な駆動音を絶え間なく響かせている。大地の奥底から汲み上げられた莫大な環境魔力が、地球の次元座標とリンクするためのエネルギーとして空へ向かって照射され、上空には常に禍々しい極光が渦を巻いていた。

この異常なまでの魔力の奔流と、次元の壁が削られる際に生じる特異な波動は、エルドラの生態系の頂点に君臨する恐るべき捕食者たちを無数に引き寄せる結果となった。

超弩級の現地怪物たち。

かつてジンたちが地球から転移して間もない頃、部隊の半数を一瞬にして壊滅させたような、天災にも等しい巨大魔獣の群れが、魔力の匂いに狂わされ、日夜を問わずこのクレーターへと殺到し続けていたのである。

東郷が次元ゲートの最終チューニングを終えるまでの三ヶ月間、すなわち九十日。

ジン・クロサワはたった一人で、この絶望的な防衛戦を戦い抜いていた。

休息など存在しない。睡眠はPM-ギアの生命維持装置に組み込まれた強制的な中枢神経への電気刺激と、高濃度の戦闘用薬物によって数十分の浅い気絶を繰り返すのみ。食料は倒した魔獣の肉をギアのシステムで強引にペースト状の栄養素に変換し、チューブで胃に流し込むだけという凄惨なサバイバルである。

幾度となく装甲は砕かれ、肉は裂け、血を流し、死の淵を彷徨った。

通常の人間であれば、いや、百戦錬磨の特殊部隊員であっても、三日と持たずに発狂して自ら命を絶つか、怪物の胃袋に収まっていたであろう過酷すぎる環境。

だが、ジンは決して倒れなかった。

愛する妻サエと、息子リクの待つ地球へ帰る。ただその一つの絶対的な執念だけが、彼の肉体を動かす永久機関となっていた。

そして、その凄絶な死闘の連続は、ジンの纏うPM-ギアに、帝国でも王国でもない、全く別のベクトルを持った異常な進化をもたらしていた。

転移から八十九日目の夜明け。

クレーターの縁を越えて、大地を揺るがすような咆哮が響き渡った。

姿を現したのは、体長五十メートルを超える巨大な岩の竜。全身が鋼鉄以上の硬度を持つ漆黒の鉱石で覆われ、その隙間からはマグマのような超高熱の魔力が漏れ出している。生半可な魔法や大砲など傷一つつけられない、歩く活火山とも呼ぶべき超弩級の魔獣、ヴォルカニック・ドレイクであった。その後ろには、体長十メートルクラスの四足歩行の獣の群れが、何百匹と雪崩を打ってクレーターの底へと突進してくる。

絶望的な物量と暴力の津波。

しかし、それを迎え撃つためにクレーターの中央から歩み出てきた一つの影を見た瞬間、知性を持たないはずの魔獣たちの群れが、本能的な恐怖によって一斉に足を止めた。

ジン・クロサワである。

だが、その姿は、かつての地球の軍用兵器のものではなくなっていた。

彼の纏うPM-ギアは、激戦の中で幾度となく大破と再生を繰り返した結果、クレーターに満ちる次元エネルギーと大地の魔力脈を直接貪り食い、装着者の殺意と生存本能に完璧に同調する極限の自己進化を遂げていた。

ベースとなる装甲は、光すらも吸い込むような絶対的な漆黒。数え切れないほどの魔獣の血と肉を浴び、無数の傷痕が刻み込まれたその外殻は、まるで深淵から這い上がってきた悪魔の甲冑のように禍々しい威圧感を放っている。

しかし、その漆黒の装甲の各所に走るスリットからは、全く対極のエネルギーが溢れ出していた。

次元の壁をこじ開けるほどの純度を持った、透き通るような白青い光。その光はジンの背後で幾何学的な光輪を形成し、まるで天使の羽衣のように美しく、神々しく宙を舞っている。

悪魔の漆黒と、天使の光。

本来ならば決して交わることのない二つの概念が、ジン・クロサワという一人の人間の強靭すぎる意志を接着剤として、一つの機体の中で完全に融合していた。

地球の科学が設計した粒子金属は、もはや装着者の思考と直結した生体組織と化しており、ジンの呼吸に合わせて禍々しくも美しい白青の光を脈動させていた。

「……五十九体目か。少しは手応えのある奴だといいが」

ジンの声は、通信機のノイズ越しでもわかるほど、極寒の氷のように冷たく、そして静かだった。

彼が右手を虚空に伸ばすと、天使と悪魔の力が混ざり合った装甲の粒子が急速に手のひらに収束していく。かつての死闘で半ばから折れ、機能を失っていた高周波ブレードの残骸が、白青い次元エネルギーの光刃を纏い、身の丈を超える巨大な光の太刀へと再構築された。

ヴォルカニック・ドレイクが、ジンの放つ異常なプレッシャーに威嚇の咆哮を上げ、口から周囲を一瞬で灰にするほどの超高熱のマグマブレスを放った。

何百匹もの獣の群れも、それに乗じて一斉にジンへと襲いかかる。

「遅い」

ジンの姿が、掻き消えた。

いや、動いたという過程が完全に省略された。背後の光輪が僅かに明滅した瞬間、ジンは超高熱のブレスの真っ只中を、一切の抵抗を受けることなく直線で『透過』し、巨大な竜の眼前にまで跳躍していたのである。

次元の力を取り込んだその機動力は、空間そのものを切り取って移動するに等しい、物理法則を完全に無視した神速。

「シッ!」

短い呼気と共に、ジンの右腕が振るわれる。

白青い光の太刀が、鋼鉄の硬度を誇る竜の首を一閃した。

金属がぶつかり合うような音すらしなかった。ジンの刃は、斬るのではなく、触れた部分の空間の結合そのものを無に還す次元断層の刃へと進化していたのだ。

ドスゥゥゥゥンッ……!!

体長五十メートルの超弩級魔獣の巨大な首が、何の抵抗もなく滑り落ち、大量の溶岩の血を噴き出しながらクレーターの底へと崩れ落ちた。

かつては部隊の総力を挙げて死闘を繰り広げなければ倒せなかったレベルの化け物を、たったの「一振り」で沈めたのである。

主を失い、混乱に陥る獣の群れ。

その頭上に、悪魔の装甲を纏った天使が、音もなく舞い降りる。

そこから先は、戦闘ではなく、ただの単調な殺戮作業であった。

ジンが地を蹴るたびに、漆黒の残像と白青い光の軌跡が空中に幾何学模様を描く。

右へ。左へ。上空へ。

彼が通り過ぎた後には、まるで時間が停止したかのように獣たちが静止し、一秒遅れて、そのすべてが綺麗に両断されて肉塊へと変わっていく。

血の雨が降り注ぐが、ジンの装甲の周囲に展開されている次元の防壁が、一滴の穢れすらも彼に触れることを許さない。

圧倒的、という言葉すら生ぬるい。

この三ヶ月間、地獄の底で不眠不休の殺し合いを続け、文字通り死の境界線を反復横跳びし続けてきたジンの戦闘技術と精神力は、人として到達できる限界点を遥かに突破していた。

そして、その装着者の異常な精神に完全に同調し、環境魔力を貪り食って自己進化したPM-ギアもまた、もはや地球の兵器の枠組みを超えた、神を殺すための特異点へと変貌していたのである。

わずか数分後。

何百匹といた魔獣の群れは、ただの一匹も残らずクレーターの底で沈黙していた。

赤茶けた荒野は、魔獣たちの骸によって完全に埋め尽くされ、異様な死の静寂に包まれている。

その死骸の山の頂で、ジンは光の太刀を霧散させ、静かに息を吐いた。

装甲から放たれていた天使の光輪が、静かな明滅へと変わる。彼のバイザーの奥の瞳は、一切の感情を排した無機質な冷たさを保っていた。自分が天使のような力を持とうが、悪魔のような姿になろうが、彼にとってはどうでもいいことだった。

この力が、自分を地球へ帰してくれる切符であるならば、神の力だろうが悪魔の呪いだろうが、すべてを利用し尽くす。ただそれだけの絶対的な意志。

「見事なものだ。君という人間は、私の理論すらも易々と超越していく」

後方にある簡易要塞の防壁の中から、東郷創一がマイク越しに狂気じみた歓喜の声を上げた。

防弾ガラスの奥で、東郷は自らの構築したシステムモニターと、そこに表示されているジンのPM-ギアの異常な数値を、食い入るように見つめている。

「地球の粒子金属と、このエルドラの環境魔力、そして次元の狭間のカオスなエネルギー。それらが君の強烈な帰還願望を核として結びつき、奇跡のようなバランスで成り立っている。……素晴らしい。帝国軍の黒魔法と融合したヴォルフの機体よりも、王国軍の白魔法と融合したシオンの機体よりも、今の君の装甲こそが、この世界で最も美しく、最も恐ろしい最高傑作だ」

東郷はモニターから顔を上げ、死骸の山の上に立つジンへと向かって大きく両手を広げた。

「お疲れ様、ジン。君の過酷な九十日間の護衛任務も、ついに終わりを迎える。……次元ゲートの最終チューニングが、完了したよ」

その言葉を聞いた瞬間、ジンの鉄のように冷たかった瞳の奥に、僅かに人間らしい感情の揺らぎが走った。

「……ゲートが、開くのか」

「ああ。大地からの魔力充填は百パーセントに達した。あとは最終シークエンスを起動させ、空間に強引な風穴を開けるだけだ。……だが、気をつけたまえよ。この莫大なエネルギーの収束を、世界の覇権を狙うあの二大国家が、見逃してくれるはずがない」

東郷の言葉を裏付けるように、クレーターの周囲の空気が、これまでの魔獣襲来とは全く質の異なる、張り詰めた殺気と魔力のプレッシャーによって軋み始めた。

ジンはゆっくりと視線を上げた。

遥か西の地平線からは、空を真っ黒に染め上げるほどの軍用飛竜の群れと、大地を埋め尽くすガルディア帝国軍の黒い軍勢が、地鳴りのような進軍の足音を響かせて迫ってきている。その先頭には、すべてを燃やし尽くすような凶悪な炎と、漆黒の魔導砲を構えた巨大な装甲兵の影が見えた。

そして、振り返った東の地平線からは、神聖な賛美歌を響かせながら、純白の鎧を纏ったルミナス王国軍の軍勢が、隙のない陣形で進軍してくる。その最前線には、黄金の光を放つ白銀の騎士の姿があった。

大地の魔力脈を独占し、互いを完全に滅ぼし、そしてこの次元の扉の向こう側にある未知の力を手に入れるため。

二大国家がその存亡を懸けた、大陸の歴史上最大規模の総力戦。十万対十万の激突が、今まさにこのクレーターを舞台に始まろうとしていた。

ジンは、西の帝国と、東の王国を交互に見据え、そして自らの胸元にある、インナースーツの下の家族の写真へとそっと触れた。

「……誰だろうと、俺の道を邪魔する奴は殺す」

天使の光と悪魔の漆黒。二つの力を完全に統べる異形の装甲が、再び凄まじい駆動音を上げて再起動する。

世界を滅ぼす全面戦争のど真ん中で、ただ一人地球への帰還を望む孤独な戦士は、静かに、そして絶対の殺意を持って、迫り来る二十万の軍勢に向かってその刃を構えた。

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