第48話:譲れぬ明日
第48話:譲れぬ明日
ジンの放ったサバイバルナイフの切っ先が、シオンの純白の装甲の隙間、腹部を保護する強化繊維へと滑り込んだ。
密着状態からの、完璧なタイミングでの死角を突いた一撃。
しかし、神聖なる白魔法と同調し、思考すらも加速させていたシオンの生存本能が、致死のタイミングで彼女の肉体を強制的に捻らせた。
刃はシオンの脇腹の表面を浅く切り裂くにとどまり、同時に、彼女の右手に握られた閃光騎槍ロンギヌスが、防衛本能のままに跳ね上がった。
「ああっ……!」
シオンの短い悲鳴と共に、至近距離で白銀の閃光が弾けた。
回避する空間も、時間もなかった。
下から上へとしゃくり上げるように放たれたロンギヌスの光刃が、ジンの左脇腹の漆黒の装甲を完全に粉砕し、その下のインナースーツごと、彼の肉体を深く、無慈悲に抉り取った。
「がはっ……!」
ジンの口から、大量の鮮血が吐き出された。
致命的な一撃。肉を断ち切り、内臓にまで達しようかという深い裂傷。
ジンの体は衝撃で宙に浮き、数メートル後方の純白の結晶壁へと激しく叩きつけられ、そのまま崩れ落ちるようにして床に倒れ伏した。
純白の迷宮の床に、赤黒い血の池が急速に広がっていく。
PM-ギアのシステムからは、もはや警告音すらまともに鳴らない。駆動系の半分以上が沈黙し、生命維持装置が断末魔のようなエラーを吐き出し続けている。
「……あ……」
シオンは、血に濡れた白銀の槍を握りしめたまま、呆然とその場に立ち尽くしていた。
自らの手で放った一撃。間違いなく、ジンの命を刈り取るための致命傷。
世界を守るため、何百万人もの無辜の民を救うため、自らの意志で覚悟を決めたはずだった。
しかし、いざ尊敬するかつての上官が、自分の刃によって血の海に沈み、ピクリとも動かなくなった姿を目の当たりにした瞬間、彼女の心に張り詰めていた糸が音を立ててちぎれた。
「隊長……!」
シオンは槍を放り出し、ジンの元へと駆け寄ろうとした。
しかし、彼女が一歩を踏み出したその時。
血だまりの中でうつ伏せに倒れていた漆黒の機体が、ギリギリと不快な金属音を立てて、微かに動いた。
「来るな……」
かすれた、しかし決して折れることのない声。
ジン・クロサワは、自らの血で滑る床に両手をつき、右足に力を込め、ゆっくりと、本当にゆっくりと体を起こし始めた。
脇腹の巨大な傷口からは、動くたびにボタボタと止めどなく血が流れ落ちている。常人であれば、すでにショック死していてもおかしくない状態だ。
それでも彼は、壊れかけた装甲の関節を無理やり固定し、再びシオンの前に立ち上がった。
その姿を見たシオンの瞳から、ついに堪えきれなくなった大粒の涙が溢れ出した。
「もう……やめてください! 動かないでください!」
シオンは泣き叫んだ。
「これ以上は死にます、隊長! あなたの体はもう限界だ! 降伏してください、私にあなたを殺させないで……!」
シオンは両手で顔を覆い、子供のように首を振った。
「たった二人の家族のために、どうしてそこまでできるんですか! 世界を敵に回して、自分の体もズタズタにして、命を落としてしまったら、元も子もないじゃないですか! 命より大切なものなど、ないはずなのに……!」
彼女の言葉は、正論であった。
戦士としての合理性から見ても、これ以上の戦闘継続はただの自殺行為に等しい。死んでしまえば、地球へ帰るという目的も、家族との再会も、すべてが永遠に失われる。
シオンの悲痛な叫びが迷宮に反響し、やがて静寂が落ちた。
ジンは、荒い呼吸を繰り返し、バイザーの奥で自らの胸元へと左手を伸ばした。
激しい戦闘で引き裂かれたインナースーツの奥。そこに大切にしまってあった、一枚の写真。
サエの優しい笑顔と、リクの無邪気な寝顔が写った、少し血の滲んだその写真を、ジンは痛む指先でそっと握りしめた。
「……お前の言う通りだ、シオン」
ジンの声は、ひどく静かだった。
怒りも、焦りもない。ただ、この宇宙の絶対的な真理を語るような、穏やかで深い響き。
「命より大切なものなんて、この世にはない。……俺の命も、お前の命も、帝国の人間も、王国の人間も、等しく重くて、尊い」
ジンは写真を胸に押し当てたまま、血に濡れたバイザー越しにシオンを見据えた。
「だからこそ、俺は帰るんだ」
その言葉に、シオンはハッと息を呑んだ。
「俺の命は、俺一人のものじゃない。……サエとリクに、必ず生きて帰ると約束した。俺の命は、あいつらと共に生きるためにある」
ジンの言葉が、迷宮の冷たい空気を震わせる。
「世界を救うための大義。何百万人を救うための自己犠牲。それは立派な正義だろう。だが、俺はそんなもののために、あいつらとの約束を破るつもりはない」
ジンは右手のガントレットを握り直し、再び戦闘の構えをとった。
流血も、激痛も、死の恐怖すらも、彼のこの絶対的な覚悟の前では、もはや意味を成していなかった。
「誰かの命を天秤にかけて、どちらを切り捨てるかを選ぶのがお前たちの正義なら、俺はそんな天秤ごと叩き斬る。……俺は、俺の命を、俺の愛する家族のためにだけ使い切る。その結果として世界がどうなろうと、地獄に落ちようと、俺がすべての罪を背負ってやる」
世界を滅ぼす悪魔の宣言。
しかし、シオンの耳には、それがどんな聖者の祈りよりも純粋で、気高いものに聞こえた。
ジン・クロサワという男は、死に急いでいるのではない。誰よりも生に執着し、誰よりも命の重さを知っているからこそ、今ここで血を流し、立ち上がり続けているのだ。
「……」
シオンは、自分の心の中にあった「世界を救う」という大義が、いかに軽く、空疎なものであったかを思い知らされていた。
彼女は、数百万の顔も知らない命を理由にして、目の前にいる大切な人を殺すという罪悪感から逃げようとしていただけなのだ。
ジンの足元にも及ばない。
この人の背負っているものの重さに、決意の純度に、自分は到底敵わない。
絶望的なまでの精神の格差を悟り、シオンは自嘲するように小さく笑った。
そして、彼女は両手で顔を覆っていた手を下ろし、涙を手の甲で乱暴に拭い去った。
「……わかりました。あなたの覚悟が、どれほど深いものか」
シオンは床に落ちていたロンギヌスを再び拾い上げ、その切っ先をジンへと向けた。
もはや、そこに迷いはなかった。涙も枯れ果てていた。
「私はあなたには勝てないかもしれない。あなたの魂には、絶対に届かない。……それでも、私は私の意志で、ここに立ち塞がります。それが、あなたから教わった、一人の戦士としてのせめてもの矜持だから」
シオンのPM-ギアが、残されたすべての聖魔力を吸い上げ、ロンギヌスへと注ぎ込んでいく。
これ以上の長期戦は、互いの肉体が持たない。
次の一撃で、すべてが決まる。
「来い、シオン。……全力で応えてやる」
ジンは壊れかけた装甲のジェネレーターを強制接続し、ヴォルフ戦の残滓である僅かな青白い粒子を、両手で構えたブレードの刀身へと這わせた。
互いの生き様を懸けた、真の最終局面。
光の迷宮の底で、二つの誇り高き魂が、最後の一撃を放つための極限の静寂へと沈んでいった。
第49話の執筆指示をお待ちしております。




