第45話:貫くべきもの
防衛の賢者アルベールが構築した超大規模空間制圧魔法『天界の城塞』。
それは、純白の結晶で構成された巨大な無機質の迷路であった。一定の法則で動く光の壁、触れれば精神を削り取られる魔力の罠、そして方向感覚を完全に狂わせる幾何学的な回廊。
生身の人間であれば、数時間歩き回るだけで完全に発狂し、自ら死を選ぶほどの冷酷な空間である。
ジン・クロサワは、その迷宮の中を、引きずるような足取りで進んでいた。
『警告。機体ダメージ蓄積、危険領域。パイロットの生体反応、継続的な低下を検知』
バイザーに表示される無機質なアラートを、ジンは瞬き一つせずに消去する。
壁から不規則に放たれる光の矢を、最小限の動きで躱す。足元に仕掛けられた魔力の地雷を、生体センサーの反応だけで見切り、跳躍してやり過ごす。
すでにジンの漆黒の装甲は原型を留めないほどにひしゃげ、胸部の深い切り傷からは、動くたびに鮮血が滲み出していた。
だが、その歩みは決して止まらない。
壁を破れなければ、迷路を解けばいい。罠があるなら、解除するか避ければいい。彼の脳内は、生き残り、目的の場所へと到達するための純粋な生存と戦術のロジックだけで満たされていた。
やがて、果てしなく続くと思われた回廊がふっと途切れ、巨大な円形の広間へと出た。
天井からは人工的な白い光が降り注ぎ、床には複雑な魔法陣が幾重にも刻み込まれている。
そして、その広間の中心に、彼女はいた。
純白の装甲を纏った若き聖騎士、シオン・ミカゲ。
彼女は白銀のブレードを床に投げ出し、膝をつき、力なく首を垂れていた。
あれほど彼女の全身から放たれていた眩いばかりの聖なるオーラは完全に消失し、ただ抜け殻のようにそこにうずくまっている。
ジンはゆっくりと歩み寄り、シオンの数メートル手前で立ち止まった。
「……何のつもりだ。罠か」
ジンの掠れた、しかし警戒を解かない声が広間に響いた。
その声にビクッと肩を震わせ、シオンはゆっくりと顔を上げた。
バイザーが解除され、露わになった彼女の素顔には、大粒の涙の跡がこびりついていた。かつて部隊のエースと呼ばれ、誰よりも強い意志を瞳に宿していた彼女の面影は、そこにはない。
あるのは、すべてを失い、絶望のどん底に叩き落とされた少女の顔だった。
「……隊長」
シオンの唇から、弱々しい声が漏れた。
「私は……間違っていました。私が信じていた正義は、ただの嘘だったんです」
シオンは、アルベールから突きつけられた残酷な真実を、ポツリポツリと語り始めた。
ルミナス王国の真の目的。人々の心から感情と意志を奪い、完全な管理社会を築き上げること。最前線で肉の盾にされていた民衆たちが、その「理想の世界」の完成形であること。
自分が聖騎士として振るってきた力は、人々を救うためのものではなく、人々を永遠の檻に閉じ込めるための暴力に過ぎなかったこと。
「私には、もう戦う理由がありません」
シオンは自嘲するように、乾いた笑いを漏らした。
「私は、ただの愚かな操り人形でした。正義の味方になったつもりで、誰よりも残酷な悪の手先として踊らされていたんです。……だから、もういいです。隊長、私を殺してください。今の私には、あなたを止める資格も、生きていく理由もありません」
シオンは目を閉じ、首を差し出すようにして静かにその場にうずくまった。
自分が信じた世界が崩壊した今、尊敬するかつての上官の手にかかって終わるのなら、それがせめてもの救いだと、彼女の折れた心は信じ込んでいた。
だが。
ジンは、シオンの哀れな姿を見ても、同情の言葉をかけることはしなかった。
彼は血に塗れた右腕をゆっくりと持ち上げ、装甲の駆動音を響かせながら、ガントレットの拳で、自らの太ももを思い切り殴りつけた。
ガァァンッ!!
「な……っ!?」
唐突な自傷行為に、シオンが驚いて目を見開く。
「……痛みで意識を保たないと、立っているのも限界でな」
ジンは血を吐き出すように咳き込みながら、氷のような視線でシオンを見下ろした。
「お前が絶望しようが、泣き言を言おうが、俺には関係ない。俺は俺の道を進む。……そこをどけ、シオン」
「隊長……どうして……」
シオンは震える声で問いかけた。
「どうして、あなたはそんなに強いんですか。帝国も、王国も、この世界そのものがあなたを殺そうとしているのに。どうしてあなたは、たった一人で、すべてを敵に回してまで立ち上がり続けることができるんですか!」
「強いわけじゃない。ただ、帰る場所があるだけだ」
ジンは無表情のまま答えた。
「サエとリクが待っている。その事実だけが、俺の足を動かしている。それ以外に理由などいらない」
「……私には、何もありません。帰る場所も、信じるものも、全部嘘だった……!」
シオンが顔を覆って泣き崩れる。
その姿を見たジンの瞳に、かつてないほど厳しい光が宿った。
「甘えるな、シオン」
ジンの低く、静かな怒りを孕んだ声が、広間の空気をビリビリと震わせた。
「嘘だった? 操り人形だった? だから戦うのをやめるのか。誰かが用意してくれた『正義』の台本がなくなったから、もう立てないと言うのか」
「……っ」
「地球にいた頃のお前は、そんなに薄っぺらい兵士だったか。上から与えられた命令や、正義という耳障りのいい言葉がなければ、剣を握れないような臆病者だったか!」
ジンの喝破が、シオンの心臓を物理的に打ち据えるように響いた。
「思い出せ。お前がなぜ、PM-ギアの適性試験に志願したのか。なぜ、血を吐くような訓練に耐え、最前線で命を懸けて未確認生命体と戦っていたのか。……それは、王国が教えてくれた正義か? 賢者が与えてくれた大義か?」
シオンの脳裏に、地球での記憶がフラッシュバックする。
訓練校時代、初めて実戦に出た日のこと。巨大な怪物から逃げ惑う人々を見た時の、あの胸を締め付けるような恐怖と、それ以上に強かった「誰かを守りたい」という純粋な衝動。
ジン・クロサワという男の、決して諦めない背中を見て、自分もあんな風に、絶望の淵にいる誰かの希望になりたいと願った、あの日の誓い。
「違う……」
シオンの唇が、震えながら言葉を紡ぐ。
「私は、ただ……弱い人を、悲しんでいる人を、助けたかった。誰も傷つかないように、私が盾になりたかった。……だから、強くなりたかった」
「そうだ」
ジンは静かに頷いた。
「誰かがお前に正義を与えたんじゃない。お前自身が、自分の足で立ち、自分の意志で剣を握ったんだ。ルミナス王国がどうだとか、賢者がどうだとか、そんなものはただの着ぐるみだ。お前の本質は、そんなものに縛られるほど柔なものじゃないはずだ」
ジンの言葉は、刃となってシオンの心を切り裂き、同時に、彼女の魂にこびりついていた分厚い泥を洗い流していった。
王国の聖騎士としての栄誉。賢者たちに認められたいという承認欲求。正義の味方であるという驕り。
それらすべてが剥がれ落ち、そこには、ただ純粋に「守るための力」を求めて泣いていた、一人の不器用な少女の姿だけが残された。
「誰かの用意した正義にすがるな、シオン。お前自身の足で立て」
ジンは、自らの血で濡れたサバイバルナイフを構え直した。
「ここから先は、俺の道だ。通してほしければ、俺を殺して行け。……俺を止めたければ、お前の本当の意志で、俺を乗り越えてみせろ」
沈黙が、広間に落ちた。
シオンは、俯いたまま、自分の両手を見つめていた。
震えは、すでに止まっていた。
彼女の瞳から流れ落ちていた絶望の涙は乾き、代わりに、静かで、しかし決して消えることのない小さな炎が灯り始めていた。
「……隊長」
シオンはゆっくりと立ち上がった。
足元に転がっていた白銀のブレードを見下ろし、それには触れず、自らの両手を強く握りしめる。
「あなたは、本当にひどい人です。私が一番逃げたかった現実を、こんな形で突きつけるなんて」
彼女の顔が上がる。
その瞳には、かつての王国への狂信も、迷いも、絶望もなかった。
そこにあったのは、地球時代にジンが知っていた、そしてそれ以上に研ぎ澄まされた、一人の誇り高き戦士としての澄み切った覚悟であった。
「王国の正義は、間違っていました。賢者たちの言う平和も、偽りです。……でも、だからといって、私があなたを見逃す理由にはなりません」
シオンは、凛とした声で宣言した。
「……カシウス様が言っていたことは、事実なのでしょう? あなたたちがゲートを開くためにこの大地の魔力を吸い尽くせば、いずれ世界は枯れ果て、何百万人もの命が奪われる。王国の民も、帝国の民も、罪のない人々が、あなたの帰還の犠牲になる。……私は、それを許すわけにはいきません。」
シオンのPM-ギアから、再び魔力の光が溢れ出し始めた。
だがそれは、先ほどまでの「王国から与えられた聖なる光」ではない。彼女自身の生命力と、彼女自身の純粋な意志が魔力と融合して放たれる、彼女だけの真の光であった。
「私は、誰の傀儡でもありません。ルミナス王国の聖騎士としてでもなく、神の代行者としてでもない。……私自身の意志で、あなたを止めます」
シオンが両腕を広げると、彼女の周囲の空間が、限界を超えた魔力の密度によってチリチリと悲鳴を上げ始めた。
それは、防御という概念を完全に捨て去り、己の全存在を攻撃力と機動力のみに変換する、極限のバトルフォームへの移行。
「教えてくださいましたね、隊長。自分の足で立て、と」
シオンの瞳が、青白い光を放つジンを真っ直ぐに射抜く。
「これが、私の答えです。……本気で、あなたを殺しにいきます。ジン・クロサワ!」
満身創痍の漆黒の帰還者と、迷いを断ち切った白銀の絶対防衛線。
互いの生き様と、決して譲れない明日を懸けた真の死闘が、この冷酷な光の迷宮の底で、今、幕を開けようとしていた。




