第44話:防衛賢者の盤上
血に塗れた手で家族の写真を握りしめ、なおも立ち上がろうとするジン・クロサワ。
その不屈の意志を前に、シオン・ミカゲはブレードの切っ先を震わせていた。
致命傷に近い一撃を与えた。これ以上動けば、本当にジンの命は尽きる。彼女の純粋な正義感と、かつての上官に対する敬愛の念が、トドメを刺すことを激しく拒絶していた。
「……降伏してください。お願いです、隊長……」
シオンの悲痛な声が、クレーターの底に虚しく響く。
だが、その誇り高くも哀しい一騎討ちの結末を、ルミナス王国の狂信者たちが静観し続けるはずがなかった。
「くだらんな。情に流され、異端者の命を絶つことをためらうとは」
空中に浮かぶ防衛の賢者アルベールの冷徹な声が、戦場の空気を一瞬にして凍らせた。
彼は幾重もの光の盾を展開したまま、自らの手にある巨大な白銀の法典を開いた。そのページから、眩いばかりの光の粒子が滝のように溢れ出し、上空の暗雲を完全に吹き飛ばしていく。
「やはり貴様は、まだ聖なる法を完全に理解していないようだな、シオン。個人の感情など、大義の前では無価値。迷いを生む心は、いずれ王国に災いをもたらす」
アルベールの目が、シオンごとジンを見下ろして細められた。
「無力化に手間取っているのなら、私が直々に盤上を整えてやろう。このクレーター一帯の魔力脈ごと、絶対なる秩序の檻に封じ込める」
アルベールが法典を天に掲げ、呪文の詠唱を開始した。
それは、通常の白魔法とは次元の違う、神話の時代から受け継がれてきた超大規模な空間制圧魔法であった。
「顕現せよ、『天界の城塞』」
その言葉が響いた瞬間、クレーターの空を覆っていた無数の魔法陣が、一斉に幾何学的な回転を始めた。
直後、空から直径数十メートルに及ぶ巨大な光の柱が、何百本も雨あられと大地に降り注いだ。
ズドドドドドドドォォォォンッ!!
光の柱が岩盤を直撃した瞬間、爆発は起きなかった。
代わりに、赤茶けた大地が凄まじい速度で「変質」を始めたのだ。
岩や土砂が純白の結晶へと作り変えられ、それがまるで意志を持つ生き物のように隆起し、うねり、巨大な壁を形成していく。
「な、なんだこれは……!」
クレーターの底でコンソールを操作していた東郷創一が、驚愕の声を上げた。
彼の周囲の地面からも純白の結晶がせり上がり、彼を無機質な光の壁の中へ閉じ込めようとする。東郷は咄嗟に防衛用のエネルギーシールドを展開し、かろうじてコンソール周辺の空間だけを確保したが、外界との物理的な接触を完全に絶たれてしまった。
「隊長!」
シオンは咄嗟にジンの体をかばおうとした。
しかし、彼女とジンの間を分断するように、足元から巨大な光の壁が凄まじい速度で突き上がった。
「くっ……!」
シオンはスラスターを吹かして壁を飛び越えようとしたが、上空にも純白の結晶が網の目のように張り巡らされ、完全に退路を塞がれてしまった。
わずか数十秒の間に、直径数キロメートルに及ぶ巨大なクレーターの地形そのものが、完全な「光の迷宮」へと変貌を遂げていた。
無機質な純白の回廊、幾何学的に配置された光の壁、そして空を覆い尽くす分厚い結晶の天井。
一切の生命の気配を感じさせない、人工的で冷酷なディストピアの縮図が、そこに現出していた。
王国軍の洗脳兵たちも、白銀の騎士たちも、この巨大な城塞の外部へと転移させられ、迷宮の内部にはジンとシオン、そして隔離された東郷だけが取り残される形となった。
「……アルベール様、これは一体何のつもりですか!」
シオンは分厚い光の壁に手を当て、通信回路を開いて上官であるアルベールに問い詰めた。
一騎討ちに横槍を入れられたばかりか、自分ごとジンを迷宮に閉じ込めるという行為。それは明らかな裏切りであった。
『怒るな、若き聖騎士よ。これはお前への最後の試練だ』
シオンの脳内に、アルベールの冷徹な念話が直接響き渡った。
『お前はあの異端者に情をかけ、殺すことをためらった。ならば、この迷宮の中で自らの心と向き合い、自らの手で彼を浄化するまで出てくることは許されない』
「私は、無益な殺生を避けたかっただけです! このまま拘束し、王都へ連行すれば済む話ではないですか!」
『無益な殺生、か。……お前はまだ、我ら賢者が見据えている本当の未来を理解していないようだな』
アルベールの声には、一切の感情がない。ただ、極限まで研ぎ澄まされた論理と、狂気的なまでの合理性だけが宿っていた。
『彼らがこの地で掘り起こした大地の魔力脈。そして、次元を開くための莫大なエネルギー。それが我々の計画にどれほど有益か、お前にはわかるまい』
シオンは息を呑んだ。
ルミナス王国は、ジンたちがゲートを開くための装置を破壊するために来たのではないのか。
『我々の目的は、あのエネルギーを王国のシステムに直結させることだ。……それを用いて何をするか、教えてやろう』
アルベールの声が、迷宮の壁に反響し、シオンの精神を真綿で首を絞めるように圧迫していく。
『この大陸全土を覆うほどの、超大規模な精神支配の大魔法陣を起動するのだ。手始めに、野蛮なガルディア帝国のすべての兵士、すべての民の脳髄に、我らの白魔法を直接撃ち込む』
「……な、何を言っているのですか。それは、先ほどの洗脳兵と同じように……帝国の人々から、意志を奪うということですか!?」
『いかにも。争いの原因は、個人の自由な意志と、無意味な感情にある。ならば、すべての民から意志を剥奪し、女神の法の元で完璧に統率された歯車に変えればよい。そうすれば、このエルドラから永遠に戦争は消え去る。誰も傷つかず、誰も悲しまない、完全なる平穏が訪れるのだ』
シオンは、自らの耳を疑った。
王国の正義。それは、人々を帝国から守り、平和な生活を保証するためのものだと信じていた。
しかし、八賢者たちの見据える究極の平和とは、「全人類から感情を奪い、生きた人形にすること」だったのだ。
先ほど最前線で肉の盾にされていた、あの虚ろな目をした民衆たち。あれこそが、アルベールたちが思い描く世界の実像であった。
『帝国を支配した後は、我らが王国の民にも同じ魔法を施す。もはや異端審問も、騎士団も不要になる。すべての人間が一つになり、ただ静かに、秩序の中だけで呼吸を続ける。それが、我らの導き出した究極の救済なのだ』
「ふざけるな……!」
シオンは通信回路に向かって、絶望と怒りに震える声を張り上げた。
「そんなものは平和ではありません! ただの地獄です! 人々の心を踏みにじり、自由を奪うことが、どうして正義だと言えるのですか!」
『それが理解できないから、お前は未熟だと言うのだ、シオン』
アルベールは冷笑した。
『お前が信じていたものは、所詮はおとぎ話の英雄ごっこに過ぎない。現実を見ろ。お前の持つ力も、その聖なる槍も、すべてはこの大計画のために我々が与えた駒に過ぎないのだ』
通信が一方的に切断され、無機質な回廊に静寂が戻った。
シオンはその場に崩れ落ちた。
自らが信じ、命を懸けて守ろうとしてきたルミナス王国の「正義」。その正体が、これほどまでにおぞましいディストピアの完成であったとは。
自分は、ただの操り人形だった。人々の自由を奪うための、輝かしい光の冠を被らされただけの処刑人。
シオンの両手から力が抜け落ち、白銀のブレードがカランと音を立てて床に転がった。絶望が、彼女の心を真っ黒に塗り潰していく。
一方、光の壁によってシオンと完全に分断された迷宮の別の区画。
ジン・クロサワは、純白の床の上に血だまりを作りながらも、ゆっくりと、しかし確実に立ち上がろうとしていた。
『警告。胸部装甲、損壊率80パーセント。生命維持システム、低下。即座の休息と治療が必要です』
システムのアラートがけたたましく鳴り響いている。
ジンはバイザーに表示される警告を無表情で消去し、血に濡れた写真をインナースーツの奥深くへとしまい込んだ。
彼は右手のパイルバンカーを、目の前にそびえ立つ光の壁に叩き込んだ。
轟音と共に火花が散るが、壁には小さなヒビが入っただけで、すぐに魔力によって自己修復されてしまう。
アルベールの構築した「天界の城塞」は、並の物理攻撃では破壊不可能なほどの強度を誇っていた。
だが、ジンの瞳に諦めの色は微塵もなかった。
迷宮に閉じ込められようが、賢者の狂った計画があろうが、彼にとってやるべきことは一つしかない。
「……邪魔な壁だ。なら、壊して進むだけだ」
ジンは呼吸を整え、システムの出力を生存ギリギリのラインで再調整した。
誰の盤上だろうと関係ない。用意された迷路を歩くつもりはない。
俺は帰る。そのために、この狂った秩序ごと、すべてを両断する。
無機質な光の迷宮の奥深くで、傷だらけの漆黒の装甲兵が、再び静かな殺意を燃やして歩み始めた。
その足音は、迷宮の中心で絶望に沈む若き聖騎士の元へ、確かな導きとして向かっていた。




