第42話:異端審問の鎖
ルミナス王国の異端審問官カシウスが杖を振り下ろすと同時、クレーターの縁から数千の洗脳兵たちが、一斉に斜面を駆け下りてきた。
彼らは武器一つ持っていない。ただボロボロの衣服を纏い、裸足で赤茶けた岩肌を踏みつけながら、虚ろな目を見開いてジン・クロサワへと殺到してくる。
怒号も、悲鳴もない。ただ無数の足音だけが、不気味な地鳴りとなってクレーターの底に響き渡っていた。
「……システム、武装切り替え。アサルトライフル、非致死性制圧弾に換装。近接兵装、出力をスタンモードへ」
ジンは無機質な声でシステムに命令を下した。
彼のバイザーには、殺到してくる民衆の生体データが無数に表示されている。心拍数は異常なまでに一定。恐怖も痛みも感じないよう、脳の神経系を白魔法で完全に掌握されている状態だ。
彼らは帝国兵のような熟練の戦士ではない。アサルトライフルの実弾をフルオートで浴びせれば、ものの数秒で全員を肉塊に変えることができるだろう。
だが、ジンはそれをしなかった。
「異端者よ、なぜ撃たない!」
上空に浮かぶカシウスの嘲笑うような声が、魔法によって増幅されて降り注ぐ。
「彼らは女神の正義のために命を捧げることを歓びとしているのだ。さあ、その薄汚い鉄の塊で彼らを蹂躙してみせろ。お前がどれほど残虐な悪魔であるか、我らが聖騎士シオンの目に焼き付けるがいい!」
カシウスの狙いは明白だった。
無抵抗の民衆を虐殺させ、ジンの精神を削ると同時に、王国軍の士気を高め、シオンにジンを討つための「大義名分」を完璧なものにすること。
あるいは、ジンが攻撃をためらえば、そのまま数の暴力で押し潰す。どちらに転んでも王国側に痛手はない、極めて陰湿で理不尽な盤上である。
「……三流の盤面だ」
ジンは短く吐き捨てると、斜面を駆け下りてきた先頭の集団に向かって、ライフルの引き金を引いた。
ダダダダダダダッ!
放たれたのは、殺傷能力を持たない硬質ゴムの制圧弾。それが洗脳兵たちの膝や肩に的確に命中し、骨を砕かない程度の衝撃で次々とその場に昏倒させていく。
しかし、痛覚を奪われている彼らは、足の関節を外されてもなお、這いつくばってジンの足首を掴もうと群がってくる。
「チッ……」
ジンはライフルを背中に回し、両手のガントレットからスタン用の電撃ユニットを展開した。
群がってくる民衆の波に自ら飛び込み、極限まで無駄を省いた近接格闘(CQC)で彼らを無力化していく。
首筋の動脈への的確な手刀。みぞおちへの掌底。電撃による神経の一時的な麻痺。
殺すのであれば、ブレードを一振りするだけで済む。
しかし、「殺さずに無力化する」という作業は、ただ敵を殲滅するよりも数十倍の集中力と体力を消耗する。
しかも、今のジンは伝説の黒騎士ヴォルフとの死闘を終えた直後であり、肉体もPM-ギアも満身創痍であった。
再構築された漆黒の装甲はひしゃげ、関節部からは動くたびに不吉な駆動音が鳴る。インナースーツの下の火傷は熱を持ち、極度の疲労が鉛のように全身の筋肉にのしかかっていた。
「ハァッ……ハァッ……」
ジンの呼吸が、バイザーの中で荒く、重くなっていく。
数人を無力化しても、後ろから十人が押し寄せてくる。
ジンはあらかじめ斜面に仕掛けておいた非致死性の閃光弾や、ワイヤートラップを起動させ、物理的に彼らの足を止めようと試みる。
だが、恐怖を知らない波は止まらない。数人がジンの装甲にすがりつき、その重みでジンの機動力がゴリゴリと削られていく。
「愚かな男だ」
その光景を見下ろしていたカシウスが、冷酷な目で杖を掲げた。
「たかが数十の虫けらを殺すことをためらい、自らの命を危険に晒す。それがお前のような無神論者の限界なのだ。正義とは、より多くの命を救うための冷徹なる計算。一人の罪人の血で百の平穏が買えるなら、喜んでその首を刎ねるのが我ら王国の法である」
カシウスの杖の先端に、幾重もの神聖な魔法陣が重なり合う。
「貴様のその偽善的な迷い、我が光で縛り上げてくれよう。『戒めの聖鎖』!」
上空の魔法陣から、目も眩むような純白の光の鎖が何十本も射出された。
それはまるで意思を持つ蛇のように空中で軌道を変え、群がる洗脳兵たちの隙間を縫って、ジンの漆黒の装甲へと正確に巻き付いた。
「ぐっ……!」
ジンは咄嗟に身をよじろうとしたが、遅かった。
光の鎖は物理的な質量を持たない魔力の塊であり、装甲の表面をすり抜けて、内部のPM-ギアの駆動系コアへと直接リンクしたのだ。
システムから、絶望的な警告音が鳴り響く。
警告。外部からの不正な魔力干渉を検知。
ジェネレーターの出力が強制的に低下しています。生体エネルギーの流出を確認。
「……エネルギーを、吸い取っているのか」
ジンは膝をつきそうになるのを必死に堪えながら、ギリッと奥歯を噛みしめた。
聖鎖はジンの機体から青白い粒子エネルギーを奪うだけでなく、ジン自身の体力や生命力すらも、ジワジワと吸い上げている。
装甲の重量が急激に増したかのように感じられ、ただ立っていることすら困難なほどの脱力感が全身を襲った。
「いかにも」
カシウスが空から冷笑を浴びせる。
「それは罪人を縛り、その不浄なる力を女神の魔力へと還元する聖なる鎖。もはやお前は指一本動かすこともできまい。……教えてやろう、異端者。我々はすでにお前の頭の中を調べさせてもらった。お前がこの世界を崩壊させてまで成し遂げたい目的をな」
カシウスの言葉に、ジンの瞳が鋭く細められた。
帝国との戦いの最中、情報統制の賢者オクタヴィアの放った不可視の探知魔法が、東郷の端末のデータを一部かすめ取っていたのだ。
「妻と、息子、であったか」
カシウスは、まるで汚物を吐き出すような口調で言った。
「たった二人の家族の元へ帰る。そのために、このエルドラの聖なる魔力脈を枯渇させ、数百万の民が生きるこの世界を滅ぼそうというのか。なんという傲慢、なんという私欲! お前の抱いている感情は、愛などという美しいものではない。ただの自己中心的な『悪』だ!」
白銀の騎士団の中から、カシウスの言葉に同調するように、異端者を糾弾する祈りの声が上がり始める。
「我らルミナス王国は、全人類の平穏と秩序のために、個人の自由を制限し、法という大義のために命を懸けている! 個人の感情など、大義の前ではチリ芥に等しい! そのちっぽけな私欲のために剣を振るうお前に、我々の気高き正義を打ち破ることなど絶対に不可能なのだ!」
戒めの聖鎖がさらに強くジンの装甲を締め上げる。
ミシミシと装甲が悲鳴を上げ、洗脳兵たちが身動きの取れなくなったジンの四肢に群がり、彼を地面に引きずり倒そうとする。
体力は限界を迎え、魔力は奪われ、数千の敵に囲まれ、高所から絶対的な正義を説かれる。
どんな屈強な戦士であっても、心が折れ、膝を屈するしかない絶望的な状況。
だが。
群がる民衆の波の底から。
光の鎖に全身を縛られ、息も絶え絶えになっているはずの、漆黒の装甲兵の口から。
「……くだらないな」
氷のように冷たい、そして一切の迷いを持たない声が響いた。
「な、に……?」
カシウスが眉をひそめる。
「百人を救うために一人を殺すのがお前たちの正義だと言うなら、勝手にやっていろ」
ジンは、自らの腕に巻き付いている洗脳兵たちの体を、強引な筋力だけでゆっくりと引き剥がしながら、立ち上がった。
関節部のモーターが限界を超えて火花を散らし、光の鎖がジンの肉体を焼き焦がそうとも、彼の足取りは決して揺るがなかった。
「俺は、俺の世界に帰る。俺の妻と息子の命は、俺にとってこの宇宙の何百万の命よりも重い。……それが悪だと言うなら、俺は喜んで悪魔になってやる」
ジンは右手のガントレットで、自らの胸に巻き付いていた光の鎖を力任せに掴み取った。
「システム。予備バッテリーの全エネルギーを、右腕のパイルバンカーへ強制バイパス」
装甲の各部が機能を停止し、漆黒の機体が完全に沈黙していく中、ジンの右腕の射出機構だけが、限界突破の青白い光を放ち始めた。
「貴様……! まだそんな力が……!」
「能書きはいい。そこをどけ」
ジンは光の鎖を掴んだまま、右腕のパイルバンカーを、足元の岩盤に向かって全力で打ち込んだ。
轟音と共に地面が爆発し、地殻変動レベルの衝撃波が周囲に放たれる。
群がっていた洗脳兵たちがその衝撃で一斉に吹き飛ばされ、同時に、地面に繋がれていた光の鎖の魔力回路が物理的な破壊によって断ち切られた。
「チッ……野蛮な猿めが! シオン、何をためらっている! 今すぐあの悪魔の心臓を貫け!!」
カシウスが怒りに顔を歪め、横に控える純白の聖騎士に向かって叫んだ。
洗脳兵の波が割れ、土煙が舞うクレーターの斜面。
ボロボロになった漆黒の装甲兵の前に、ついに、迷いを断ち切ろうと唇を噛みしめたかつての戦友が、白銀の騎槍を構えて静かに降り立った。
「……隊長。これ以上の抵抗は、無意味です」
ルミナス王国聖騎士、シオン・ミカゲ。
彼女の纏う純白の光が、ジンの前に冷酷な死の壁となって立ち塞がった。




