第40話:両断される力
青白い軌跡が、赤黒い絶望の世界に、決定的な一本の線を引いた。
袈裟懸けに振り下ろされた大太刀ムラサメの刃は、何の抵抗も受けないかのように、ヴォルフ・シュナイダーの交差させた両腕の重魔導砲ファフニールに吸い込まれていった。
極限まで圧縮された粒子金属の刃は、地球の最新鋭の合金と、エルドラの環境魔力が融合した分厚い砲身を、文字通り原子のレベルから物理的に切断した。
音すらなかった。
ただ、空間に一本の青白い亀裂が走り、それがヴォルフの右肩から左脇腹にかけての漆黒の装甲を斜めに滑り抜けただけだった。
ジン・クロサワの放ったスラスターの推力は、斬撃と共にヴォルフの巨体を通り越し、その背後数メートルの位置で静かに停止した。
ジンの構えたムラサメの切っ先から、青白い粒子がサラサラと零れ落ち、大気中に霧散していく。
完全な静寂が、クレーターの底に降り立った。
数秒前まで周囲を吹き飛ばしていた赤黒い破壊の嵐は、嘘のように掻き消えていた。
空を覆っていた熱風も、重力を失って浮かび上がっていた岩石も、すべてが物理法則を取り戻して地面に落下し、鈍い音を立てる。
「……あ……?」
ヴォルフは、自分が今何をされたのか、全く理解できていなかった。
彼は自らの両腕を見た。
絶対的な破壊の象徴であり、この世界の頂点に立つための神の力であった重魔導砲ファフニール。その巨大な二つの砲身が、斜めに綺麗な断面を残して真っ二つに切断され、ボトリと地面に落ちた。
続いて、彼の胸部から腹部を覆っていた超重装甲が、斜めの斬撃線に沿ってズレ、音を立てて崩れ落ちた。
致命傷ではなかった。
ジンの放ったムラサメの刃は、ヴォルフの肉体の表面をわずか数ミリだけ切り裂き、その下にあるPM-ギアの駆動系コアと、魔力の循環回路だけを完璧な精度で破壊していたのだ。
だが、それはヴォルフにとって、肉体を真っ二つにされるよりも残酷な結末であった。
「な……なんで、だ」
ヴォルフの口から、掠れた声が漏れた。
彼の腰のコアユニットから、プシューという音と共に黒い煙が上がり、完全に機能が停止する。エルドラの大地から強引に吸い上げていた莫大な環境魔力が、行き場を失って霧散していく。
力が、抜けていく。
何万という兵士に称賛され、皇帝に認められ、自分が世界の中心にいると錯覚させてくれた、あの万能感が。
足から崩れ落ちるようにして、ヴォルフはドロドロに溶けた岩盤の上に両膝をついた。
「俺の……俺の火力が……」
ヴォルフは震える両手で、地面に転がったファフニールの残骸に触れようとした。しかし、指先から伝わってくるのはただの冷たい鉄の感触だけで、もはやそこには何の魔力も宿っていなかった。
「お前は、地球にいた頃と何も変わっていない」
背後から、一切の感情が削ぎ落とされた氷のような声が降ってきた。
ヴォルフがゆっくりと振り返ると、黒いインナースーツ一枚となったジンが、静かに彼を見下ろしていた。
その瞳には、かつての部下を打ち倒したという達成感も、怒りも、憐憫すらも存在していなかった。
ただ、道を塞ぐ大きな岩を一つ退けただけの、極寒の無関心。
その瞳を見た瞬間、ヴォルフの心の中で、かろうじて形を保っていた自尊心の城が完全に音を立てて崩壊した。
負けた。
異世界という、自分にとって最も都合の良いルールの中で、最強の武器と、無尽蔵の魔力と、絶対的な立場を手に入れたにもかかわらず。
防御をすべて捨て去り、たった一つの帰還という目的のためだけに刃を振るったこの男に、手も足も出ずに敗北したのだ。
「俺は……俺は……」
ヴォルフは両手で顔を覆い、子供のように嗚咽を漏らし始めた。
承認欲求の化け物と化した男の、あまりにも惨めな結末であった。
ジンはもはやヴォルフに言葉をかけることはせず、ムラサメの刃を霧散させようとした。
その時である。
ゴォォォォォォォォォッ!!
ヴォルフとジンの間に、突如として巨大な炎の壁が天高く吹き上がった。
数千度の熱量を持った深紅の炎が、ジンの追撃を完全に遮断する。
「そこまでにしておけ、異邦の戦士殿。これ以上、うちの可愛い狂犬を苛められちゃあ、俺のメンツが立たねえ」
炎の壁の向こう側から、帝国宰相レオン・バルバトスの豪快な声が響いた。
レオンは自らの胸の傷を押さえながらも、全く余裕を崩さない足取りで炎の中に足を踏み入れ、泣き崩れているヴォルフの首根っこを乱暴に掴み上げた。
「立て、ヴォルフ。みっともねえ姿を皇帝陛下に見せる気か。負けは負けだ、次勝てばいいだけの話だろうが」
レオンはヴォルフを軽々と肩に担ぎ上げると、炎の壁越しにジンに向かってニヤリと笑いかけた。
「今回は俺たちの完敗だ、ジン・クロサワ。まさか特務親衛隊総司令の全力を、あんな出鱈目な太刀一本で真っ二つにされるとは思わなかったぜ」
レオンの声には、悔しさよりも、未知の強者に対する純粋な敬意が混じっていた。
「皇帝陛下も、お前のその次元の技術とやらにさらに興味を持たれただろう。今日は兵を引くが、帝国がこのエネルギーを諦めたわけじゃねえ。……次会う時は、この炎の宰相が万全の態勢でお前を焼き尽くしてやるから、首を洗って待ってな」
レオンが指を鳴らすと、炎の壁がさらに高く燃え上がり、周囲の視界を完全に遮断した。
そして数秒後、炎が嘘のように掻き消えた時には、レオンとヴォルフの姿はすでにそこにはなく、クレーターの縁に待機していた帝国軍の精鋭たちも、見事な統制で地平線の彼方へと撤退を開始していた。
帝国軍の気配が完全に消失したことを生体センサーで確認し、ジンは大きく、深い息を吐き出した。
右手のムラサメを霧散させると、限界を超えて酷使された肉体に、遅れてすさまじい疲労と激痛が襲いかかってきた。
「……っ」
ジンは思わず片膝をつき、荒い呼吸を繰り返した。
黒いインナースーツは随所が破れ、皮膚には火傷と毛細血管の破裂による無数の傷が刻まれている。装甲のサポートなしで規格外の出力を制御し続けた代償は、彼の鍛え抜かれた肉体をもってしても限界ギリギリのものであった。
「素晴らしい! 素晴らしいぞ、ジン!」
クレーターの底でコンソールを叩き続けていた東郷創一が、狂喜の声を上げて駆け寄ってきた。
「あのアホウが放った莫大なエネルギーの波長が、結果的に次元座標の同期を阻んでいた強固な『壁』をぶち破ってくれた! これでゲート開通への第一段階はクリアだ。地球と完全に接続するための道筋は立ったぞ!」
東郷はジンの傷だらけの肉体など全く気にも留めず、ただ手元のタブレットのデータを見て目を血走らせている。
「さあ、急いで装甲を再構築し、エネルギーの充填を行うんだ。君が倒れてしまっては、私の偉大な実験が完成しないからな」
「……言われなくても、わかっている」
ジンは痛む足に鞭を打ち、ゆっくりと立ち上がった。
ウェポンラックから予備の冷却パックを取り出し、首元に押し当てる。
これで、帝国軍の脅威は退けた。ヴォルフの武装を破壊した以上、彼らがすぐに態勢を立て直して再攻撃を仕掛けてくることはないだろう。
あと半日、この火口を死守すれば、地球へ帰ることができる。
だが、運命は、この孤独な帰還者に安息の時間を与えるほど甘くはなかった。
ジンが腰のコアユニットの再起動シークエンスに入ろうとした、まさにその時。
ピリッ……。
ジンの生体センサーが、西へ去った帝国軍とは全く逆の方向、東の空から、肌を刺すような冷たくも神聖な魔力の波動を感知した。
それは、黒魔法の暴力的な熱量とは異なる、すべてを白く染め上げるような、無機質で絶対的な秩序の気配。
「……博士。座標計算の時間を短縮できないか」
ジンの声が、かつてなく緊迫した響きを帯びた。
「なんだと? これでも極限までプロセスを最適化しているのだぞ。これ以上の短縮は……」
東郷が文句を言いながら顔を上げた瞬間、彼の言葉も途切れた。
クレーターの東側の空が、夜明けの太陽の光を完全に掻き消すほどの、異常な純白の光に覆い尽くされていたのだ。
空中に、幾千もの幾何学的な白い魔法陣が展開され、そこから賛美歌のような神聖なコーラスが、クレーターの底まで響き渡ってくる。
「あれは……」
東郷が目を見開く。
純白の光の中から、無数の白銀の甲冑を纏った騎士たちが、天使のような光の翼を持つ魔獣に跨って降下してくるのが見えた。
ルミナス王国の神殿騎士団。その数は、先ほどの帝国軍を遥かに凌ぐ数万の規模であった。
そして、その大軍の先頭に立ち、巨大な白銀の騎槍ロンギヌスを構えて降下してくる純白の装甲兵。
「……シオン」
ジンは、焼け焦げたインナースーツのまま、再び死地に立つための鋭い眼光を取り戻した。
帝国という狂犬を退けた直後、息をつく暇すら与えずに襲い来る、王国という完璧な秩序の軍勢。
かつての戦友であり、正義感に縛られた聖騎士シオン・ミカゲと、彼女を操るルミナス王国の冷酷な賢者たちの罠が、傷ついたジンの頭上へと無慈悲に降り注ごうとしていた。
絶望は終わらない。地球への扉を開くための本当の地獄は、ここからが本番であった。




