第38話:抜刀の時
空間が、悲鳴を上げていた。
中立地帯の荒野を覆い尽くしていた夜明けの冷気は、完全に蒸発し、狂気的な熱量を持った暴風へと変貌していた。
ヴォルフ・シュナイダーの腰に装着されたコアユニットが、限界を超えた過回転により、どす黒い煙と火花を噴き上げている。彼自身の生命力と、エルドラの大地から強引に吸い上げた環境魔力が、両腕の重魔導砲ファフニールへと無秩序に流れ込んでいく。
それはもはや、魔法や兵器と呼べる次元の代物ではなかった。
赤黒く濁ったエネルギーの塊は、砲口から溢れ出し、ヴォルフの巨体を包み込む巨大な球体となって膨張を続けていた。球体の表面では漆黒の雷が走り、周囲の岩石が重力を失ったように宙へ浮かび上がり、そして熱線の余波に触れた瞬間に原子の塵となって消滅していく。
「ガ……アァァァァァァァァァッ!!」
エネルギーの中心にいるヴォルフの肉体は、自らが放つ莫大な魔力負荷に耐えきれず、崩壊を始めていた。
両目からは絶え間なく血の涙が流れ落ち、全身の筋肉が断裂しては魔力によって強制的に結合されるという、身の毛もよだつような自己破壊と再生を繰り返している。彼の纏う漆黒の装甲すらも、超高熱によってドロドロに融解し、素肌に焼き付いていた。
しかし、その苦痛すらも、今のヴォルフにとっては極上の快楽であった。
彼を突き動かしているのは、ただ一つの妄念。
目の前に立つ、決して自分を認めようとしないかつての隊長を、この星の裏側まで跡形もなく消し飛ばすという、純粋で絶対的な破壊衝動。
その一撃が放たれれば、ジン・クロサワ一人にとどまらず、クレーター一帯、ひいては後方に後退した帝国軍の精鋭たちすらも巻き込み、この大陸の地図を大きく書き換えるだけの大惨事になることは火を見るよりも明らかであった。
だが、回避も防御も不可能なその絶対的な破滅を前にしても、ジンは決して逃げようとはしなかった。
彼は静かに腰を落とし、ベルトの奥深くにある封印されたコアユニットへと右手を伸ばしたのだ。
『警告。マニュアル操作によるリミッター解除シークエンスへ移行』
ジンのシステムから発せられたその微細な信号を、クレーターの底でコンソールを監視していた東郷が即座に検知した。
「ジン! 馬鹿な真似はやめろ!」
轟音と熱風が吹き荒れる中、東郷創一の焦燥に満ちた叫び声が、通信機を通じてジンの耳に飛び込んできた。
常に狂気的な余裕を崩さなかった東郷の声が、今は完全に裏返っている。
「君のユニットに残されたエネルギーは、次元ゲートを開き、地球への座標を固定するための生命線だ! ここでアレを使えば、コアの蓄積エネルギーが枯渇し、我々は二度とこの世界から帰還できなくなるぞ! 逃げろ、その狂犬の自爆攻撃に付き合う必要はない!」
東郷の言う通りだった。
ここで最強の切り札を切れば、彼らがこれまで積み上げてきた地球帰還への計画は、根底から崩れ去る。サエとリクの待つ家へ帰るというジンのたった一つの目的が、永遠に失われる可能性があった。
だが。
逃げ場など、最初からどこにもなかった。
ヴォルフの放とうとしているエネルギーは、回避という概念を許さない絶対的な質量攻撃だ。背中を向けてスラスターを吹かしたところで、コンマ数秒で熱線に追いつかれ、背後から塵にされるだけだ。
帰るために、今は生き残らなければならない。
明日を手に入れるためには、今日立ちはだかるこの巨大な絶望を、正面から切り捨てるしかなかった。
「……悪いな、博士。予定変更だ」
ジンは荒れ狂う赤黒い嵐の中心を見据えたまま、静かに、しかし決して揺らぐことのない声で呟いた。
通信機を切る。東郷の絶叫が途絶え、ジンの世界には、目の前で極大の魔力を練り上げるヴォルフの咆哮だけが残された。
世界が崩壊に向かって加速していく中、ジンの周囲だけが、まるで時間が凍りついたかのように完全な静寂に包まれていた。
恐怖はない。焦燥もない。
過去の記憶も、未来への未練も、今この一瞬だけは完全に思考から削ぎ落とす。あるのはただ、眼前の敵を両断するという「純粋な殺意の結晶」としての自己のみ。
ジンはゆっくりと、カバーを跳ね上げたコアユニットのスイッチに親指を添えた。
「消えろォォォォォォォォォォッ!! ジン・クロサワァァァァッ!!」
ヴォルフの絶叫が最高潮に達し、赤黒い破壊の太陽が、ついにその臨界点を突破した。
空間が裂け、天地を真っ二つに割るような極太の閃光が、クレーターの斜面を飲み込みながらジンへと向かって放たれる。
その、死の光がジンの視界を完全に白く染め上げる、コンマ一秒の刹那。
「リミッター解除。第一から第五防壁、全パージ」
ジンの冷たく、透き通るような声が、轟音の嵐をすり抜けて、戦場の中心に響き渡った。
直後。
ジンの全身を覆っていた漆黒の装甲が、内側からの凄まじい反発力によって一斉に弾け飛んだ。
胸部、肩部、腕部、脚部。敵の攻撃を防ぐためのあらゆる物理的・エネルギー的な防壁が、自らの意思によって完全に放棄される。
防御力は、ゼロ。
しかし、パージされた装甲はただの金属片として散ったわけではなかった。
空中に投げ出された漆黒の破片は、瞬時に青白い極小の粒子金属へと分解され、ジンの右手の空間に向けて、恐ろしい速度で収束し始めたのだ。
『顕現せよ、ムラサメ……一撃で終わらせる』
ジンの右手に、大気中のすべての光を吸い込むような、圧倒的な密度の青白い光の柱が立ち上がった。
それは激しく渦を巻き、極限まで圧縮され、そして一本の巨大な刃の形へと固定されていく。
全長三メートルを超える、青白く輝く巨大な日本刀。
装甲のすべてを犠牲にし、防御という概念を完全に捨て去ることでしか生み出せない、最強の矛。
大太刀『ムラサメ』の顕現である。
その刃が空間に姿を現した瞬間、世界に異変が起きた。
ピキィィィィィィン……ッ。
氷が張り詰めるような甲高い音が、エルドラの空に響き渡った。
ヴォルフが放った赤黒い破壊の閃光が、ジンの数メートル手前で、まるで目に見えない巨大なガラスの壁に衝突したかのように、不自然にその進行を停止したのだ。
いや、停止したのではない。
ムラサメの放つ青白い粒子の密度があまりにも高すぎるため、その刃が存在しているという「事象」そのものが、周囲の空間の物理法則と魔力の流れを完全に凍結させてしまったのだ。
吹き荒れていた熱風が止む。
舞い上がっていた土砂が、空中で静止する。
ヴォルフの狂乱の咆哮すらも、音が空気を伝わるプロセスを遮断され、完全な無音の世界が現出した。
それはまさに、神話の光景であった。
星の怒りのような赤黒い破壊の濁流が、たった一振りの青白い刃の前に、道を譲るようにして動きを止めている。
ムラサメの刀身から零れ落ちる青白い粒子が、虚空に触れるたびに、大気そのものが斬り裂かれ、チリチリという微かな空間の悲鳴を上げている。
装甲をすべてパージし、黒いインナースーツ一枚となったジン・クロサワは、その圧倒的な破壊の濁流を前にして、ただ静かに、巨大な大太刀を下段に構えていた。
その佇まいは、もはや一人の人間の兵士のものではなかった。
一切の感情を持たず、ただ世界を両断するためだけに顕現した、冷徹なる剣神の姿そのもの。
「……」
無音の世界の中で、ジンのバイザーの奥の瞳が、狂乱の中で静止しているヴォルフを真っ直ぐに射抜いた。
防御を捨てた最強の刃が、今、すべての欺瞞と力への渇望を断ち切るために、静かに振り上げられる。
絶対的な破壊と、絶対的な切断。
時が再び動き出すその瞬間、二つの規格外の力が、中立地帯の底で真正面から激突しようとしていた。




