第35話:炎の宰相
帝国宰相にして筆頭魔導師、レオン・バルバトス。
彼が両腕を広げた瞬間、クレーターの縁を吹き抜けていた冷たい夜明けの風が、呼吸をすることすら困難なほどの暴力的な熱風へと変貌した。
「さあ、始めようぜ、異界の戦士殿。俺の炎に何秒耐えられるか、見せてもらおうか!」
レオンの周囲の大気が陽炎のように激しく歪み、足元の赤茶けた岩肌が熱によってパチパチと悲鳴を上げ始めた。
彼の両手から放たれた深紅の魔力が、空中に幾重もの複雑な幾何学模様を描き出し、巨大な魔法陣となって展開される。詠唱はない。無詠唱での高位魔法の連発こそが、この男が帝国の魔の頂点に君臨する理由であった。
「まずは挨拶代わりだ。焼き尽くせ、『焦熱の豪雨』!」
レオンが腕を振り下ろすと同時、上空に展開された巨大な魔法陣から、直径数メートルに及ぶ超高熱の火球が、文字通り雨あられとなってジンのいるクレーターの斜面へと降り注いだ。
一つ一つの火球が、直撃すれば岩盤を容易く融解させるほどの質量と熱量を持っている。それが数十、数百という数で、逃げ場のない広範囲を覆い尽くす。
「……スラスター起動。推力40、偏向制御」
ジンは一切の動揺を見せず、無機質な声でシステムに命令を下した。
彼の視界のバイザーには、上空から降り注ぐ無数の火球の軌道と、着弾点、そして爆発の有効範囲が、緑色のワイヤーフレームとなってコンマ一秒の遅れもなく表示され続けている。
ドドドドドォォォォォォンッ!!
最初の火球が着弾し、クレーターの斜面が爆発の炎に飲み込まれる。
しかし、その爆炎が立ち上がる直前、ジンの姿はすでにそこにはなかった。
ジンは背部と脚部のスラスターを細かく断続的に噴射し、斜面の岩肌を縫うようにして駆け上がっていた。
右から迫る火球の爆風を、スラスターの横滑りで紙一重で回避する。左に着弾した火球が巻き上げたドロドロの溶岩の飛沫を、高周波ブレードを風車のように回転させて弾き飛ばす。
力任せの跳躍や、直線的な回避は一切行わない。
爆発の衝撃波すらも自らの推進力の一部として利用し、最小限のエネルギー消費で炎の嵐の中を掻き潜っていく。それはまるで、激流の川を遡る一匹の魚のように、泥臭くも極限まで洗練された回避術であった。
「ハハハッ! チョコマカとよく動くじゃねえか! だが、いつまでも逃げ回れると思うなよ!」
レオンは豪快に笑いながら、地面に右手を叩きつけた。
「『業火の顎』!」
ジンの進行方向の地面が突如として赤熱し、そこから巨大な炎の牙が、トラバサミのように左右から跳ね上がってきた。
足元からの奇襲。並の戦士であれば、完全に逃げ場を失って丸焦げになるタイミングだ。
しかし、ジンの直感はセンサーの警告よりも早く、その罠を察知していた。
「シールド展開」
ジンは左腕のガントレットに内蔵された小型の粒子シールドを瞬間的に展開し、それを右から迫る炎の牙へと叩きつけた。
ガキィィンッ! という金属音と共にシールドが炎を弾き返し、ジンはその反動を利用して空中に大きく身をよじり、左から迫る炎の牙を完全に躱した。
そのまま空中で体勢を立て直し、クレーターの縁に立つレオンに向かって、アサルトライフルを構える。
ダダダダダダダッ!!
フルオートで放たれた徹甲弾の雨が、一直線にレオンの顔面へと殺到する。
「おっと、危ねえな!」
レオンは指先を軽く鳴らした。
瞬間、彼の眼前に分厚い炎の防壁『炎帝の盾』が立ち上がり、徹甲弾はすべてその超高熱の壁の中でドロドロに溶け落ち、無害な鉛の雫となって地面に落ちた。
「物理的な弾丸なんざ、俺の炎の前じゃ届く前に蒸発するぜ。お前、遠距離攻撃の手段はそれしかないのか?」
レオンが挑発的に嗤う。
ジンは無言のまま着地し、ライフルの空弾倉を捨てて新しいマガジンを装填した。
(確かに、中途半端な射撃ではあの熱量を突破できない。装甲をパージしてムラサメを抜けば一撃だが……それはまだ早い)
ジンの視線の端には、レオンの背後で忌々しげに舌打ちをしているヴォルフの姿がある。ここで切り札を見せ、エネルギーを消費することは、続くであろうヴォルフとの死闘において致命的な隙となる。
ムラサメの抜刀は、絶対に外せない最後の一手まで温存しなければならない。
(なら、懐に飛び込んで直接斬るまでだ)
ジンはアサルトライフルをウェポンラックに戻し、両手にサバイバルナイフと高周波ブレードを逆手で構えた。
姿勢を極限まで低くし、スラスターの出力を一時的に70パーセントまで引き上げる。
「来るか。いいぜ、真っ向勝負と行こうじゃねえか!」
レオンは両腕に極限まで魔力を圧縮させ、自身の手を巨大な炎の剣へと変貌させた。
武の達人と、魔の頂点。
二つの影が、荒れ果てたクレーターの斜面で激突した。
ガキィィィィンッ!!
ジンの高周波ブレードと、レオンの炎の剣が交差し、凄まじい火花と熱風が周囲を吹き飛ばす。
ブレードの超高速振動が炎の魔力を物理的に弾き飛ばそうとするが、レオンの炎はただの熱ではなく、確かな質量を持った魔力の塊であった。
「重い……!」
ジンはブレードを通じて伝わってくる圧倒的な圧力に、わずかに眉をひそめた。
レオンはただ魔法を遠くから撃つだけの魔導師ではない。巨体に似合わぬ俊敏さと、長年の戦場で培われた確かな白兵戦の技術を併せ持っているのだ。
「どうした! その程度の力じゃ、俺の首は取れねえぞ!」
レオンが炎の剣を押し込みながら、左手で至近距離から爆炎を放つ。
ジンはブレードの刃を滑らせるようにしてレオンの力を受け流し、その爆炎を間一髪でダッキングして回避する。熱波がジンのバイザーを焦がすが、構わずにレオンの無防備な脇腹に向かって、左手のナイフを突き出した。
「甘いぜ!」
レオンの脇腹から突如として炎の蛇が飛び出し、ジンのナイフの軌道を強引に弾き返す。
さらにレオンは、踏み込んだ足の踵で地面を打ち鳴らし、ジンの周囲360度を囲むように炎の柱を噴出させた。
「炎獄の檻!」
完全に逃げ場を塞がれた炎の密室。
数千度の超高熱が、ジンのPM-ギアの装甲を瞬時に真っ赤に焼き上げようとする。
『警告。外部装甲温度、危険域に到達。冷却システムが限界を超えています』
無機質なアラートが鳴り響く。
「これで終わりだ、異邦人! その装甲ごと、こんがりと焼け焦げちまえ!」
レオンが炎の檻の外から、トドメの特大火球を投げ込もうと魔力を練り上げる。
だが、ジンの瞳に絶望の色はない。
彼は四方を囲む炎の壁を観察し、最も魔力の密度が薄い一角を瞬時に見抜いた。
「……冷却剤、強制パージ」
ジンは背部の排熱ユニットのロックを物理的に解除し、機体を冷却するための圧縮冷却ガスを、炎の壁の一点に向かって一気に噴射させた。
プシュゥゥゥゥッ!!
マイナス数十度の極低温ガスが、数千度の炎と激突し、凄まじい水蒸気爆発を引き起こす。
ドォォォォンッ!
発生した真っ白な水蒸気の幕が、一瞬だけ炎の檻に風穴を開けた。
「なっ!?」
レオンが驚愕の声を上げる。
その白い煙の中から、漆黒の悪魔が、音もなく飛び出してきた。
「スラスター、全開」
ジンは完全にレオンの死角へともぐり込み、残されたすべての運動エネルギーを右手の高周波ブレードに集中させた。
レオンは咄嗟に炎の盾を展開しようとするが、ジンの踏み込みの方がコンマ数秒早かった。
「システム・オーバーライド。粒子強制注入」
ジンのブレードが、レオンの展開しかけた魔法陣を物理的に切り裂き、そのまま彼の屈強な胸板に向かって一閃された。
ザシュッ!!
レオンの胸元から、鮮血が宙に舞う。
「ぐはっ……!」
分厚い筋肉と、無意識に展開された魔力の薄膜が致命傷を避けたものの、レオンの巨体が衝撃で大きく後退し、地面に膝をついた。
「……見事だ」
レオンは胸の傷口を押さえながら、苦痛に顔を歪めるどころか、獰猛な笑みを深くした。
「魔法も使わず、ただの体術とカラクリの仕掛けだけで、俺の炎を破るとはな。お前、最高に狂ってて最高に強いぜ。ヴォルフが執着する理由が、少しわかった気がする」
ジンはブレードの血を振り払い、一切の油断なくレオンを見下ろした。
だが、その時。
「そこまでだ、レオン。引っ込んでろ」
戦場に、空気を凍らせるような、低く、しかし圧倒的な殺意に満ちた声が響いた。
ジンの生体センサーが、強烈な危険信号を鳴らして赤く明滅する。
レオンの後方。
これまで静観していたヴォルフ・シュナイダーが、全身のPM-ギアから紫電を帯びた禍々しい魔力を噴出させながら、ゆっくりと歩み出てきたのだ。
「テメェはよくやったよ、レオン。隊長の動きの癖は、これで十分に見切れた」
ヴォルフの両腕には、すでに極限まで魔力が圧縮された重魔導砲ファフニールが、完全な形で形成されていた。
その砲口は、赤黒い破壊の光を放ち、周囲の空間そのものを歪ませている。
「さあ、お遊びは終わりだ、隊長。俺の本当の火力を、その身で味わいな」
武の達人と魔の頂点の激闘は、最も危険な男の乱入によって、強制的に次のステージへと引きずり込まれた。




