第34話:黒騎士の到達
聖大陸エルドラへの転移から三十二日目。
夜明けの冷たい風が、中立地帯の荒野を吹き抜けていく。
ジン・クロサワの足元で、異形の怪物へと成り果てたセス・オズワルドの残骸は、黒い灰となって虚しく空へ舞い上がっていた。
その灰を掻き消すように、地平線の彼方から巨大な地鳴りが響き始めた。
夜明けの薄明かりの中、黒々とした巨大な波が、荒野を飲み込みながらこちらへ向かって押し寄せてくる。
ガルディア帝国軍。数千の特務親衛隊と、精鋭の魔導師部隊からなる漆黒の軍勢であった。
空には帝国の紋章である双頭の黒竜が描かれた軍旗が何十本も翻り、軍馬と魔獣の嘶きが、静寂に包まれていたクレーターの縁を圧倒的な暴力の気配で満たしていく。
その大軍の先頭に立ち、巨大な黒狼に跨って進み出てきたのは、帝国宰相にして筆頭魔導師であるレオン・バルバトス。
そして、漆黒の外套と破壊の装甲を纏った、特務親衛隊総司令ヴォルフ・シュナイダーであった。
ヴォルフはクレーターの縁で黒狼を止め、眼下に広がる光景を見下ろした。
すり鉢状に抉れた巨大な大地の底。そこでは、青緑色の魔力脈の光が未だに妖しく明滅し、白衣の男が狂気的な速度でコンソールを叩き続けている。
そして、そのコンソールを守るようにして、たった一人で数千の軍勢を見据え、立ちはだかっている青白い粒子装甲の男。
「……探したぜ、隊長」
ヴォルフの口から、獰猛な、しかしどこか歓喜に震える声が漏れた。
彼は黒狼から飛び降り、スラスターの推進力を利用してクレーターの斜面を数メートル滑り降りると、ジンの足元に転がっている黒い灰の山に視線を落とした。
灰の中には、セスが身につけていた特務親衛隊の装飾品の欠片が、半ば溶けかかった状態で転がっている。
「へっ……セスのお坊ちゃんか。抜け駆けして手柄を立てようとしたんだろうが、案の定、返り討ちにあったってわけだ」
ヴォルフは忌々しげに鼻で笑い、その装飾品の欠片を分厚い金属のブーツで無造作に踏み砕いた。
「身の程を知らねえ三流魔導師にはお似合いの末路だ。俺の獲物を横取りしようとしたんだ、生きて帰ってたら俺がこの手でファフニールの餌にしてたところだがな」
ヴォルフは再び視線を上げ、数十メートルの距離を隔てて、かつての上官であるジンと正面から対峙した。
地球の防衛軍時代。二人の立場は明確だった。
常に冷静で、完璧な戦術で部隊を導く隊長のジン。
その命令に反発しながらも、圧倒的な火力で敵を粉砕し、しかし常に「危険分子」として扱われていた副隊長のヴォルフ。
ジンはヴォルフにとって、絶対に超えられない壁であり、同時に自分を認めてくれない地球の理不尽な体制そのものの象徴でもあった。
だが今、二人の立場は完全に逆転している。
ヴォルフの背後には、彼を英雄として崇め、彼のために命を捨てることを厭わない数千の帝国兵が控えている。
対するジンは、誰の後ろ盾もなく、薄暗いクレーターの底で孤独に刃を握る一人の反逆者に過ぎない。
「随分と見晴らしのいい景色だろ、ジン・クロサワ」
ヴォルフは両手を広げ、背後の大軍を誇示するように笑った。
「地球の防衛軍じゃ、俺もお前も、上の連中に使い潰されるだけのただの駒だった。俺がどれだけ命を懸けて未確認生命体を吹き飛ばしても、連中は俺を『命令違反の野犬』としか呼ばなかった。お前だって同じだ。いくら優秀でも、薄給でこき使われ、家族と過ごす時間すら奪われていた」
ヴォルフの目に、抑えきれない優越感と、過去への憎悪が入り混じった濁った光が宿る。
「だが、この世界は違う。このエルドラは、力こそがすべてだ。俺の火力を、皇帝陛下も、何万という兵士たちも、涙を流して肯定してくれる。俺は今、帝国の頂点に立つ『黒騎士』だ。この大陸のすべてを、俺の力で支配できる」
ヴォルフは一歩、ジンに向かって踏み出した。
「なあ、隊長。もうあんな息の詰まる地球に帰る必要なんてねえだろう。お前がその大地のエネルギーを使って何を開こうとしてるのかは知らねえが、皇帝陛下は次元の技術を欲しがっている。……俺の下につけよ、ジン」
それは、ヴォルフなりの最大の歩み寄りであり、同時に最大の復讐でもあった。
かつて自分を見下していた完璧な隊長を、自分の部下としてひざまずかせる。それこそが、彼が地球で抱え続けた巨大なコンプレックスを完全に払拭するための、たった一つの方法だったのだ。
「お前のその冷静な頭脳と、俺の圧倒的な火力。それにその白衣のイカれ科学者の技術があれば、俺たちはこの世界で神にだってなれる。……帝国に下れ。そして、その次元の技術を俺に差し出せ」
ヴォルフの要求が、冷たい風と共にクレーターの底へ響き渡る。
背後に控えるレオン・バルバトスも、興味深そうに目を細め、ジンの返答を待っていた。
完全な沈黙が、数秒間続いた。
やがて、ジンは静かに、本当に面倒くさそうなため息を一つ吐いた。
「……長話は終わったか、ヴォルフ」
ジンの声には、かつての部下との再会を喜ぶ感情も、大軍を前にした恐怖も、ヴォルフの地位に対する嫉妬も、一切含まれていなかった。
あるのはただ、路傍の石に向けられるような、極寒の無関心。
「俺が過去に縛られていると言ったな。……確かにな。俺は、地球で待っている妻と息子のことしか考えていない」
ジンは腰のウェポンラックに手を当てたまま、氷のような目でヴォルフを見据えた。
「だが、お前はどうだ。皇帝に媚びを売り、群衆の歓声に酔いしれ、帝国という新しい首輪を喜んでつけられている。お前は力を得たんじゃない。自分が認められないという『地球での劣等感』から逃げるために、力に使われているだけの、ただの哀れな奴隷だ」
「な……ッ!」
ヴォルフの顔から、余裕の笑みが一瞬で消え失せ、激しい怒りの朱が差した。
「俺にこの世界を支配する気はないし、お前たちの戦争ごっこに付き合う義理もない」
ジンは右手のガントレットを鳴らし、戦闘態勢に入った。その全身から、青白い粒子金属の冷たい殺気が、静かに、しかし爆発的に膨れ上がっていく。
「俺は、家に帰る。そのためにこの魔力脈を使う。……俺の邪魔をするなら、お前でも斬る。それだけだ」
「……言わせておけば、テメェェェッ!!」
ジンの全く揺るがない態度と、図星を突かれた己の痛処。ヴォルフの怒りは限界を突破し、PM-ギアのコアが危険な警告音を鳴らすほどに莫大な魔力を吸い上げ始めた。
両腕の粒子金属が再構築され、赤黒い破壊の光を放つ重魔導砲ファフニールが形成されていく。
「あの薄汚い地球の何がいい! 俺のすべてを否定しやがって! ならばここで、テメェのその腐った未練ごと、俺の火力で完全に灰にしてやる!」
ヴォルフが咆哮を上げ、今まさにファフニールのトリガーを引こうとしたその瞬間。
「まあ待てよ、ヴォルフ。そう熱くなるな」
横から伸びてきた分厚い手が、ヴォルフのファフニールの砲身を強引に上へと逸らした。
「チッ……! なにすんだ、レオン! 俺の獲物だって言ったはずだぞ!」
前に進み出てきたのは、帝国宰相レオン・バルバトスであった。
彼は豪快な笑みを浮かべながら、首の骨をゴキゴキと鳴らし、ジンに向かって歩みを進めた。
「お前が昔の上官殿に複雑な感情を抱いてるのはよくわかった。だがな、交渉が決裂した以上、こいつは帝国の敵だ。それに……」
レオンの全身から、空気を焼き尽くすほどの凄まじい熱量を持った、深紅の炎の魔力が立ち昇り始めた。
「筆頭魔導師であるこの俺の前で、随分と威勢のいい口を叩いてくれたじゃねえか、異邦人。特務親衛隊隊長のセスを一人で片付けたってのも、俄然興味が湧いてきたぜ」
レオンは腰に提げていた巨大な酒樽を地面に放り捨て、両手に幾重もの炎の魔法陣を展開した。
「ヴォルフ、お前は少し頭を冷やしてろ。皇帝陛下も、こいつがどれほどの力を持っているのか、見極めたいだろうからな。……まずはこの俺が、元隊長殿の実力とやらを、たっぷりと味見してやるよ」
圧倒的な炎の魔力と、極限まで研ぎ澄まされた粒子金属の冷気。
かつての戦友との決着の前に、帝国の最高戦力である炎の宰相が、凄まじい殺意を伴ってジンの前に立ち塞がった。
「誰が来ようと同じだ」
ジンは静かに高周波ブレードを引き抜いた。
血塗られた中立地帯のクレーターで、ついに帰還派と帝国の、全面的な死闘の火蓋が切られようとしていた。




