第33話:魔導師の絶望
闇に包まれたクレーターの斜面で、暗殺部隊の魔導師たちの断末魔が次々と途絶えていった。
極死の毒霧と精神を侵す幻術の結界は、彼ら自身の恐怖と混乱によって維持できなくなり、夜風に吹かれて徐々に薄れ始めている。
その薄れゆく霧の向こうから、一切の足音を立てず、ただ死の気配だけを纏って近づいてくる漆黒の装甲兵の姿。
「ひっ……! くるな……くるなぁぁぁっ!」
セス・オズワルドは、クレーターの縁の岩肌に背中を押し付け、無様に尻餅をつきながら後ずさった。
彼の周囲には、すでに動く部下は一人もいない。最強の暗殺魔法の使い手たちが、魔法の詠唱すら許されず、ただの物理的な刃によって喉を掻き切られ、物言わぬ肉塊へと変えられてしまったのだ。
ジンのバイザーの奥の瞳は、暗闇の中で青白く冷たく光っていた。
怒りも、憎しみもない。ただ、進むべき道の障害物を排除するだけの、完全な無機質。
その瞳を見た瞬間、セスの心の中で張り詰めていた最後のプライドの糸が、プツリと音を立てて千切れた。
「私を……特務親衛隊隊長である私を、コケにしおって……! 異界の獣ごときが、私の魔道を否定するなど、断じて許されることではない!」
セスは狂乱したように叫びながら、懐から禍々しい装飾が施された小さな黒い小箱を取り出した。
それは、ゲオルグ公爵から渡された古代の黒魔道具「暴食の泥匣」。
使用者の生命力と理性を代償に、無限の魔力と不死身の肉体を一時的に与えるという、帝国において使用が固く禁じられている呪われた遺物であった。
「喰らえ……! 私のすべてを喰らい尽くし、あの男に真の絶望を与えよ!」
セスが震える指で小箱の蓋を開け放った瞬間。
中から、底なしの泥沼のような漆黒の魔力がドロリと溢れ出した。
それは瞬く間にセスの両手を覆い、腕を這い上がり、彼の肉体そのものを内側から侵食し始めた。
「がああああああっ!?」
セスの絶叫が、夜の荒野に響き渡る。
彼の端正な顔の皮膚がドロドロに溶け落ち、その下から無数の巨大な赤い眼球が蠢きながら浮かび上がった。人間の骨格がメキメキと音を立てて砕け、巨大な黒い肉の塊へと再構築されていく。
背中からは毒液を滴らせる何本もの太い触手が伸び、口は耳まで裂けて鋭い牙がびっしりと生え揃った。
わずか数十秒の間に、特務親衛隊隊長セス・オズワルドの姿は跡形もなく消え失せ、体長五メートルを超える、おぞましい黒泥の異形へと成り果てていた。
「ギィルルルル……ォォォォォォォッ!!」
理性を完全に失った怪物が、空に向けて咆哮を上げる。
その声には、セスの抱えていた嫉妬と絶望が、呪詛となって幾重にも重なり合っていた。
怪物から放たれる圧倒的な魔力の重圧で、周囲の岩がミシミシとひび割れ、地面の草木が一瞬で枯れ果てる。
ジンはそのおぞましい変貌の過程を、数メートル離れた場所から静かに見つめていた。
「……愚かな。自ら未確認生命体に成り下がるとはな」
ジンの声には、同情の欠片もなかった。
地球の防衛軍において、ジンはこれよりも遥かに巨大で、理不尽な力を持つ怪物たちと数え切れないほどの死闘を演じてきた。
恐怖などない。ただ、目の前の敵をいかに効率的に、自らのリソースを消費せずに解体するか。彼の脳内は、それだけを処理する冷徹な演算装置へと切り替わっていた。
「グルァァァァッ!」
怪物が、ジンを視界に捉え、巨体に似合わぬ凄まじい速度で襲いかかってきた。
六本の太い触手が鞭のようにしなり、全方位からジンを叩き潰そうと迫る。さらに、怪物の裂けた口からは、触れた岩石すら溶かす高濃度の酸のブレスが放射された。
「スラスター起動。推力30パーセント」
ジンは一切の無駄を省いた動きで、迫り来る触手の隙間を縫うようにして横へと跳躍した。
酸のブレスがジンのいた場所を直撃し、地面がジュージューと音を立ててドロドロの沼に変わる。
空中に逃れたジンに対し、怪物はさらに追撃の触手を突き出してきた。
ジンはウェポンラックから高周波ブレードを引き抜いた。
装甲のパージは行わない。大太刀「ムラサメ」を使えば一撃で終わるだろうが、こんな理性を失っただけの肉塊に、帰還のための貴重なエネルギーと装甲の耐久値を消費する価値はない。
「硬さは……ただの泥か。なら、切断は容易だ」
ジンは空中で体を捻り、真っ直ぐに向かってきた触手の先端を、ブレードで斜めに斬り飛ばした。
ズチャッ、という鈍い音と共に、黒い泥の触手が切断されて地面に落ちる。
「ギィャァァァァッ!」
怪物が痛みに狂ったように暴れ回り、残る触手を乱れ打ちにする。
しかし、ジンの動きは完全に怪物の攻撃パターンを凌駕していた。
彼は着地するや否や、岩肌を蹴って怪物の懐へとジグザグに接近していく。
右から迫る触手をスラスターの微細な噴射で紙一重で躱し、左から迫る触手をブレードの腹で受け流して軌道を逸らす。
泥のような肉体ゆえに、怪物の攻撃には明確な「タメ」と「予備動作」が存在する。ジンはバイザー越しのセンサーと自らの直感でその筋肉の動きを完全に読み切り、攻撃が届くコンマ一秒前にその場所から離脱していた。
「無駄に魔力を振り回しているだけだ。当たらなければどうということはない」
ジンは怪物の真正面へと潜り込み、その巨大な胴体に向かって高周波ブレードを横一文字に振り抜いた。
超高速の振動刃が、怪物の腹部を深く切り裂き、黒い泥のような血液が大量に噴き出す。
だが、怪物は倒れなかった。
切り裂かれた傷口の奥で、無数の赤い眼球がギョロリと動き、黒い泥がうねって数秒で傷を完全に修復してしまったのだ。
「ギギギギギ……!」
怪物の腹部から、セスの顔の半分だけが浮かび上がり、嘲笑うように歪んだ。
「再生能力か。古代の魔道具とやらの恩恵らしいが……必ず核があるはずだ」
ジンは後方にバックステップを踏み、怪物の反撃の酸ブレスを躱した。
どんな強力な再生能力を持つ怪物であっても、それを機能させるためのエネルギーの供給源、すなわち「魔力の核」が必ず存在する。
ジンはPM-ギアの生体センサーを魔力探知モードに切り替え、怪物の巨大な肉体をスキャンした。
(全身に魔力が分散している。……いや、違う。泥の循環の起点になっている場所がある)
ジンの視界に、怪物の右肩の奥深くで、一際強い魔力の光を放つ鼓動の起点が映し出された。
「見つけた」
ジンはアサルトライフルを構え、怪物の頭部、無数の眼球が密集している顔面に向かってフルオートで徹甲弾を撃ち込んだ。
ダダダダダダダッ!!
「ギャピャァァァァッ!!」
物理的な弾丸によって眼球を次々と潰され、怪物は視界を失って激しく頭を振り乱した。
その隙を突き、ジンはスラスターを全開にして一気に跳躍した。
怪物の頭上を飛び越え、その右肩の背後へと着地する。
「ギルルッ!?」
怪物が異変に気づき、背中の触手をジンに向けて振り下ろそうとする。
だが、遅い。
「これで終わりだ」
ジンは高周波ブレードを逆手に持ち替え、怪物の右肩の奥、魔力の循環の起点となっている場所へ向かって、自らの体重を乗せて真上から深々と突き立てた。
「システム・オーバーライド。ブレード振動、最大出力」
ブゥゥゥゥンッ!!
刃から発せられる超高周波の振動が、怪物の肉体の奥深くに隠されていた古代の小箱「暴食の泥匣」そのものを直撃し、粉々に粉砕した。
「ガ……アアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」
核を破壊された怪物の全身に、致命的な亀裂が走った。
維持されていた魔力の結合が崩壊し、黒い泥が沸騰したように泡立ち始める。
怪物は狂ったように四肢を振り回し、自らの肉体を掻きむしりながら、クレーターの縁を転げ回った。
ジンはブレードを引き抜くと同時に大きく後方へと跳び退き、怪物の断末魔の暴れから完全に距離を取った。
「……私の……私の……栄光が……!」
崩壊していく泥の中から、セスの元の顔が一瞬だけ浮かび上がった。
その顔は、もはや恐怖も野心もなく、ただひたすらに己の愚かさを呪う涙に濡れていた。
「私は、ただ……誰よりも高く……飛びたかっただけなのに……!」
セスの最期の言葉は、ジンには届かなかった。否、届いていたとしても、ジンにとっては何の感情も揺さぶられない、敗者の無意味な戯言に過ぎなかった。
ドシュウゥゥゥゥ……。
セスの肉体は完全に融解し、真っ黒な灰の山となって荒野の風に吹き飛ばされていった。
ガルディア帝国特務親衛隊隊長、セス・オズワルド。
他者を妬み、罠にはめ、禁忌の力に手を出した男の末路は、誰に看取られることもなく、歴史の闇に無様に消え去るという虚しいものであった。
「……周囲の魔力反応、完全に消失。片付いた」
ジンはブレードについた泥を振り払い、鞘に収めた。
彼のPM-ギアの装甲には、怪物の返り血一つ、傷一つついていない。
これが、地球の過酷な戦場を生き抜いてきたプロフェッショナルと、力に溺れただけの魔導師との、覆すことのできない絶対的な実力差であった。
ジンは防毒マスクのフィルターをパージし、深呼吸をしてから、クレーターの底にいる東郷の方を振り返った。
「ネズミの掃除は終わった。そっちの計算はどうだ、博士」
「上々だとも。君の素晴らしい解体ショーの間に、次元座標の同期は三パーセントほど進んだよ」
東郷は相変わらず端末から目を離さずに答えた。
ジンは再びクレーターの縁へと向き直り、油断なく周囲を警戒した。
セスの夜襲は、所詮は前座に過ぎない。
本命は、これからやってくる。
ジンの生体センサーが、遠くの平原から急速に近づいてくる、巨大で凶悪なエネルギーの波長を捉え始めていた。
それはセスのような小手先の魔法ではない。
大気そのものを焦がし、空間を圧迫するような、純粋で圧倒的な暴力の気配。
「……来たか」
ジンの瞳が、かつてないほど鋭く細められた。
地平線の向こうから、夜明け前のわずかな光を背にして、地鳴りのような軍馬の蹄の音と、重厚な装甲の駆動音が響いてくる。
数千の帝国軍の精鋭を率いて、伝説の黒騎士と炎の宰相が、ついにこのクレーターへと到達しようとしていた。
過去の因縁と、互いの譲れない目的が激突する、本当の死闘の幕が、今まさに切って落とされようとしていた。




