第32話:這い寄る敗北者
聖大陸エルドラへの転移から三十一日目。
光の柱が天を貫いた翌日の深夜、中立地帯の平原は厚い雲に覆われ、二つの月の光すら届かない完全な暗闇に包まれていた。
巨大なクレーターの縁に広がる荒野。風が吹き抜けるたびに、ひび割れた大地から乾いた土くれが転がり、不気味な音を立てる。
その漆黒の荒野に、地面を這うようにして展開している数十の影があった。
ガルディア帝国特務親衛隊隊長、セス・オズワルドが率いる直属の暗殺部隊である。
「……ヴォルフの先陣部隊が到着するまで、あと数時間というところか。急がねばならん」
セスは岩陰に身を潜め、冷や汗を拭いながらクレーターの底を睨み下ろしていた。
地下遺跡の最深部で、セスはジン・クロサワの放った規格外の斬撃を目の当たりにした。巨大な古代ゴーレムを、魔法の詠唱すらなく一刀両断する異常な刃。そして、自分の放った極大黒魔法を単なるナイフで切り裂き、圧倒的な殺気で自分を這いつくばらせた修羅の瞳。
思い出すだけで、セスの膝はガクガクと震え、腹の底から嘔吐感が込み上げてくる。
だが、恐怖は同時に、彼を破滅的な功名心へと駆り立てていた。
もしこのまま逃げ帰り、ヴォルフがあの化け物を討ち取ってしまえば、セスの居場所は帝国から完全に失われる。ゲオルグ公爵も「無能な捨て駒」として自分を切り捨てるだろう。
それを防ぐためには、ヴォルフが到着する前に、自分の手でジンを始末し、「皇帝陛下を脅かす未知の敵を私が処理しました」と報告するしかない。
(奴のあの見えない太刀は、確かに常軌を逸している。だが、所詮は物理的な近接戦闘に過ぎない。距離を取り、姿を見せずに削り殺してしまえば、どれほど強力な刃だろうと当たることはないのだ)
セスの薄暗い瞳に、卑劣で陰湿な光が宿る。
彼は背後に控える黒装束の魔導師たちに、手信号で命令を下した。
「風を読め。クレーターの底へ向かって、極死の毒霧を流し込む。奴の肺を腐らせ、手足を溶かしてやれ」
魔導師たちが一斉に地面に魔法陣を描き始める。
詠唱と共に、彼らの杖の先からどす黒い紫色の煙が噴出し始めた。それは風に乗り、粘り気のある蛇のように地を這いながら、クレーターの斜面を滑り落ちていく。
帝国の暗殺魔法「黒き死の吐息」。吸い込めば数秒で内臓が融解し、皮膚に触れるだけでも激しい火傷を負う凶悪な毒ガスである。
さらに、セスは自らの杖を地面に突き立て、高度な精神干渉魔法を紡ぎ出した。
「毒だけでは、あの化け物は死なないかもしれん。視覚と聴覚を奪い、過去のトラウマを呼び起こす幻術の結界を展開しろ。奴が狂乱し、闇雲に剣を振り回して疲弊するのを待つ」
毒霧の層に、セスの放つ幻術の魔力が混ざり合う。
それは周囲の空間の光を捻じ曲げ、不気味な幻影と耳障りな囁き声を産み出す、完全な死の罠であった。
一方、クレーターの底。
東郷創一は相変わらずコンソールにかじりつき、魔力脈のエネルギーを座標計算に変換する作業に没頭していた。
ジン・クロサワは、その傍らで静かに胡座をかき、目を閉じていた。
しかし、彼のPM-ギアの生体センサーは、周囲数百メートルの微細な環境変化を完全に捕捉している。
『警告。大気中に高濃度の腐食性毒素を検知。接近中』
バイザーの奥のモニターに赤い警告が表示された瞬間、ジンは無言で立ち上がった。
「……防護マスクをつけろ、博士。空気が悪くなる」
ジンが短く告げると同時に、彼自身のPM-ギアの首元から完全密閉用のシールドが展開し、外部の空気を完全に遮断した。内部の循環システムが起動し、微細な粒子フィルターが作動する。
「ほう。化学兵器による遠距離攻撃か。あの逃げ帰った小悪党め、自分が死にかけておきながら、随分と未練がましいことだ」
東郷は白衣のポケットから防毒マスクを取り出して装着し、全く動揺する様子もなくキーボードを叩き続けた。
「私の計算が終わるまで、あと三十時間はかかる。それまでこの端末に傷一つつけないでくれたまえよ、ジン」
「言われるまでもない」
ジンはウェポンラックからアサルトライフルを引き抜き、静かにクレーターの斜面へと向き直った。
斜面の上方から、音もなく、どす黒い紫色の霧が滝のように流れ落ちてくる。
それは瞬く間にクレーターの底を覆い尽くし、ジンの視界を完全にゼロにした。光学センサーも、赤外線センサーも、濃密な魔力の霧によって激しいノイズに晒され、機能不全に陥る。
そして、毒霧の中から、聞こえるはずのない声が響き始めた。
『……あなた、どうして……』
『お父さん、痛いよ……助けて……』
ジンの背筋が、一瞬だけ硬直した。
サエの悲しげな声。リクの泣き叫ぶ声。
毒霧の向こう側に、血を流して倒れている妻と息子の幻影が、ゆらゆらと浮かび上がる。
『なぜ、私たちを置いていったの……』
『見捨てないで……』
それは、ジンが心の奥底に封じ込めている、最も恐れる悪夢であった。自分がこの世界で死ねば、家族は地球で自分を待ちながら絶望に暮れることになる。その罪悪感をピンポイントで抉り出す、悪辣な精神攻撃。
だが。
「……三流の幻術だな」
ジンの声には、怒りすらこもっていなかった。ただ、極度の冷徹さだけがあった。
彼は目を閉じ、視覚と聴覚から入ってくる情報を完全にシャットアウトした。
PM-ギアのセンサーが使えないのなら、頼るべきは自らが仕掛けた「物理的な罠」の反応だけだ。
ジンはインナーの胸元にある写真の感触を思い出しながら、冷たい機械のように思考を切り替えた。
俺の家族は、こんな安っぽい言葉で俺を責めたりはしない。サエもリクも、俺が必ず帰ってくると信じて待っている。
だからこそ、こんな偽物に惑わされる理由など微塵もない。
『うわあああっ! 隊長、助けてくれ!!』
今度は、幻影が姿を変えた。
地球の戦場で命を落とした、かつての部下たちの幻影だ。彼らが未確認生命体に食い殺されながら、ジンに向かって手を伸ばしている。
幻影の兵士が、ジンの胸倉を掴もうと飛びかかってくる。
しかしジンは、その幻影に向かってアサルトライフルの引き金を引くような無駄な真似はしなかった。彼は幻影が自分の体を通り過ぎるのを微動だにせずに待ち、その直後、足元の地面に備え付けられていたワイヤーの張力計の僅かな変動を感知した。
(斜面、十二時の方向。距離五十メートル。第三ワイヤーに接触)
暗殺部隊の魔導師の一人が、毒霧と幻術に紛れて斜面を下り、ジンの背後を取ろうと忍び寄っていたのだ。しかし、彼の足はジンが仕掛けておいた極細の高張力ワイヤーに触れていた。
ジンはアサルトライフルを構えもせず、ただ左手のガントレットの小型スイッチを弾いた。
カチッ。
斜面の中腹で、小さな起爆音が響いた。
直後、指向性対人地雷が炸裂し、無数の鋼鉄の散弾が扇状に放たれる。
「ぎゃああああっ!!」
幻術の背後で、リアルな悲鳴が上がり、生暖かい血の匂いが毒霧に混ざった。
肉体を蜂の巣にされた魔導師が、クレーターの斜面を転げ落ちてくる。
(次。九時の方向、距離四十メートル。第四ワイヤー)
ジンは再びスイッチを弾く。
ドォォォンッ!
「ぐあっ……!」
罠に気づく間もなく、二人目の暗殺者が爆発に吹き飛ばされ、四肢を失って絶命した。
クレーターの縁からそれを見ていたセスは、信じられない光景に顔を引きつらせた。
「ば、馬鹿な! 幻術が効いていないのか!? なぜ毒霧の中で、部下たちの正確な位置がわかる!」
セスの理解の範疇を超えていた。魔法という万能の力に依存しきっている彼らには、ワイヤーや地雷といった原始的で物理的なトラップの存在を感知する術がないのだ。
「構わん! 結界を維持しつつ、全方位から黒炎を撃ち込め! 奴は目が見えていないはずだ、適当に撃っても当たる!」
セスの怒号を受け、生き残っている暗殺部隊が斜面のあちこちから、漆黒の炎の魔法弾を乱れ撃ちにし始めた。
毒霧の闇の中から、無数の黒い火球がジンのいる火口付近へと降り注ぐ。
しかし、ジンはすでに移動していた。
最初の地雷を起爆させた直後、彼は音もなくその場から離脱し、暗殺者たちの放つ火球の射線から完全に逃れていた。
彼はクレーターの斜面に点在する岩陰を縫うようにして、逆に暗殺者たちのいる方向へと斜面を登り始めていたのだ。
「どこだ! どこに消えた!」
暗殺者の一人が、火球を放ちながら周囲を見回す。
その背後の岩の影から、ぬらりと漆黒の装甲が立ち上がった。
「ひっ……!」
暗殺者が悲鳴を上げるより早く、ジンの高周波ブレードがその喉元を正確に薙ぎ払った。
血しぶきが毒霧の中に散り、男は声も出せずに崩れ落ちる。
ジンは足を止めることなく、次の獲物へと向かう。
完全な視界不良の毒霧の中は、むしろ彼にとって最高の狩場であった。相手が放つ魔法の光と詠唱の音が、彼らに自らの位置を知らせる強烈なビーコンとなっているのだ。
スッ……。
また一人、背後から心臓を貫かれて倒れる。
ドスッ。
別の暗殺者の頭部に、闇の中から飛来したサバイバルナイフが深々と突き刺さる。
「ヒィィッ……! 悪魔だ、見えない悪魔がいる!」
暗殺部隊は完全にパニックに陥った。
彼らが展開した毒霧と幻術は、ジンを追い詰めるどころか、自分たち自身の首を絞める結果となっていた。姿を見せない殺意が、一人、また一人と確実な死をもたらしていく。
クレーターの縁で、セスは次々と途絶えていく部下たちの魔力反応に、絶望の叫びを上げた。
「おのれ……! おのれぇぇぇっ! なぜだ、なぜ私の完璧な魔法が、あんな野蛮な剣術ごときに通用しないのだ!」
セスは爪を噛み、ギリギリと歯を鳴らした。
暗殺部隊はすでに半数以上が壊滅し、残りの者たちもジンの狩りの前に恐怖で身動きが取れなくなっている。
このままでは、ジンを殺すどころか、自分自身が闇の中から首を掻き切られるのは時間の問題だった。
「こうなったら……もはや後戻りはできん。あの力を使うしかない……!」
セスの手が、懐の奥に隠し持っていた、禍々しい装飾が施された小さな黒い小箱へと伸びた。
それは、ゲオルグ公爵から「いざという時のための奥の手」として渡されていた、帝国において使用が固く禁じられている古代の黒魔道具であった。
「……私の誇りを、私の地位を奪おうとする者は、この世のすべてを呪い殺す毒に沈めてやる!」
セスの瞳から、理性の光が完全に消え失せた。
這い寄る敗北者は、己の命と引き換えにしてでもジンを殺すため、引き返せない破滅の引き金を引こうとしていた。




