第28話:戦火の火蓋
聖大陸エルドラへの転移から二十八日目。
両国の境界に広がる広大な中立平原は、この日、この世界が始まって以来の、最も巨大で凄惨な地獄と化していた。
「撃てェェェェッ! 偽善者どもの白い盾を、すべて砕き割れ!」
ガルディア帝国の将軍が剣を振り下ろすと同時に、平原の西側を埋め尽くす数万の黒魔術師たちが、一斉に天に向けて杖を突き上げた。
彼らの頭上に展開された幾千もの巨大な魔法陣から、禍々しい漆黒の炎と、岩石の雨が降り注ぐ。それは空を完全に黒く塗りつぶし、大気を焦がし、絶望的な豪雨となって東の陣営へと殺到した。
「怯むな! 聖なる光は、決して邪悪な闇に屈しはしない! 第一から第五防壁、最大出力で展開せよ!」
対する平原の東側。ルミナス王国の最前線要塞「暁の盾」の城壁の上で、神殿騎士団の指揮官が叫ぶ。
純白の法衣を纏った数千の神官たちが、両手を胸の前で強く組み、祈りの歌を合唱する。その声が一つに重なり合った瞬間、要塞と王国軍の陣地全体を覆うように、巨大で分厚い白銀の光のドームが立ち上がった。
ドゴォォォォォォォッ!!
黒の豪雨と白の防壁が激突した瞬間、太陽すらも霞むほどの強烈な閃光と、鼓膜を破るような轟音が戦場を支配した。
魔法と魔法の純粋な質量のぶつかり合い。衝撃波が平原の土をえぐり飛ばし、巻き上げられた土煙が巨大な竜巻となって天を突く。
防壁の表面では黒い炎が爆発し、聖なる光がそれを中和していく。しかし、帝国軍の攻撃は休むことなく波状的に押し寄せ、光のドームは次第にミシミシと悲鳴のような亀裂の音を立て始めた。
「防壁に亀裂が! 魔力供給が追いつきません!」
神官の一人が血を吐いて倒れ伏す。
その直後、ついに防壁の一部が砕け散り、黒い火球が要塞の城壁に直撃した。
「ぎゃああああっ!」
白銀の甲冑を着た騎士たちが、炎に包まれて空へ吹き飛ばされる。
防壁が破られた穴から、帝国軍の重装歩兵や、凶悪な魔獣に跨った騎兵部隊が、怒涛の雪崩となって王国軍の陣地へと雪崩れ込んできた。
剣と槍が交わり、血しぶきが舞い散る。
生身の人間同士の殺し合い。そこには美学も正義もなく、ただ相手を殺さなければ自分が殺されるという、泥沼の殺戮だけがあった。
その無秩序な戦場を、物理法則を無視した圧倒的な暴力で蹂躙していく影があった。
「遅え! 遅えよテメェら! その程度の盾で、俺の火力を防げると思ってんのか!」
戦場の最前線、帝国軍の先陣を切って突撃しているのは、漆黒の外套を翻すヴォルフ・シュナイダーであった。
彼はPM-ギアの出力を全開にし、両腕に巨大な重魔導砲ファフニールを形成している。
「ジェネレーター直結! 灰燼に帰せ……ファフニール!」
ヴォルフが両腕の砲身を交差させるようにして放った赤黒い極太の閃光は、王国軍が誇る重装騎士団の密集陣形を、まるで熱したナイフでバターを切るように一瞬で真っ二つに分断した。
彼らが掲げていた聖なる魔法盾も、ミスリル製の強固な甲冑も、ファフニールの規格外のエネルギーと魔力の融合の前には、一切の抵抗を許されずに蒸発していく。
「ハハハハハハハッ!! 吹き飛べ! 全部消し飛んじまえ!」
ヴォルフの哄笑が、爆発音を掻き消して響き渡る。
彼は背部のスラスターを吹かして戦場を縦横無尽に飛び回り、次々と王国の防衛陣地を粉砕していった。
彼が通り過ぎた後には、深く抉れた黒焦げのクレーターと、もはや原型を留めていない残骸だけが残される。
「黒騎士様だ! 我らが黒騎士様に続けェッ!」
ヴォルフの圧倒的な破壊力に熱狂した帝国兵たちが、狂気じみた歓声を上げて彼の後ろに続く。
彼にとって、この戦場は最高の舞台だった。自分の存在が、ただの破壊の力という一事のみで、何万という人間に肯定され、称賛される。
地球でどれほど望んでも手に入らなかった「絶対的な承認」が、敵を殺せば殺すほど自分に注がれていく。その爽快感と万能感は、魔力変換の負荷すらも麻痺させるほどの極上の麻薬であった。
しかし、その狂騒の地獄の中で、たった一人、怒りと焦燥に唇を噛み締めながら戦場を駆け回っている白銀の影があった。
「スラスター起動! 思考加速……!」
シオン・ミカゲは、PM-ギアの機動力を限界まで引き上げ、戦場を文字通り音速で駆け抜けていた。
彼女の右手には、大気中の魔力を収束させた巨大な閃光の騎槍、ロンギヌスが握られている。
「そこを退きなさい!」
シオンは、倒れ込んだ王国の兵士にトドメを刺そうとしていた帝国の重装歩兵の懐に一瞬で潜り込み、ロンギヌスの柄で相手の胸当てを強打して吹き飛ばした。
殺すためではない。敵の行動を無力化し、味方の命を救うための最小限の一撃。
「大丈夫ですか! すぐに後方の治療部隊へ!」
シオンは傷ついた兵士を抱え起こし、後方へと突き飛ばすようにして逃がした。
「シオン殿! 右翼の防衛部隊が崩突されました! このままでは要塞の門が破られます!」
血まみれのルカ・エヴァンズが、白魔法の杖で帝国の火球を弾き落としながら叫んだ。
「行かせません!」
シオンは踵を返し、右翼で暴れ回っていた帝国の攻城魔獣(巨大なサイのような姿をした化物)へと向かって一直線に突撃した。
「貫け……ロンギヌス!」
シオンの放った一点突破の閃光が、攻城魔獣の分厚い魔法の皮膚を紙のように貫き、その巨体を一撃で沈黙させる。
しかし、シオンの顔に安堵の色はない。
彼女が一体の魔獣を倒し、一人の兵士を救っている間にも、戦場のあちこちで何百という命が失われていく。
ルミナス王国の古き賢者たちによって、囮としてこの「暁の盾」に配置されたシオンとルカの部隊は、圧倒的な物量で押し寄せる帝国軍の波を前に、完全に孤立無援の状態に陥っていた。
(なぜ、本隊の援軍が来ないの! このままでは、ここにいる全員が殺されてしまう!)
シオンは焦燥感に駆られながら、次から次へと襲い来る敵をロンギヌスで弾き飛ばしていく。
彼女は自分の力を、人々を守るための正義の盾にすると誓った。しかし、この大規模な戦争というシステムの前では、個人の武力など砂浜に一滴の水を垂らすようなものに過ぎない。
守りたくても、手が足りない。救いたくても、命が指の間からこぼれ落ちていく。
地球で未確認生命体と戦っていた時の、あの無力感と絶望が、再び彼女の心を黒く浸食し始めていた。
その時だった。
シオンの鋭敏な感覚が、戦場の遥か前方から、異常な質量のエネルギーが急激に膨張しているのを察知した。
それは帝国の黒魔法でも、王国の白魔法でもない。
彼女自身の纏っているPM-ギアと同じ、粒子金属の強制圧縮と、そこから生み出される桁外れの破壊の波長。
「……まさか」
シオンは弾かれたように顔を上げ、帝国の軍勢の奥深くを凝視した。
同時に、帝国軍の先陣で狂ったようにファフニールを乱射していたヴォルフもまた、ピタリと動きを止め、王国軍の陣地の方角へと顔を向けた。
何万という兵士の怒号、魔法の爆発音、血の匂いが充満する混沌の戦場。
その中心で、二人の視線は、光学バイザー越しに、数百メートルの距離を隔てて完全に交錯した。
赤黒い閃光を放つ巨大な砲身を構えた、漆黒の装甲兵。
白銀の光を放つ巨大な騎槍を構えた、純白の装甲兵。
「……ヴォルフ……! あなたが、帝国の先陣を……!」
シオンの瞳が見開かれ、声が震えた。
かつて背中を預け、共に地球への帰還を誓い合った仲間。地球では上官の命令に反発しながらも、決して部下を見捨てなかったあのヴォルフが、今や帝国軍の先兵として、彼女の守るべき人々を無慈悲に虐殺している。
一方のヴォルフも、シオンの姿を捉え、その顔に驚愕と、やがて獰猛な笑みを浮かべた。
「へっ……。なるほどな、王国が誇る聖騎士様ってのは、お前のことだったかよ、シオン」
ヴォルフは両腕のファフニールの照準を、ゆっくりと、明確な殺意を持ってシオンの方角へと合わせた。
「悪いがな、俺はもう昔の俺じゃねえ。俺の覇道を邪魔する奴は、誰であろうと容赦はしねえ。お前のその綺麗事ごと、まとめて灰にしてやるよ!」
ヴォルフのコアユニットが激しく脈動し、ファフニールの砲口に、これまでで最大級の破壊エネルギーが収束していく。
それが放たれれば、シオンだけでなく、彼女の背後にいるルカや傷ついた兵士たちもろとも、要塞の城壁ごと消し飛ぶことは明白だった。
「やめなさい、ヴォルフ!!」
シオンはルカたちを背中で庇うようにして、自らの命を燃やすようにロンギヌスの出力を限界まで引き上げた。
防御を完全に捨て、ヴォルフの砲撃を正面から突き破って彼自身を貫くための、決死の特攻の構え。
二人の放つ異常なエネルギーの奔流に、周囲で殺し合っていた両軍の兵士たちすらも、恐怖に顔を引きつらせて後退りする。
撃鉄が、落とされる寸前。
ドドドドドォォォォォォンッ!!!
突如として、ヴォルフとシオンの中間地点。血塗られた平原の大地が、内側からの凄まじい圧力によって大爆発を起こした。
「なっ……!?」
「きゃあっ!」
爆発は魔法によるものではなかった。
数百メートルの範囲にわたって、平原の地盤そのものが巨大なクレーターとなって陥没したのだ。
あまりの規模の地盤崩落に、ヴォルフは放とうとしていたファフニールの反動を制御できず、砲線を大きく上空へと逸らしてしまった。赤黒い閃光は天を切り裂き、分厚い雲を吹き飛ばして彼方へと消えていく。
シオンもまた、足場を失って崩落の波に飲み込まれそうになり、ルカに腕を掴まれて間一髪のところで後方へと退避した。
巻き起こった猛烈な粉塵と土砂の雨が、両軍の視界を完全に奪い去る。
「なんだ!? 一体何が起きた! 敵の罠か!?」
ヴォルフがスラスターを吹かして空中に逃れながら、毒づく。
彼が眼下に見たものは、王国の魔法などではない。
陥没した巨大な大地の底、果てしない暗闇の深淵から、青緑色の不気味な光が、脈打つように漏れ出している光景だった。
そして、その崩落の余波によって生じた巨大な亀裂は、ヴォルフとシオンの間に、絶対に越えられない巨大な深い谷底を作り出していた。
直接の激突は、この予期せぬ大地の崩壊によって、間一髪のところで回避されたのだ。
「チッ……。運のいい女だ。だが、次会った時は必ずお前のその白い装甲をブチ抜いてやる」
ヴォルフは舌打ちをし、一旦部隊の態勢を立て直すために、スラスターを吹かして帝国軍の後方へと一時撤退していった。
シオンは荒い息を吐きながら、土煙の向こうへ消えていく黒い影を、悲痛な目で見つめていた。
(ヴォルフ……。私たちは本当に、殺し合わなければならないの……?)
戦場の熱は、大地の崩壊によって一時的な小康状態を迎えた。
しかし、誰も気づいていなかった。
この巨大な地盤崩落が、自然現象などでは決してないということに。
平原の地下数百メートル。
暗闇の古代遺跡の最深部において、ジン・クロサワの放った大太刀『ムラサメ』の規格外の一撃が、遺跡の防衛隔壁を物理的に両断し、その余波が地盤を粉砕して地上へと伝わった結果であることを。
そして同時に、帝国軍の遥か後方では、ゲオルグ公爵の密命を受けたセス・オズワルドが、薄暗い笑みを浮かべながら、ヴォルフへの魔力支援と補給線を完全に切断する命令を下していた。
「さあ、孤立無援の英雄の最期だ。存分に絶望を味わうがいい」
地上での陰謀と、地下からの帰還への刃。
二つの次元で同時に蠢く見えない毒牙が、戦場の行方をさらに混沌とした地獄へと引きずり込もうとしていた。




